表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

愛豚家

作者: 安堂ジア

 オマエたち、何をそんなに嘆いているんだ。

 言ったよな?

 オマエたちは〈豚〉だと。

 残飯処理をさせるために育てているだけだと。

 だから、私への感謝など不要だと。

 耳にタコだろうが、いい機会だ。もう一度きちんと私の――父さんの話を聞きなさい。


 +++


 おまえたちが「ばあちゃん」と呼んでいる私の母は、五十五歳で若年性アルツハイマー症を発症した。かれこれ十八年ほど前のことだ。

 父は、その一年前に急死していた。その時の衝撃が、母の脳細胞を壊したのだと私は思っている。医者は関係ないと言うが、なんせ仲の良い夫婦だったから。


 当時、私は二十八歳。

 今はこうして在宅仕事をしているが、当時は普通の会社員で、朝早く家を出て深夜に帰宅する毎日。母と顔を合わせるのは朝食の時くらいだった。

 だから、母の病気に気づくのが遅れた。多少「変だな」と思うことがあっても、トシのせいかと思っていた。


 母の病状は穏やかで、徘徊や被害妄想の兆候はまったくなかった。

 ただ、作る食事の量が増えた。

 白米・味噌汁・漬物・おかず一品というのが、それまでの我が家の朝食パターンだったが、私の分だけおかずが何品も並ぶようになり、量もたっぷりとある。

 夜も変だった。

 平日は残業があるので、家で夕食を摂るのは土日だけと決めていたが、会社から帰るとなぜか食事が用意されている。それもお茶漬けなどの軽食ではなく、一汁三菜のしっかりとした献立だ。


「母さん、平日はいらないって言ってるだろ」

「食べてきたから腹減ってないよ」

「朝からこんなに食えないって」


 言えば一度は改善されるが、二、三日もすると元に戻る。

 これが地味にストレスだった。蓄積したイライラは、いつ爆発してもおかしくないほど膨らんでいた。


 聞けば誰もが言うだろう。

「残せばいいじゃん」もしくは「捨てればいいじゃん」と。

 しかし、私はそれができないのだ。

 両親は、どちらかというと甘い親だったが、食べ物を捨てたり無駄にしたりといったことは絶対に許さなかった。それは私の性格の一部となった。


 ある夜、とうとうキレた。

 会社でのトラブルを引きずったまま帰宅した私は、またもや用意された夕食を見た瞬間、床に鞄を叩きつけていた。

「いらないって言ってんのに何でだよ、嫌がらせか!」

 私の怒声に、母は身を竦ませた。その姿はとても小さく、弱々しく、そして老いていた。

 私は呆然とした。

 いつの間にこんなに年を取ったんだろう――。


 その時私は、仕事にかまけてきちんと母を見ていなかった自分に気づいた。私が見ていたのは過去の幻影、気力も体力もみなぎっていた頃の母なのだ。

 激しい罪悪感に襲われた。

 きっと母は寂しいのだ。

 一日中、家にひとり。夕食もひとり。話し相手は誰もおらず、最愛の父は仏壇の中で微笑むだけ。料理を作りすぎるのは、父がいたころの幸せな時間をなぞっているに違いない。

 父は母の手料理を好んだ。毎日いそいそと食卓に向かっては、ひとつひとつに舌鼓を打った。

「母さん、今日の南蛮揚げは特に上手いな!」

「くぅ~! このナスの漬かり具合、最高!」

 三十年間連れ添った父の死とともに、楽しい夕餉も、称賛も消えた。

 母を打ちのめした喪失感は、どれだけ大きかったか――。


 その日から私は、黙って全部食べることにした。

 ぱんぱんに張った腹を抱えて眠りにつき、胃もたれとともに目を覚ます。

 昼食は抜くか軽いもので済ませ、エレベーターはやめて階段を使った。休みの日には、二時間ほどウォーキングをした。

 だが、その年の健康診断の結果には参った。

 体重が十キロ増え、コレステロール値、血糖値、尿酸値は軒並み上昇していた。

 このままでは健康に障る……しかし食材を捨てるのは嫌だ……。

 悶々と考えていたその時、天啓が閃いた。


「そうだ、豚を飼おう……!」


 食用ではなく、ペットだ。

 雑食性の豚さえいれば、残飯も生ごみも生まれない。すべてが「エサ」になる。すばらしいではないか!


 ところが調べてみると、成豚が必要とするエサの量は多く、うちの残飯だけではとても養いきれないと判った。田舎とはいえ野中の一軒家ではないから、臭いや鳴き声も気になる。

 かといって猫や犬では量を食べられないし、玉ねぎ禁止などの制約も多い。

 ドブネズミやクマネズミをたくさん飼えば解決するが、そんな暮らしは嫌だ。


 あれこれ悩みながら、私は脂ののった腹を抱えウォーキングを続けた。


 花見の酔客が踊る公園を。

 陽光が焼きついた夏の夜道を。

 とんぼが飛び交うあぜ道を。


 私がオマエたちを見つけたのは、そんな時だった。


 *


 あれは、十六年前のクリスマスだった。

 時刻は二十二時。

 聖なる夜に、トイレの電球が切れた。

 買い置きもなかったので、駅の反対側にあるコンビニまで、ウォーキングを兼ねて歩くことにした。

 空気は乾いていて、吐く先から息が白く凝った。


 コンビニからの戻り道、駅の裏に差し掛かったところで、私はぎくりと足を止めた。

 駅舎に続く階段脇の地面から、女の上半身(・・・)が生えていた。

 腰が抜けた。死体だと思った。

 反射的に叫ぼうとした時、暗がりから小さな手が出てきて、女を揺さぶった。

 女は手の方向を見た。私も見た。

 その瞬間、高架を走る車のライトが、暗がりを照らし出した。

 黒い寝袋に、女の下半身がすっぽりと収まっていた。そのせいで上半身だけが浮いて見えたのだ。

 舐めるように弧を描いたライトは、慌てて寝袋に潜り込む少女と、幼い男の子をも照らし出した。

 唖然とした。

(子連れのホームレス――?)

 今年は暖冬で、雪は積もっていないが十分に寒い。寝袋一枚で大丈夫だろうか。

 その時、少年の目が私のコンビニ袋を捉えた。小さく口を開いて、つばを飲み込むようなしぐさを何度か見せる。

「腹、減ってるのか?」

 問いかけるが、コンビニ袋に魅了された少年の耳には届かない。

 私は、袋から電球を取り出し掲げて見せた。少年はガッカリとした表情を浮かべたあと、みるみる泣き顔になった。

「うちに来れば、メシくらい出せるけど」

 私は慌てて言った。返事はなかったが、それでも言葉を続けた。

「腹が減ってるなら、ついてきなさい」


 霜の降りたアスファルトを、私はゆっくりと歩いた。

 月を隠した雲の端が、銀色に輝いていた。

 途中で振り返ると、子供たちに手を引かれた女が、遥か後ろをついてくるのが見えた。

 暗い道を、左右にゆらゆらと揺れながら歩く女は、外国の魔物のようだった。

 声を掛けたのは失敗だったかもしれない――という後悔は、飯をむさぼり食う姿を見て一瞬で吹き飛んだ。


 こいつらを飼えばいいんだ!


 それはまさに天啓だった。

 人間も雑食動物だ。むやみやたらと鳴かないし、成長しても持てあますほどの大きさにはならない。

 理想的ではないか。


 もちろん、飼うなら合法でなければならない。

 その手続きをするために、納屋――昔の私の勉強部屋であり、今は物置に使っている――に住まわせた三人から、ホームレスになるまでの経緯を少しずつ聞きだした。

 女はぼんやりしていて役に立たず、少年は一生懸命話してくれるものの、まだ六歳と幼いせいか要領を得ない。

 一番期待できそうなのは十一歳の少女だったが、警戒心が強くなかなか口を開かない。しかし、二週間を過ぎたあたりから、ぽつぽつと答えてくれるようになった。


 三人はやはり親子で、家出中だった。

 父親は、妻子に暴力を振るうDV男。舅はセクハラ親父で、姑は執拗に嫁いびりを繰り返す。

 子供もいるし帰る家もないしと、我慢しているうちに女は壊れた。

 しかし、サボりだ甘えだと暴力はひどくなる一方。世間体を気にして、病院にも連れて行ってもらえない。

 見かねた娘が母親と弟を連れて逃げだしたのがひと月前。電車で都心部を点々とし、夜になればリサイクルショップで買った寝袋にみんなで潜って寝た。

 クリスマスの夜、こんな田舎町にいたのは、女の具合が悪くなり途中下車したからだった。


 家出やDVは想定内だったが、舅が政治家で地元の名士と聞いた時にはめまいがした。

 これは揉めるぞ、と思った。

 予感は当たった。

 私は人権団体と連携を取りながら、慎重に事態の収拾に当たったが、相手は聞く耳を持たなかった。

 弁護士からは慇懃無礼に恫喝され、中傷ビラや無言電話など、古典的な嫌がらせも受けた。勤務先に圧力がかけられ、上司から、親子を渡すか辞職かの二択を迫られた。

 心身ともに削られる毎日だったが、それでも私は引かなかった。

 三匹も〈豚〉を手に入れられるチャンスなのだ。負けられるか!


 八方手を尽くし、何とか離婚を成立させることができた時には、ちょうど一年が過ぎていた。

 お祝いにと、みんなで切り分けて食べたクリスマスケーキの味は忘れがたい。


 *


 その後も私は精力的に動いた。

 納屋を改造し一家が住めるようにした。住民票を移し、子供たちが学校に通えるよう手続きを取った。家具や服などの生活必需品も揃えた。女を精神科に連れて行き、通院の送り迎えもした。


 親切心ではない。

 すべては、親子をこの家に縛り付けるためにやったことだ。

 与えられた恩は、いずれ重い鎖と変わる。


 そのころ私は、友人のツテを頼り、在宅の技術翻訳者となっていた。

 あの騒動で、会社は辞めざるを得なかったのだ。

 しかし、それで良かった。

 母の病状はゆっくりと進行しており、一人で家に置いておくのは不安だったし、在宅なら〈豚〉が逃げ出さないよう見張ることもできる。


 私と母は、せっせと親子に残飯を与え続けた。

 子供たちの、痩せて目ばかりぎょろぎょろと目立っていた顔はふっくらと丸みを帯び、かさかさに荒れた肌は艶を取り戻した。

 すくすくと成長する姿を、私は目を細めて見守った。体が大きくなれば、胃の容積も増える。

 しかし、太らせすぎないよう気をつけた。

 脂肪は処理能力を落とす。フードファイターを見ても判るが、量を食べるなら細身の方がいい。

 子供たちは好き嫌いが多かったが、それもひとつひとつ克服させた。

 どんな残飯も喜んで食べるのが〈豚〉の役目だ。偏食の〈豚〉など価値がない。

 健康にも気を配った。病気にでもなったら、処理能力が落ちてしまう。


 しかし、〈母豚〉の性能は低いままだった。私の母と同程度しか食べないし、時々戻したりする。

 念のため病院で診てもらうと、すい臓がんが見つかった。

 ショックだった。あんなに苦労して手に入れたのに、欠陥品とは……!

 しかし割り切るしかない。まとめ買いすれば、ひとつやふたつ不良品が混ざることもある。


 回復は難しいと医師からは言われたが、私は治療に踏み切った。〈豚〉は貴重な財産だ。むざむざと失うわけにはいかない。

 幸い、放射線治療は予想以上に効果があった。

 体力が回復すると、女はなぜか母の後をついて回った。日中は母と一緒に畑をいじり、夕方になれば台所に立って料理を手伝った。

 悪夢を見たのか、ベソをかいて母の部屋へと飛び込んでいく夜もあった。

「お母さん、お母さん」

 泣きながらしがみついてくる“他人の娘”を、そのたびに母は優しく撫でてやる。

 安らかな愛念に包まれた二人を、私は不思議な感動を覚えつつ眺めた。


 半年ほど続いた穏やかな日々は、夏の到来とともに終わりを告げた。

 容体が急変した女を、私はすぐさま病院に叩き込んだ。食わない〈豚〉を家に置いておく必要はない。

 見舞いには毎日行った。母と、帰宅した弟を車に乗せ、校門で姉を拾って病院へと向かう。


 あちこちで蝉の死骸が見られるようになったころ 女は逝った。

 子供たちの残飯処理能力はゼロになった。

 さすがの私もその時ばかりは、食事を強要することはできなかった。


 *


 秋が過ぎ、冬が来た。

 一人欠けたクリスマスイブ。

 幸せの象徴のようなケーキと温かな蝋燭の光は、去った者の輪郭を際立たせるばかりで、場は寂しさに包まれた。

 しかし翌朝、生まれて初めて“サンタさんからのプレゼント”を貰った息子は大喜びで、家中を狂ったように走りまわり、興奮しすぎて意味をなさないおたけびをあげた。

 再入院の前日、私は女と籍を入れた。万が一の場合、〈子豚〉を前夫に奪われないようにするためだ。

 つまり、今の私は、二人の戸籍上の父なのだ。

 仮にも父となったのだから、クリスマスプレゼントを渡さないわけにはいかないだろう。

 十二歳の娘は、自分宛のプレゼントを見て、困ったようなくすぐったいような表情を浮かべていた。弟を追いかけて部屋を出る間際、小さな声が、私の背にふわっと舞い降りた。


「ありがとう」


 振り返ると、もう娘の姿はなかった。軽い足音が遠ざかって行く。

 私は思わずほくそえんだ。

 子供たちへのプレゼントは、もちろんご機嫌取りだ。

 この家の〈豚〉になってもらうには、戸籍だけでなく心も縛る必要がある。

 絶対に逃げ出せないよう、ガチガチに。


 *


 翌年、姉は中学生になった。

 養ってもらっている負い目があるせいか、反抗らしい反抗もなく、優秀な成績を保ったまま高校へと進学した。

 その途端、食べる量が激減した。

 病気か、恋わずらいかと心配したら、なんとダイエットだと言う。

「ぜんぜん太ってない!」

「もっと食べなさい!」

 いくら言っても、年頃の娘には届かない。

 ダイエットめ、許すまじ。

 私はぎりぎりと歯噛みした。


 その点、弟は優秀な〈豚〉だった。

 十歳で地区の野球チームに入ると、ぐんと食べる量が増えた。

 今までは残飯を与えておけばよかったが、それでは足りず、一度に作る食事量を三倍に増やした。夜食用のカップラーメンも箱買いした。

 残飯処理のために飼ったはずが、残飯以上の食料を奪われている。まさに“庇を貸して母屋を取られる”だ。

 一キロの肉をペロリと平らげ、三合の白米を飲むように食べた時には恐怖を感じた。しかし同時に、〈豚〉としての性能の高さに満足も感じる私だった。


 大学はどちらも、地元に進学させた。

 優秀な姉は国立大に一発合格したが、弟は落ち、滑り止めの私立に入った。

「父さん、学費大丈夫? 俺、就職でもいいけど……?」

 おずおずと切り出した息子の言葉を、私は一笑に付した。

「大丈夫だ、心配するな。ただし留年は許さないぞ」

 弟は、ほっとしたような顔で頷いた。


 実は私の貯金はあまりない。

 離婚騒動と女の治療代で一度は口座が空になったし、在宅で稼げる額はたかが知れている。

 それでも私立に行かせたのは、家から出したくなかったからだ。

 高性能の生ごみ処理機。優秀な〈豚〉。

 それがいなくなったら、誰が残飯を片付ける?


 +++


 どうだ、こんなに極悪非道な父親もいないだろう。

 そもそも私は父親ではない。いうならば、養豚家だ。


 それなのに、なぜオマエたちはそんなに泣くのだ。

 私の遺骸に、涙の雨を降らせるのだ。


 娘よ、もう泣くな。喉が痛くなってエサが食べられなくなるぞ。

 息子よ、鼻をかめ。鼻詰まりは味覚の鈍麻を招き、処理能力を下げる。

 二人とも、しっかりしろ。母さんを見習え! あんなにニコニコしているじゃないか! ……って本当にすごい笑顔だな。どういうこと?


 ……。

 …………。

 ……………………。


 実は父さんな、おととい、クリスマスケーキを取りに行ったんだ。

 二人とも、来年には転勤や就職で家を出ていくだろう? 今までさんざん残飯処理をさせたから、最後のクリスマスケーキくらいは奮発しようと思ってな、有名店のを予約しておいたんだ。

 その帰り、まさか飲酒運転の車と出くわすとはなあ。

 父さん、死んじゃったよ。まさに一寸先は闇だな。

 だが、巡り合わせとはそういうものだ。

 こういう風に悪いのも巡るが、良ければ最高級の〈豚〉を手に入れられたりもする。どんなものがいつ巡ってくるかなんて判らないんだから、無駄に恐れるな。


 私の貯金はほとんどない。しかし、オマエたちの母親と籍を入れる時、保険の等級を上げておいた。受取人は二人にしておいたから、それで自分の人生を整えろ。

 ばあちゃんのことは心配するな。こういう事態についても、ケアマネさんと相談してある。ずっと貯めておいた父の遺族年金に、ばあちゃんの年金を足せば、そこそこのホームに入れる。


 ――お? 寝台が動き始めたぞ。いよいよ火葬か。お別れだな。


 それでは最後に礼を言わせてほしい。


 ありがとう。オマエたちは最高の豚児だった。

 おかげで私は、食べ物を捨てる苦痛を味わわずに済んだ。

 父親の疑似体験までさせてもらった。

 母が若年性アルツハイマー症と診断された時、私は医師から、遺伝の可能性を示唆されていた。子である私も発症するかもしれないし、私は大丈夫でも、次の代で出るかもしれない。そう聞いて私は、結婚も子供も諦めた。

 それが二人の子持ちになって、父さんと呼んでもらえるなんてなあ。

 母が今も元気なのは不思議だが、オマエたちからの良い刺激が、病気の進行を遅らせているのかもしれないな。

 いや、本当にありがとう。

 オマエたちが二度と飢えを経験しないことと、消化能力を遺憾なく発揮するため健康であり続けることを、父さんは願っている。

 なお、世間一般では豚児は蔑称らしいが、私にとっては最高の褒め言葉であり、愛児と同義であることを付け加えておく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] サイコパスな愛情なのか、様々なことへの諦念からくる代償行為故か。だが、どちらにせよ、そこに愛が芽生えていたようだったところ。 [気になる点] 前半部のアクの強さが人を選ぶでしょう。そこ抜け…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ