第1話 その狐、のじゃロリにつき
翌朝、心地よいまどろみの中で目が覚める。
もふもふした毛布の中でぽえぽえしながらぐっと背伸びをする。
ぐしぐしと耳を頭の後ろから前へ撫でて、しばらくボーっとする。
なぜだか朝から体がぽかぽかしている。何か甘いようで心地よい、狐の匂いと違うものが体から漂ってくる。不思議に思ってスンスンと鼻をならして確認した。
狐の匂いが無いのはなんだか不安になるが、これはこれで心地よい。
「──いやー、参りましたよ。こんなことになるとは」
「あの娘、おねしょだなんてね。さっきお風呂に入れてあげたのにずっと寝てたよ。ふふふ」
開いていた窓から声がするので外を覗いてみると、昨日の弓男と少女が白くて大きなひらひらした物を棒に引っ掛けていた。
柔らかくて甘い匂いの片隅に狐の尿の匂いがする気がする。
「まさか、あの娘、トイレとかそういうのがわからないわけじゃないですよね?」
「うーん、どうだろ? あとで連れて行ってあげなきゃね──うん?」
視線に気付いたのか、二人がこちらを向いたので慌てて顔を引っ込める。
また毛布の上に陣取って、森でいつもしていたようにお澄ましする。
森では獲物を捕る以外に寝るかこうしているかしかなかった。
家の中に戻ってきた二人が、きりっとしている狐を見て笑顔を見せる。
「──お兄ちゃん、見て見て。なんか可愛い!」
手足と体が前より長く大きくなったので少々慣れなかったが、前と同じ姿勢をしたつもりだった。
両足の踵を床につけて座って、両腕を伸ばして手の平も床につけようとして届かず、なぜだかとても苦しい。
ぐぬぬ、と手を伸ばし続けるが姿勢が保てずコロンと後ろに転がった。
少女が側に来て狐を持ち上げてソファーに座らせてくれた。
「まだ自分のことをフォックステイルだと思い込んでいるのではないでしょうかね?」
「やーん、かわいい!」
スリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリスリ──。
狐の目の前にしゃがんだ少女に抱き締められ、頬を擦り付けられる。その摩擦で熱くなってきた。
「──んあ!」
少女の体に腕を突っ張り、遠ざける。
自分の喉から、聞きなれない声が出た気がする。
明らかに獣の声とは違うが、なんだかわからない。
「なんか構い過ぎて機嫌を損ねた猫と飼い主みたいですね」
「──んあ!」
また腕を突っ張って声を上げた。
朝食の前にモジモジしていると、少女に尿と糞の混じった臭いのする小部屋に連れて行かれ、昨日着せられた皮を脱がされ、座らされた。
鼻が曲がりそうだったが、ここ以外から糞尿の臭いがしない。
家を綺麗にするなら一箇所にするのが良いとは思うが、縄張りを主張する時、人間はどうしているのだろう?
──考えているうちにすっきりした。
朝ご飯を食べて毛布に陣取り、またまどろみの中にいると、弓男が何やらカチャカチャと騒がしい。
耳だけを向けるのを止めて頭を向けると、弓男が弓を背中に背負っていた。
「フィリア、夕方には戻ります。またちょっと狩りに行ってきます」
「お兄ちゃん、フォックステイルは駄目だからね!」
「……わかりましたよ」
弓男が狐のほうをちらりと見て、ため息をついた。
ゆっくりと弓男が近付いて来て、狐の側でしゃがみ込む。
先ほど少女がやったように顔を近づけて来たので、腕を突っ張る。
「んあ!」
突っ張った手が弓男の顔に当たる。
「ふふふ、お兄ちゃんってば!」
「僕にもさせてくれても良いと思いません?」
「んあ!」
はっきりとお断りします。
「あ、そうだ。私も薬草を採りに行きたかったから一緒に行かない?」
「それじゃあ、この娘はどうします……?」
「うーん、連れて行こう! お昼の準備するからもう少し待てる?」
「ええ、まぁ」
「じゃあ、ちょっと待っててね!」
少女がキッチンへ消えていった。
獲物を探さなくてもご飯に有り付けるので、狐としてはここにいる限り何もやることがない。
ぐーたら生活を満喫できる。
いつものようにひもじい思いをして野山を駆け回る必要もないのだ。
まどろんでいると、脇の下に手を入れられて持ち上げられ、立たされた。
不服な顔で訴えるが、少女は意に介さないようだ。
方足ずつ持ち上げられて布を巻かれた。人間たちは足に何かを付けていて、肉球が直接地面に触れないようにしているのを良く見るが、足の感覚が鈍らないのだろうか──そう言えば、狐も今は肉球がなくなっているのだった。
「じゃあ、行こうか?」
毛布を掴もうとした手が宙を掴み、少女に引っ張られていく。
家の外に出ると、弓男が待っていた。
正直弓男はどうでも良かったので、初めてみる風景を見回す。
人間の町の近くには住んでいたが、中に来るのは初めてだった。
木で作られた家と石で作られた家が並んでいる。
目の前を蝶が飛んでいたので思わずふらふらと付いて行こうとすると、弓男に持ち上げられ、肩に座らされた。
弓男の頭が目の前にあるので少々臭いが、眺めが良いのでそれには目を瞑ることにする。
「鍵も掛けたし、行こう!」
少女は言うと一足先に歩き始めた。
弓男が歩き始めると、視界が大きく上下する。
降りようとするが足をがっちりと押さえられているため逃げることができない。
しばらくもがいたが無理だとわかったので諦めた。
ふと見ると、いつもは見上げることしかできない、木に咲いた花が同じ高さに有った。
思わず手を伸ばし、一つだけ引き千切る。
「あ、こら」
「一つくらい良いんじゃない? あ、そうだお兄ちゃん。ちょっとしゃがんで?」
視界がガクンと下がる。弓男が膝をついたようだ。
少女と同じ目線になり、少女が狐が掴んでいた花を手に取ると、狐の頭を優しく撫でて耳の間に差した。
「ほら、可愛い」
自分の視界から消えた花を探すが見当たらないので諦めた。
今度は視界がガクンと上がる。弓男が立ち上がったようだ。
弓男が歩き始めるとまた視界が大きく上下する。
両手をぶらぶらしていると不安定なので、男の頭を鷲掴みした。狐の毛とはまた違う、黒味掛かった青色の毛が少し抜けた気がするが気にしない。
見る世界がすべて新鮮なので辺りをキョロキョロと見回してしまう。
前に一度町の近くまで来た時に草むらに隠れてコソコソと様子を伺ったことがあるが、箒を持ったおばさんに追い払われたことがあった。
今はどういう訳か何もされない。むしろ逃げようとすると捕まえられていた。
高い目線から見る風景が楽しくて、思わず垂れ下がった尻尾が左右に揺れる。
「大丈夫だよ、何も怖いものはないよ?」
キョロキョロしている狐を見て、少女が背伸びして頭を撫でてきた。ちょっとだけぽえっとした。
町はそれほど大きいわけでもなく、数分もすると家が疎らになる。
森と町との境界は結構曖昧ではあるが、途中に気休め程度の木の柵がある。
道沿いにある柵の切れ目には一応アーチのようなものがあって、その側の小屋に武装した人間が詰めている。
狐は小柄なので道は通らずに柵の隙間から町のほうへ良く近寄ったものだ。山の実りが少なくて獲物が全然いない時は町まで来ては人間の飼う鳥を少しばかり失敬していた。
道沿いに進むと小屋があり、ちょうど昨日のアーマー男が出てきた。
「ウィルにフィリアじゃないか。狐っ娘を連れてどうしたんだ?」
「おはようございます、ケイス」
「おはようございます、ケイスさん。私は森に薬草を採りに。お兄ちゃんは狩りをしにちょっと。この娘を家に残していくわけにも行かなくて」
ふーんと言いながら、アーマー男が狐を見てくる。目が合いそうになったのでそっぽを向いた。
アーマー男は狐を見ながら顎に手を当て考え込むような仕草をする。
「で、ウィル。何かわかったのか?」
「いや、それはこっちの台詞ですよ」
「生憎狐っ娘なんざ、この辺にゃいないんでね。獣人なんざこんな辺境にゃ来ねーよ。ギルド経由で王都に照会してもらってるが、まあ何もわからんだろ」
やれやれ、と大げさな動作をしてみせるアーマー男。
「こんな妙ちくりんな奴だ。大した害はないだろう。素っ裸で森に居たんだ、大方捨てられでもしたんじゃないのか?」
アーマー男が指で頬をつつこうとしてきたので、もれなく噛み付く。
「可愛げのない奴め」
噛まれてすぐ、アーマー男は指を引っ込めた。
「まあ、この辺で高脅威度の魔物は確認されていない。いても精々ウルフテイルぐらいか?」
「僕に聞かないでくださいよ」
「まあ用心しな。町から離れすぎたら何がいるかは俺も知らん」
アーマー男は手をひらひらさせながら小屋の中に戻っていった。
「──お兄ちゃん、ケイスさんにはあのこと言わないの?」
「フォックステイルがこの娘になったってことですか? 言っても誰も信じてくれないでしょう? フィリアでさえ最初は信じてくれなかったのに」
「あ、あれはお兄ちゃんが裸の女の子を攫ってきたんじゃないかって動揺して──!」
「とりあえず、ケイスか首長様から何かお達しがあるまではこのまま暮らすしかないでしょう」
「私はずっとこのままでも良い」
少女は言いながら狐の頭を撫でる。ぽえぽえする。
「じゃあ、行きましょうか」
弓男が歩き始める。
ふと視線を感じて振り返ると小屋の窓からこちらを見つめるアーマー男の姿があった。
柵を越えて道沿いにしばらく進むと、少し森が開けて日差しが差し込んでいる場所に出た。
「うーん、この辺りなら良いんじゃないかな?」
少女が立ち止まると、弓男は肩から狐を降ろした。その時に尻尾が弓男の顔面に当たった気がしたので、降ろされた後に振り返ると弓男がなんとも言えない心地良さそうな顔をしていた。
「あ、ずるいー! お兄ちゃんだけー!」
少女に尻尾を掴まれそうになったので、弓男の陰に隠れて顔を半分だけ覗かせる。
「不可抗力ですよ。断じて狙ってなどいないです」
「嘘だー!」
少女は頬を膨らませてこちらを見るが、尻尾を触らせる訳にはいかない。自慢の毛並みが乱れてしまう。
頭と尻尾以外がすべて抜けてしまったようなので触らないで欲しい。何かの病気なのかも知れないし?
弓矢で殺されかけてから、なんだか世界が変わってしまったようで調子が狂う。
「もう、いいもん。後で餌付けしてもふもふさせて貰うんだから」
「餌付けって」
「ところで──そろそろお昼にしよう? 結構歩いたからお腹減っちゃった。えへへ」
少女は持っていた籠から敷物を取り出し、辺りを見回す。
「下が地面だとごつごつするから、あっちの草が生えてるあたりでいいかな?」
おあつらえ向きの背の低い草が生えていてふかふかしていそうな場所があった。
少女は草の所まで歩いていくと敷物をばさっと広げた。
その真ん中辺りに持ってきた籠を置き、中から紙で包まれた何かを取り出す。
「お兄ちゃんもフォクシーちゃんもおいでよ!」
「フォクシー???」
「いつまでもその子に名前がないのは可愛そうでしょ? 見た目通りの可愛い名前だと思うんだけどどう?」
「まあ良いんじゃないですかね。名前があるのかわかりませんから」
弓男は狐の手を引きながら敷物に近付き、腰を下ろす。
鼻先を良い匂いが掠めた気がしたので、鼻をすんすんとならしながら匂いのする少女のほうを向く。
「今日は干し肉サンドとエッグサンド、トマトレタスサンドにしてみました。今日は一手間掛けてホットサンド風です。どうかな?」
香ばしい香りの中に肉の香りが漂ってくる。強い匂いがするものとしないものがあるようだ。
「さあさあ、食べて食べて! フォクシーちゃんもおいで」
少女が側をぽんぽんと手で叩く。ここに来いということなのだろう。
少女に近付き、ドスッと腰を下ろす。お澄まし座りしようとしてまた後ろに転んでしまったので慌てて起き上がる。
まだ、自分の体の変化に慣れない。
「はい、フォクシーちゃん。どうぞ。お兄ちゃんも」
紙を渡され思わず受け取る。
紙を鼻に近付けると、肉の香りだ漂ってきて口の中に涎が溢れる。
口を大きく開けてかぶり付くがうまく食い千切れない。
「ああ、フォクシーちゃん?!」
少女が慌てて狐から紙を取り上げて、紙を開いて中身を一部分だけ取り出して返してきた。
「見ててね、こうして食べるのよ?」
少女は言いながら獲物に被りつく。
少女の動作をしばらく眺めてから、狐も真似をして中身目掛けて食い付き、手で押さえながら口に収まる程度の大きさで噛み千切ると、口の中に小気味良い酸味と甘みと塩味が広がる。鼻を肉の香りが抜けていってまた次にかぶり付くのを早めてしまう。
口の周りに何かべちゃっとしたものが付いた気がする。
「あー! もう、フォクシーちゃん」
ちょっと怒りながら少女が狐の口の周りを布で拭く。
狐がかぶり付いて口の周りを汚す。
少女が口の周りを拭く。
狐がかぶり付いてどろっとした何かが着せられていた皮に垂れる。
「あああーーーー! マヨネージが垂れてるーーーー!」
「諦めたほうがいいんじゃないですかね?」
「いや! 私が食べ方を教えるの!」
少女は言いながら狐を持ち上げて自身の膝の上に降ろした。
覆いかぶさるようにがっちりと押さえ込まれ、一度にかぶり付く量を調整される。
「まるで年の離れた妹みたいですね」
「こんな妹欲しかったの! 今まで私が妹だったし」
肉の食べ物を食べ終わると、口の前にあまり匂いのしないものを差し出された。
肉の匂いがしないので不思議な感じがしたが、外観が似ていたので食べ物だろうと判断し、かぶり付く。
口の中でシャキシャキとした感触だけがあるので、中身は野菜のようだった。人間の畑から盗み食いしたものと似ていた。
「両親が生きていればもう一人くらいいたかも知れませんね」
「うん……」
少女の手が止まったので、次の肉入りを手に取り、肉だけを食べてから少女の口元に持っていく。食べたいのなら食べれば良いのに。
「あ、ありがとう、フォクシーちゃん。優しいね……」
野菜は要らぬ。肉を寄越せ、肉を。
肉だけを先に食べてしまって、野菜だけになったものを少女の口元に運んだ。
「……うん? なんか物足りないような……?」
少女は首を傾げながら、狐の手から獲物を食べた。
全員が食べ終わる頃には、狐のお腹がぷっくりと膨らんでいて、ゲップが出た。
「満足してくれたみたいだね」
足を投げ出して座っている狐の頭を、少女が撫でた。ぽえぽえする。
「──それじゃあ、僕は狩りに行ってきますので、夕方頃にここで落ち合いましょうか。何かあったら、前に渡した笛を思いっきり吹くんですよ? 結構遠くまで響きますから」
「了解!」
弓男は立ち上がると、森の奥へと消えていった。
残された狐と少女も出発の用意をして敷物をたたみ、籠にしまう。
「私たちも始めようか?」
歩き始めた少女に付いていくと、歩いてはすぐ足を止め、周りを見回してしゃがみ込んでは草を毟って籠に入れ、また別の場所に移る、という動作を繰り返した。
眠くなってきたので、くぁーっと口を大きく開けて欠伸をしながら後ろを付いていく。
住み慣れた森なので目新しいものは何もない。
あんな雑草を集めて何になるのだろうか。狐にはわからぬ。
腹の調子がおかしい時に少し齧ったりはするが、消化できるわけでもない。
しばらくして籠が8割ほど埋まると、少女は森の奥を指差した。
「よし、今日はここまで来たついでに茸狩りもしていこう!」
何やら張り切って、歩き始める少女。その後ろを、狐はだるそうに付いていく。
木々が生い茂って日が射さないほど森の奥まで来ると、ぽつりぽつりと木の幹に茸が自生していた。
少女はそれを吟味して採っていく。何やら楽しそうに鼻歌混じりに木々を渡り歩いている。
──ふと、森が異常に静かなことに気が付いた。
この森の奥では、いつも小鳥たちの大合唱が聞こえるのだが、今日は物音一つしない。
嵐の前の静けさに似た不気味さが漂う。
狐がいる場所から森の奥側へと、そよ風が吹いている。
──本能的に、嫌な予感がした。
森の奥側から、何かがやってくる。風下の臭いは狐にもわからない。
微かな振動を感じる気がするが、この姿になったせいなのかも知れない。
上機嫌の少女を余所に、狐は森の奥に目を凝らした──。
何か黒い山のようなものが迫ってくる。
光の差さない森の奥から、更なる闇がやってくる。
闇がこちらに気付くと、森に獣の咆哮が響いた。
──熊だ。漆黒の体毛で覆われた体で胸に星型の白い毛があることから『スターベア』と呼ばれる、森の奥深くに住む山の主が猛然と走ってくる。
狐がそうだったように、山の実りがなくて人里に近付いて来ていたところで、人間の臭いを嗅ぎ付けたのだろう。
ドサッと狐の背後で音がしたので振り向くと、先ほどまで上機嫌で茸狩りをしていた少女が青ざめた顔で腰を抜かしていた。
迫り来る迫力に恐怖して手が震えているのか、なかなか笛を掴めずにいる。
あと200メートルに迫ったところで、少女はやっと笛を掴むと口に付け、思いっきり息を吹き込んだ。
耳をつんざく大音量がして、狐は思わず耳を押さえた。
スターベアは音に構わず真っ直ぐに、目を血走らせて突っ込んでくる。
なぜだかわからないが、狐は少女とスターベアの間に立ち、両手を広げた。
一宿三飯の恩義を感じたとも思えないが、体が自然に動いていた。
「フォクシーちゃん──?!」
少女の驚きの声が聞こえてくる。
腰を抜かしている少女も、今の体の狐もたぶん逃げ切れないと思った。
──でも、一緒にいると心がぽえぽえしてくるから。だから、この時は守りたいと願った。
──非力な狐だけど、今だけは守れるだけの力が欲しかった。
目の前まで来た熊が立ち上がり、その爪を振り下ろす──その瞬間、世界が停止した。
世界から色が消え失せて、白と黒の輪郭だけの世界になる。
眼前に迫る脅威に目を見開いたまま、狐は動けなかった。
『──んもう、せっかく助けてあげた命を随分と粗末にするのね?』
白黒の世界に、一人の女性がゆっくりと降り立つ。地面に足が着くと、世界に波紋が出来る。
女性だけが今の世界で色を失っていない。
様々な模様の着いた布のような物を幾重にも纏うその姿は至って神秘的だった。頭にも薄い布のようなものを被っていて、眉から上が覆われていた。
彼女を認識しているのは狐だけなのだろうか?
少々不機嫌そうに口をへの字に曲げている彼女が、近付いて来てスターベアとの間に立ち、狐の額に人差し指を置いた。その瞬間、彼女は慈しみのある眼差しでこちらを見つめた。
『あなたの純粋な願いは聞き届けましょう。今日からあなたは「フォルトトロル」と名乗るのです。豊穣の女神の加護をあなたに与えましょう。この力をどう使うかはあなた次第』
言いながら彼女は狐の手を掴み、勝手に姿勢を変えていく。
大の字になって立っていた狐は、足は軽く開いた状態に、上半身は両手を突き出した状態にそれぞれされた。
その姿勢にされた後、狐の手の指を一本一本を彼女はその白い指で絡め捕るように触り、両手とも人指し指と小指をピンと伸ばした状態で親指と中指と薬指の先がくっついて輪になった状態にされた。所謂、影絵の狐の構えだった。
『あ、そうそう。あなたはこれからその姿のまま未来永劫、歳を取ることはないわ。代償として頂くから。でも、そんなに小さいと不便でしょうから、もう少しだけ体の時を進めてあげましょう。あと、2回目だからもう一つ代償を頂いたわ。その熊を倒せばわかるはずよ』
慈しみの眼差しが何時しか玩具を見るような眼差しに変わっていたことに違和感を覚える。
彼女が狐から一歩一歩ゆっくりと離れると、その足元にまた波紋が出来る。
『さあ、行きなさい、迷い狐よ。その名を世界に轟かせるのです』
ゆっくりと彼女が消えていく──消えながら、彼女が頭に着けていた布を外したのと同時に、狐と同じ大きな三角錐状の耳と九本のもふもふ尻尾が姿を現す。
彼女のすべてが掻き消える間際に、何か懐かしく優しい笑顔を垣間見た気がした──。
──その刹那、世界に色が戻り、時が進む。
体の内から湧き上がる何かの力をスターベアに向かって放つ──。
狐の構えになった指の、狐の口にあたる辺りから膨大な熱量の炎が生まれ、正面を薙いだ。
スターベアに当たって跳ね返った炎に、狐自身も飲まれてしまった──。
──気が付くと、わらわは仰向けに空を見上げていた。
青い空と緑の境界が黒く焼け爛れている。
木々が炭化して、まだ所々赤熱していた。たくさんの背の高かった木々が倒れたり傾いたりしていた。
上半身を起こすと、数メートル離れた場所に生き物だった黒焦げの塊が転がっていて、まだ煙が燻っていた。
その向こう側に目をやると、自身を基点に正面の90度の範囲で扇形に200メートルほど遠くまで地面さえも黒く焼け焦げていた。
森の深淵にぽっかりと穴が開いて日の光が差し込む中、わらわは呆然と立ち尽くした。
──これはわらわの仕業なのじゃ?
手で狐の構えをして右手を軽く突き出すと、小さな炎が出る。
自分の力に慄き、実感した。
先ほどの出来事はどうやら夢ではないらしい。
豊穣の女神に力を与えられて、一帯を焼き尽くした張本人が自分だということだ。
「フィリア──?!」
声がしたので振り向くと、ウィルが倒れていたフィリアの肩を揺すっていた。笛に気が付いて来てくれたのだろう。
フィリアが倒れていたのはわらわの数メートル後方で、焼け焦げた跡から1メートルほどしか離れていなかったが巻き込むこともなく、なんとか守り切ったようだ。
安堵感からか、一気に力が抜けて立っていることさえ不可能になった。
「ちょ、君──!」
力なく地面に膝をついて、顔面から地面とキスをする間際に駆け寄ってきたウィルが支えてくれた。
「……良かったのじゃ、フィリアを守れたのじゃ……!」
ウィルの耳元でささやくように言う。
それと同時に意識を手放した──。
続きは後ほど。
ある程度できたので投稿。