3.飼い主様の多忙な日常(2)
カランと扉の鍾鈴を鳴らして[タイガーテール]から出ると、融け残った雪がまだら模様を描く石畳の通りでは、朝市が盛況を迎えていた。
露店の数は最盛期の半分以下だけど、本格的な冬を前にいろんなものが品薄になるので、客足は多めだ。出店する商人たちも、道が完全に雪に閉ざされる前に稼ごうと活気づいている。
店内との温度差に、吐く息が白い。コートの上からマフラーと手袋を装着して、往来の増えつつある、中央に小さな銅像が建つ円形の広場をしばし見渡す。
そのとき、弾けるように背後のドアが開いた。
現われたジェドが、へらりと笑って隣にくっつくと、ごく自然な仕草で左手を私の右手に滑り込ませ、指と指を絡ませる。
カップル的なナニカではない。単に、こうしないとお互い大変なのだ。
ジェドは主に迷子防止のためで、私にとっては彼を確保する手間を省くためだ。
……ええ、ギルドまでほんの数メートルですよ。素材屋や宿屋を数軒またいだ、すぐ先なんですけどね。
未だにジェドを一人で歩かせられません。箱入り貴族って、みんなこうなんですかね? これまでよく生きてましたよね。……あー、歩けば道ができる特権階級様だからか。側近たちがくっついている理由がよく分かるわ。納得。
まず、人混みで前に進めない。
行き交う人がみんな思い思いの方向に歩くので、避けたり流されたりするうちに、進んでいた方向が分からなくなるんだそうだ。自分をしっかり持ってくださいよ。
あと、いろんなものが珍しくて、きょろきょろしているうちに私を見失う。子どもか!
店の呼び込みに引っかかる。
怪しげな連中に絡まれる。ついでに路地に引きずり込まれる。
気がつくと、魔鳥に捕獲される。
とまあ、バリエーション豊かなのだ。身を守るためのいろんな術を組み込んだ首輪をつけているというのに、この残念さ。こちらの気が休まらないったらない。
なので、手をつなぐくらいの小っ恥ずかしさなんて、大したことはないのだ、絶対。
手袋してるから、手汗とか気にしなくてもいいしね。きっと手袋がいらなくなる頃には、ジェドも独り立ちしてる……はず。多分。だといいなー。
「ジェド、上着は?」
「ん? これだけだけど」
「体を冷やさないでくださいよ」
足を止めて手をほどき、シャツの上からムートンコートを羽織るだけのジェドに、自分のマフラーを巻きつける。シンプルな白地にグリーンのチェック柄なので、そんなに違和感はない。
手袋越しでもわかるくらいジェドの素手は温かかったし、朝のトレーニングを終えて食事を摂ったばかりなので本当は暑いくらいなんだろうけど、外気は氷点下。まだアルバの下町の寒さに慣れていないジェドは、油断大敵なのだ。
後から食堂を出てきた冒険者コンビが、半袖とノースリーブの上に外套ひっかけただけなんていう季節ガン無視な格好――なんなんだ、あいつら。道路とか建物が凍ってるのが見えないのか。筋肉自慢か!――なのには、そっと目を逸らして。
再びジェドの手を握り直して歩き出す。
顔見知りの「お似合いだねえ」なんて冷やかしを鉄壁の笑顔で流し、露店には眼もくれずギルドに向かった。
背が低い私が、するすると人波をくぐり抜けるのを、ジェドが少し遅れてついてくる。これも通常仕様。
「エマ、買い物はいいのか?」
「来る前に全部済ませました。さすがに多いので、倉庫に直接搬入をお願いしてます」
こういうときだけ大食漢ズが心強い。量が少ないと、いくら馴染みでも搬入を頼みづらいのだ。とり置きしてもらって、夕方自分で運ぶこともあるけど、食料品て重いんだよ。生ものだから、下手に扱えないし。
倉庫を開けっ放しなのがちょっと無用心だけど、店の人はほぼ代々のお付き合いだし、国内最強の呼び名も高いうちのギルドにちょっかいを出す馬鹿はほとんどいない。
一応、番人もいる。長寿猫のコジローさんだ。猫だから、〝番猫〟か。
敵味方をちゃんと見分けて的確な猫パンチを繰り出すコジローさんは、ぶっちゃけ箱入り貴族のジェドより、よほど頼りになる。大きな声では言えないが。
通りに面した煉瓦造りの三階建ての建物が、うちのギルドだ。黒い木の骨組みと白壁のコントラストが美しい木骨モルタル造りの建物が大半を占める中、一際無骨なオレンジ色の外観が目を惹く。
これは自己主張が激しいわけではなく、単に建て増しをしたときの耐震構造上の問題だという。うちは自宅兼職場に改築に改築を重ねているので、手前の事務所部分が煉瓦造り、奥の自宅が木造という込み入ったことになっているのだ。
さすがに冬も深まって、依頼待ちの冒険者の行列はない。魔物討伐や素材採集の用地である[迷宮の森]が雪に覆われてしまうため、専属契約を結ばない多くの冒険者は、仕事を求めて年末を境に南下するのだ。
それでも、冷えた曇天を見上げれば、煉瓦造りの建物の上を旋回する白い鳥が数羽。
依頼が来ているようだ、ありがたや。
短い石段をのぼり、荷物から鍵束をとり出して、正面玄関の重い木の扉を開ける。
ちりんしゃりんと鈴の音が響いた。
「おっはようございまーす」
「おはようございます」
「おはよう。エマちゃん、ジェドくん」
一足先に裏口から入って、朝の掃除をはじめていた栗色巻毛のほんわか美人が、にっこり笑う。義姉のキアラだ。
六つ上にもかかわらず、水色地に白のラインが入った半袖ジャケットとスカートの上から真っ白なふりふりエプロンをつけていて、童顔にこれ以上ないほど似合っている。
今日も笑顔がかわいいですごちそうさま。
「ふふ。相変わらず二人は仲良しさんねー」
そこは触れないでもらえますか、お義姉さん。
まだ繋いでいたジェドの手をぺいっと解き、私は一足先に事務所に向かった。朝一で暖房を入れておいたので、ほんのり室内が温まっている。主に壁が。
そう、壁暖房なんです、うち。めぐっているのは温水です。ちなみに熱源は地下にある魔道具の暖房器。建物が大きいので決してコスパは良くないが、セントラル・ヒーティングのほうが断然楽だし、北国で商売するなら必須の投資でもある。
カウンターと待合を仕切る小さなスイングドアを抜け、衝立を兼ねた書棚の向こうが、職員用の休憩室兼控室だ。テーブルに椅子、ソファがきつきつに置かれた、こじんまりした空間である。
男女別の個人ロッカーに上着と手袋、鞄を仕舞い、代わりにキアラとは色違いの濃紺地×白ラインの七分袖ジャケットを身につける。左襟には、四枚の葉に囲まれた車輪と後足立つ横向きの虎の紋章が刻まれた、金色のバッジ。これがギルドの制服だ。
制服は来訪者に身分を示すためだけでなく、防水・防火・耐魔術・耐薬品および耐切創を兼ね備えた、冒険者御用達の魔法素材で作られた優れものの逸品なのである。
……ギルド職員なのになぜそんな装備が必要なのかは察してくださるとありがたいです、はい。
制服のボタンをきっちり留め、鍵束と筆記用具をベルト付のポーチに移し換えて腰に提げる。下ろしていた髪は一本の三つ編みにまとめた。鏡で身だしなみをチェックし、ほどけかかった首のリボンをうなじで結び直す。
鎖骨の窪みにちょうどかかる、銀色の小さな鍵。
重みのないそれを指先で撫で、遅れてやって来たジェドと入れ違いに、隣の給湯室に向かった。水を汲み、母特製の散薬をさっと飲み下す。
戦闘モードの前では、寝不足も胃の痛みも、ぽぽいのぽいだ。
さてと、今日もお仕事頑張りますよ!
* * *
私のスキルは[鑑定]だ。
おかげでギルド内でも、会計係兼鑑定士として働いている。
これがちょっと、特殊らしい。
〝らしい〟というのは、そもそも[鑑定]が本人の主観で成り立つものなので、他人の能力との比較がしにくいからだ。
通常[鑑定]能力というのは、人や魔物、動植物から無機物まであらゆる存在の、魔力量や属性などの魔法領域。体力・攻撃力・敏捷性といった物理領域。加護・呪いなどの霊的領域の三つを読み取る力のことだ。
ずいぶんチート能力に思えるが、霊的領域の読解に特化した神眼持ちこそ珍しいものの、魔力を持つ人間には多かれ少なかれ備わっている力で、生来の第七感に近く、それに個々の経験や知識が加わって磨かれる技能だ。
したがって[鑑定]を主要なスキルとして挙げるものは少なく、いわゆる鑑定士と呼ばれる魔法素材の売買に携わる者はともかく、治療目的で人を精査する必要のある魔法医や洗礼時に魔力測定を行う神官のように、職務の補助として使用される場合が多い。
そのうえ、本人の魔力量を超える相手を[鑑定]することは不可能とされている。
ところが、私はこれに当てはまらない。
視える限界がないのだ。
〝限界がある〟という状態が、私にとっては不思議なのだけど。
普通の[鑑定]は、走査魔術のように魔力を薄く広く展開して相手に同調させ、その状態を推し量る――らしい。だから、どうしても鑑定士本人が基準になるし、魔法領域と物理領域の読み取りに偏ってしまうのだという。
それってただの走査魔術の応用じゃ?と思ってしまう私は、たぶん悪くない。
私の場合、やり方からしてちょっと違う。魔力を研ぎ澄ませるのは同じだが、自分の頭の後ろの上のほうにある、もうひとつの〝眼〟を開くのだ。そうすると、対象の背後に光る文字が並んだ巻物が視える。この中にすべてが記されているのだ。
当然、対象のもつスキルや加護の多さで巻物の大きさは変わり、一般的な貴族で公文書サイズ。平民だとその半分。無機物ではカードサイズのこともある。
これまで視た中で一番長い〝巻物〟を背負っていたのは、ご当主様ことアルバ華公爵ヴィクター・ヴァレリウス様――皇帝陛下は、いろんな意味で恐くて視れない――だ。皇太子殿下や最高神祇官様や魔術師長様を超えるステイタスをもつ宰相ってどうよ?と思わなくもないけど、事実なのだから仕方ない。
一応、こっそり本人確認もした。ものすぅーーっごくイイ笑顔で口止めされたので、間違ってはいないのだと思うよ、うん。
なので、私の能力は[鑑定]というより、神眼に近いのだという。ただし神眼は、神もしくは神樹の加護によるものなので、加護を持たない私は条件に合わない。
よって、この力は、公的には[鑑定]なのだ。
*
このスキルが発覚したのは、三歳の頃。なんの用事か忘れたが、ギルドを訪れたアルバ公爵ご当主様に出会ったのがきっかけ――というか、運の尽き、だった。
視た瞬間、私、ギャン泣き。
泣きすぎてひきつけを起こして発熱して寝込んだのだから、その衝撃具合は頭パーン!どころではなかったのだろう。
一歩間違えれば幼児虐待である。ご当主様には何の非もないが。
元々、なにかしら〝視えて〟はいたらしい。ギルド長の家系なだけあって、母、兄ともども精霊や魔力が〝視える〟血筋ではあるのだ。余談だが、父は孤児で婿養子なので、これに当てはまらない。
私も物心ついたときには、人や動物、物にきらきらしたものがあって、それをよく眺めていたことはなんとなく憶えている。
通常子どもが生まれると、貴賎を問わず、神殿に報告がてら魔力測定をしてもらう――それが魔力登録=国民としての個人登録となる――のだけど、魔力値は周りの子たちよりもあった。加えて、わりと全属性イケてたらしい。
もちろん〝視える〟ことも指摘された。[鑑定]とはいかなくとも、それに近い素質があるようだと。
ただ、もともとが魔力の少ない平民だし、大人になると徐々に〝視えなく〟なるのが普通なので、家族は誰もそれを特別なこととは考えていなかったようだ。
が。
私はそのとき唐突に、今までぼんやり視ていた〝きらきら〟が、文字であり言葉であり数値であり、意味を成すことを理解してしまった。
ちょうど文字や数字を習いはじめたところで、物と名前と文字の関連性をうっすら掴めていたことも影響したのだろう。英才教育を受けていたわけではないのだけど、二つ上の兄のエリアスが本の虫で、あやしてくれるのにずーっと読み聞かせをしてくれていたから、言葉に馴染むのは早かった。
まあ、それが仇になったといえばそうなのだけど。
ご当主様の〝きらきら〟を目にした瞬間――これまで何度か会っていたはずなのに――『あ。このひと、にんげんじゃない』と悟った。
まだ幼児だから、光る文字は完全には読めない。でも、意味はなんとなく分かる。
例えば〝たましいのめいやく こりゅう・ばるかろーる〟は、バルカロールという名の古竜と魂の一部を交換して誓いを結んだ、ということ――それがどんな意味をもつのか、当時の私にはまったく不明だったが。
数字も、十以上は数えられなかったけど、父親を視ると算用数字が三つ。母親や兄たちには二つしか並んでないのに、目の前の人は四つとか五つとか並んでいる。他の人より多いことは分かる。
それに、なにしろ〝きらきら〟の量が多すぎる。いくら視ていっても終わりがないのだ。メーター級の巻物は、幼児には永遠と同義である。
もう、ぜったいに、このひと、にんげんじゃ、ない。
思った途端、感情が決壊した。すごいね、人間ってあんな声が出せるんだね。
さらに自分のわめき声が怖くて、余計に泣いてしまうという悪循環。
強烈すぎて今でもはっきり覚えている。体中の水分が出ていくんじゃないかと思った。
けれど、私よりも困ったのは周囲の大人たちだ。
中でも一番戸惑ったのは、ご当主様ご本人だろう。なにしろ下町に来るときの常で、魔力を普通の貴族程度まで抑えた状態だったそうだから。
残念ながら、私にとってそれは意味がなく――〝魔力抑制90%〟というのが視えるだけで、あとはまるっとそのままなのだ。姿変えをしようと同じだ。
優秀なのってツラい。
今にして思えば、あれだけ大人が頑張ってるんだから、少しくらい気を遣って誤魔化されてあげればよかったのだけど、さすがに三歳児にそんな余裕はなかった。
ひきつけたまま母親に抱え上げられ、即行、自室に隔離。人見知りが激しくなったのかと、三人の兄たちに囲まれあやされなだめられ。私は舌足らずながらも、一生懸命『あのひとはにんげんじゃない』と訴えた。ひとつも分かってくれなかったけど。
それでも、さすがに産まれたときからの付き合いだ。兄たちは、なんとなく私がなにかを〝視た〟ことに気がついた。
『エマ、ひょっとして俺にも、なにか視えるか?』
そう問いかけたのは、八つ離れた長兄カイル(当時十一歳)。
私は仕事の忙しい両親の末の子だったから、ほとんどこの兄に育てられたようなものだ。にーちゃん大好き。
『えっとね、カイ兄は〝まりょくち〟がこれだけで、あと、〝ちぞくせい〟がこれとこれで、〝かぜぞくせい〟がこれだけで、〝みず〟がこれ、〝ひ〟がこれで、〝ひかり〟と〝やみ〟が――』
両手の指を折って、懸命に視える内容を伝えれば、温和な兄の顔が引きつった。
『お、おい? エマ? ちょ、待て』
『それで、〝すきる〟が〝ちょうてい〟なの。――カイ兄、〝ちょうてい〟ってなに?』
『それは、あとで説明するな。じゃあ、ご当主様も視えたんだな?』
『……うー。きらきら、いっぱい。とってもいっぱいなの』
『魔力値は? 視えたか?』
『うーんとね……おゆびが、たりないの』
指を立てようとして困ったように握りこんだ私を、カイルの厳しい眼差しが見下ろす。
『スキルは? なにか変わったものが視えたか?』
『〝せんぞがえり〟で〝やみけいとう りゅうじんゆらい はちまる…る?〟』
80%ってのが、ぼんやり分かるけど読めなかったんだよねー。ついでに口も回らなかった。
そこまで聞き出すとカイルは、私と傍にいた下の兄二人にも『今の話は絶対誰にもしゃべっちゃだめだ』と恐い顔で脅し、慌ただしく部屋を出ていった。おそらく両親に事の次第を告げたのだろう。ほどなく、兄よりも恐い顔になった両親が揃ってやってきたから。
だけどね、そんな恐い顔されると泣くっちゅーねん。
私、まだ三歳ですから!
『エマ、ちょっと父さんと話そうかー?』
だーかーら、猫なで声を出されても顔恐いんだってば! ヒゲ親父め!
かくして、びえびえ泣く私をなだめ、問い詰め、また泣かせ、という不毛な繰り返しののちに、私の皇都行きが決定。知恵熱(だと思う)が下がるのを待って、国の魔術機関の最高峰である魔術塔での精密検査が行われることになった。
付き添いは、ご当主様の他に保護者の父と通訳係の長兄。母と下の兄二人は、ギルドでお留守番である。
検査は、通常の魔術師ではなく、人の魔力異常を治療する魔法医の手によって行われた。なんでも、魔力蓄積の状態や体内循環を測定できる機器を持っているそうで。
平民の娘が国内最高級のご当主様を[鑑定]できたというのは、それほど大問題だったのだろうけれど、残念ながら詳細はまるで記憶していない。馬車にたくさん揺られて酔ったことと、普段よりたくさんお菓子をもらえたことくらいだ。何度も言うが、当時私は三歳。お子様ですからね!
話を聞きつけて魔術師長様まで乗り込んで来たらしいけど、憶えていなくて幸いだ。平民が知り合う国の重鎮は、ご当主様だけで手一杯だよ、いやほんと。
数日に渡り計測や試験をした結果、私の能力は公的に[鑑定]と診断された。
その時点で本来なら魔術塔に収容されるか、養子として貴族に縁組みされるのが通例なのだけど、三歳という幼さが引っ掛かった。魔力が安定するのは、早くとも十歳前後と言われている。いくら特殊で強力な能力でも、失くなる可能性はゼロではないのだ。
加えて、アルバ領民であり、ご当主様子飼いのギルド長の娘ということもあって――もちろんステイタスをまるっと知られてしまったご当主様のゴリ押しがあったんだろうけど――定期的な魔力検査と[鑑定]を抑制する眼鏡をかけることを条件に、私はこれまで通り親の管理下で養育されることになった。
それでも、いつ貴族に組み込まれてもいいように、そのときから私の教育はスパルタ式と化した。
家庭教師を雇えない代わりに、アルバ華公爵家の側近の方々が順繰りに臨時講師をしてくださり。マナー本を買いあさり、教科書の古本を探し回り、家族総出で勉強しまくった。
だって私、三歳。ひとりだけ勉強なんて、するわけがない。
本当、巻き込んだ家族には申し訳ないことをした。
本が山積みされて喜んだのは、三兄のエリアスくらいで――このせいで彼が活字中毒になったのか、そもそもの素養が悪化したのかは未だに悩むところだ――次兄のウォルターが勉強嫌いになったのは、絶対にこの詰め込み教育が原因だと思う。
なにしろ、並行して平民としての一般常識も学ばされたのだ。頭がやわらかい頃からのスタートで良かったよ、私。
普通の父母としては微妙なところのあるうちの両親だけど、こと教育に関しては出費も手間も惜しまなかった。おかげで兄妹全員、お貴族様との基本の挨拶や食事マナー程度は完璧だ。学院に潜入する際、奥方様から侍女の立居振る舞いを叩き込まれたときも、非常に助かった。
実際両親は、四華公爵家のひとつであるご当主様からお呼び出しを受けることも多く、学んでおくに越したことはなかったのだとは思う。
先行投資だとケロリとしていたので気に留めていなかったが、大きくなって本の値段を知って、血の気が引いた。書斎にある本だけで家がもう一軒建つとか、ヤバすぎる。
とにもかくにも。
私は、どうにか[鑑定]能力を保持し続け、ついでに平民の身分のまま、今日に至るのである。