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2.飼い主様の多忙な日常(1)

  

「…………という夢を観たんだけど」

「待て。目を覚ませ。それは九割あんたの現実だ」


 どうも、エマ・シラーです。

 行きつけの食堂で友人に愚痴ったら、そう言って、額に手刀を振り下ろされました。

 ひどい。


「やっぱりストレスが溜まってるのかなー?」

「そのストレスの大半は、原因に解消してもらってると思うけど?」

「地産地消ってやつですよ……」

「それを言うなら、せめて自業自得と言いなさいな」


 ストレスの発生原因にストレスをぶつけて解消する――うーん。地産地消に近いんだけど、雰囲気が伝わればよいので言葉の定義は放っておく。

 さわやかな朝だというのに、どよどよと暗いものを背負っていると、ぺっかーとまさに昇りたての太陽のようにまぶしいやつが食堂に入ってきた。


 長めの前髪をふわりと流した、プラチナブロンドの短髪。脱いだ上着を小脇に抱え、しなやかな長身を、飾り気のない上下に雪国仕様のごつめの長靴という装いで包む。くつろげた首元には、そこだけ異質な、南京錠が下がる革の首輪が嵌まっている。

 私のストレス要因かつ、ただいま絶賛めっきりお世話中のアルバ華公爵ロードデュークご令息ジェラルド・ヴァレリウス様である。

 [氷炎の貴公子]と称された怜悧な面差しが、こちらを見て、ぱ、と笑顔に崩れた。


「エマ! ……と、リーザ、さん」


 呼びかけ、足を踏み出したジェドが、私の隣の人物を見て、おず、と後ずさる。

 どうも過去のトラウマが甦るのか、化粧をした女性一般が苦手らしく、夜のお仕事モードの友人に会うと固まってしまうのだ。

 それでも律儀に「おはようございます」と頭を下げる彼に、リーザが臙脂の髪をかきあげ、紅唇をにんまりと吊り上げて「おはようございます、ジェド様」と応じた。

 だからリーザさん、その笑顔、悪女すぎてジェドが引いてるから勘弁したげて!


 この食堂には、十人掛けの大きな長机の他に、四人掛けの正方形のテーブルが間隔を置いて並べられている。私とリーザが座るのは四人掛けなので、空席はリーザの隣か真正面の二択しかない。

 選びきれずにジェドがおろおろしていると、後からやってきた金髪の男が隣のテーブルに連れてゆき、連れの黒髪と三人で腰を落ち着けた。

 店の入り口では、ぱちぱちと木の爆ぜる音をたて、薪ストーブが勢いよく焚かれている。朝の厳しい冷え込みに、室内はまだ完全に暖まっていない。常連のおじさんたちを含め、ストーブの周辺から席が埋まっていく。


「いらっしゃいませぇっ。朝からジェドさんの顔が見れるなんて、ココうれしいっ!」


 爽やかなミントグリーンの巻き毛をバンダナで包み、脛丈ワンピースに編み上げ靴、エプロン姿の店の看板娘(十六歳)が、テンション高く注文を取りに来た。

 調子を合わせつつオーダーを入れるジェドは、すっかり常連さんという雰囲気だ。


 彼がこの地に来たのは、三ヶ月前。

 ジェドことジェラルド様は、三年間通っていた帝国学院の最後で、オトモダチともどもご婚約者様を差し置いて平民の女子生徒(男爵令嬢に偽装済)とよろしくなった挙句、確たる証拠もない容疑で令嬢方を糾弾。あえなく返り討ちに遭い、保護者のみなさまの御前で赤っ恥を晒してしまった。

 ……ま、返り討ちの材料を根回ししたのは、他でもない私なんだけれども。

 厳しいお叱りを受けた彼は、国の宰相でもある御父君の命により、所領であるこのアルバで一年間の修行という名の贖罪をすることとなり――なぜだか私が、お世話係に任命されてしまったのである。

 

 それから秋も過ぎ、冬の暮月くれつき初めに十八になったジェドは、年末やんごとなき事情で一時お貴族様の世界に復帰した。が、またアルバに戻り、ギルド[蒼虎]の職員見習いという名の私の下僕に精を出す日々なのだ。


「ジェド様は、今朝もトレーニングしてきたの?」

「うん。柔軟して、筋トレと走り込みと投げと受け身の練習を一時間半くらいかな」

「よく続くねぇ」

「ここにいる目的の半分は、そのためだから」


 色白の頬をピンクに染めて、「やっと次から打撃技を教えてもらうんだ」とはにかむ青年の頭を、両脇の男たちがわしわし撫でる。貴族の若様にしては動物じみた扱いに、リーザが何とも言えない顔になった。

 や、どんな形でも、かわいがってもらえるのはイイことだと私は思いますけどね?


 ジェドは、領地のことを学び直したいという本人とご当主様の意向から、職員見習いという立場で受け入れてはいるけれど、贖罪期間を過ぎれば貴族社会で生きていくべき人間だ。そこでギルドの冒険者たちの手を借り、見習いの仕事とは別に、彼に不足していると思われる体力作りを兼ねた武術訓練と魔術訓練を積極的にスケジュールに組み込んでいるのだ。

 なので、私は〝お世話係〟という言葉通り、下町で生きるためのいろはを叩き込むことと衣食住の世話に徹している。学院生活でメイドとしてお仕えしていたので、その延長みたいなものだ。

 食事や身の回りの品の好みだけでなく、スリーサイズに体脂肪率、寝ぐせの直し方まで完璧に把握済みである。ええ、下着だって洗いますよ。あ、髪のカットはしますが、身だしなみは自分で整えてくださいね。爪切りもね。


 浮きに浮きまくっていた外見も、すっかり下町の空気に馴染んできた。

 次兄曰く『うらやましいを通り越して気の毒なくらい』の美貌や、プラチナブロンドにアメジストの瞳という稀有な組み合わせは、変わらず平民の質素な服装に似合っていないのだけど、顔なじみが増えたせいだろうか。最初に比べて、格段に表情や仕草がやわらかくなっている。

 八割が外国人か混血、あとの二割が素性不明と言われる冒険者たちの集う街で、ようやく自分の立ち位置を掴めたのだと思う。よかったよかった。

 

 街の人の例に違わず、ギルド[蒼虎]を仕切るわが家の先祖も、建国時に初代アルバ華公爵が旅の途中で拾ったという素性不明の冒険者だ。〝蒼虎〟という名もその先祖か子どもに由来するらしく、虎は大陸の東側にしかいないので、おそらくそのあたりの出身だろうと言われている。そういう謂れもあって、ギルド長は代々〝虎〟を冠した二つ名を頂戴しているのだ。

 現在のギルド長は、父である[猛虎]ザントゥス。そのあとを継ぐのが――ただ今、ジェドと一緒にテーブルについている金髪の脳筋フェロ男――次兄の[若虎]ウォルターである。


 濃淡のあるダークブロンドの短髪をざっくり逆立て、青銅色ブロンズの肌に映える琥珀の双眸。父ほどの重量はないが、身長はわりとあり、格闘家ファイター寄りのAクラス冒険者だ。といって武器が使えないわけではなく、得意な得物はその場にあるものというマルチぶり。魔術の才にも優れ、風と地の属性ならば下位貴族よりよほど戦力になる。

 若い冒険者の面倒見もよく、責任感もカリスマ性も高い。

 挙げてみればこれ以上ない後継者なのだが、いかんせん――それらを打ち消して余りあるほどの女好きなのだ。まあ、これでモテないほうがおかしいが。

 相棒のAクラス魔剣士の[黒鷹]グリフィンと二人で、食い散らかした女性はたぶん三桁を下らない。わが兄ながら最低である。


 もげてしまえ、と思うのだが、後継を作ってもらわないといけないのでジレンマだ。

 ギルドに併設する薬事医療院の女医に『もいで冷凍して必要なときだけ嵌めるって、できないかな?』と相談したら、『人体はそこまで緩い造りじゃない』と真顔で一刀両断された。イイ案だと思ったんだけどなー。

 ウォルターには、ジェドの体力作り全般を任せているので、もう本当に、そこの部分の悪影響だけが心配だ。息抜き程度に遊ぶくらいは、見逃すつもりだけれど。


 カフェオレをちびちび飲みつつ、そんなことを思っていたら、背中合わせに座るグリフィンが椅子を傾けてこちらを覗き込んだ。


「エマが朝から来てるなんて、めずらしいな。メイド疲れか?」

「ん。食材切らしたの。成長期と大食漢がセットになると、減り具合が想定外すぎて」

「マジか」

「こないだなんて、夕飯にシチューを大鍋で十人前作っておいたのね。次の日の分も含めて多めにさ。で、用事済ませて夜戻ったら、鍋、空だからね」

「は? 十人前だろ?」

「そう、ひどくない?! わたしの分の一皿だけ避けて、あと空。すっからかんだよもう!」


 あのときは、目の前が真っ白になった。や、作ってあったのはホワイトシチューだけど、そこじゃなくて、翌日の家事労力をひとつでも減らそうとした私の努力が全部無駄になったと知ったときの、あの絶望感ったら……。今思い出しても腹が立つ!

 だってね、用意しておいたメニューはシチューだけじゃないんだよ? パンもサラダも、酒のつまみになりそうな軽食の盛り合わせもあったうえでのこの所業。

 ええ、笑顔で『美味しかったよ!』と褒められようが、鍋をきれいに洗ってあろうが(ただの証拠隠滅)、怒りはおさまりませんて。


 そのときの私の怒りっぷりを思い出したのか、金とプラチナのふたつの頭が、ぴぴぴと震える。ひよこみたいでかわいいとか、絶対思わないからな!

 グリフィンが、浅黒いワイルドな顔貌をくしゃりと崩して、豪快に笑った。


「あっは! どんな欠食児、養ってんだよ。あー……ひょっとして、あれか。ウォルがエマの機嫌とらないとヤバいって、めずらしく牝鹿狩って帰ったときがあったな」

「そう。あれは三日でなくなった」

「結構あったぞ?」

「6キロくらいあったかなー。ご近所さんにも少しお裾分けして、残り5キロ強をぺろりだねー」


 獲物は若い牝鹿だったので、肉がやわらかくて臭みもないため、熟成を待たずにすぐ食べることにしたのだけど――それが良かったのか、悪かったのか。

 解体を終えて冷蔵庫に収められた量に慄いたのも、ほんの一瞬。

 初日は長兄夫婦を交えて豪華な晩餐を開いたものの、肉の塊はもの凄い速度で食材へと姿を変えてなくなった。


「まず、ヒレとロースがステーキで消えるでしょ? 片側のモモはハーブと一緒にローストして、肩はワイン煮にして、肋も漬け込んで焼いて……あとはシチューでしょ。バラ肉は腸詰めにして、モモの残りを燻製にしたんだけど、つまみにしたりサンドイッチにしたりするうちになくなって……。骨に残ったのをこそいでミンチにすればよかったんだけど、面倒くさくてスープの出汁とって終わったねー。完食」

「すげえな」

「わたしは一週間くらい持たせたかったんだけどね? 『あるんなら食う!』って言う馬鹿がいてさー。獲ってきた本人がそう言うんならって、言われるままに出してたら、さくっと三日で肉祭り終わるよねー」

 

 連日連夜、肉、肉、肉のオンパレードだよ。

 最後は本当に野菜が恋しくなった。バランス大事。


「だけど、すごく美味しかったぞ?」

「そうだ、ジェドはイイこと言った。どれも美味しく食ったんだから、いいじゃねーか。やっぱエマの料理の腕がイイからだな、うん。……あ。つか、イイ肉獲ってきた俺の腕が最高ってことじゃね?」

「…………へーえ」


 冷たくそう返すと、ストーブの暖気に満ちているはずの場が軽く凍りついた。どうやら二十年も一緒にいるのに、まだ妹の地雷の場所がわかっていないらしい、この鳥頭。

 一言物申そうとすれば、これまた空気の読めないココ嬢が、朝食のプレートをトレイに乗せ、とびきりの笑顔でやってくる。


「えー。エマさん、お料理イヤなんですかぁ? じゃあ、ココが作ってあげるぅ。てゆーか、みなさんもっとお店に来てくれればいいんですよぅ」


 「サービスしちゃいます♪」とウインクを送るココ嬢は、看板娘の鑑のようだが、三人のメンズに視線をロックオンしているのはバレバレだ。

 私は「気を遣ってくれてありがとうね」と笑顔でごまかす。


「でも、大丈夫。ちゃんと対策考えたから」

「対策?」

「そ。ウォルの給料から、食費天引きすることにしたの」


 私、ギルドの会計係なので、出納や税金関係だけじゃなく、お給料もみんな握ってるんですよね。ま、自分の分も計算するのはちょっと虚しいんだけども。

 得意気にそう言えば、「は??」というみんなの声が重なった。


「天引きって、どういうことだ?!」

「それより、あんたのとこの家計どうなってたのよ? 今までもらってなかったの?」

「昔から家の生活費は別立てで管理なの。留守がちな親を持つ弊害?ってやつかな。だから、お金を入れようが入れまいが、マイナスにならなければいいってわけ。

 で。今回はうちでジェドのお世話をするから、家賃代わりに食費は全部向こうの支度金から支払ってくれって話だったのよ」

「あーら、太っ腹」

「だけど、さすがに三人分の食費じゃなくなってきてさ。前月9万だよ? 外食ほとんどしてないのに9万て、有り得なくない?」

「いや、それもだけど……この男、実家に住んでて収入あるのに、お金入れてないわけ?」

「もっと言ってやって、リーザ。給料を酒と武具と女に注ぎ込んで、毎月ぎりぎりなのよ。とーぜん貯金もほぼゼロ。二十四でこれって、甲斐性なしもいいとこじゃない?」

「や、それより天引きって……」

「毎月4万。食費、洗濯、掃除代込みなんだから安いと思いなさい」

「だって兄妹だろ? 妹が兄の世話するのはとうぜ――」

「うん、わかった。もうわたしがギルド貰うから、あんた独り立ちしなさい」


 ばっさり切り捨てれば、グリフィンが宥めるように、私の頭をぽふぽふ撫でた。


「落ち着け。おまえが婿とったって、あのギルド仕切るのは大変だぞ?」

「ギルドの経営権と家が欲しいだけで、別にギルド長になりたいわけじゃないのよ。冒険者を仕切るのは、やっぱ同じ冒険者が一番だからね。仕切り役としてウォルを雇用すればいい。で、あとの実権だけいただくと」

「……あー。それなら納得だな。今とあんま変わんないってことだろ?」

「今はまだ最終承認が親父どのなんだよ。あれもらえたら、すごい楽」


 ギルド長である父は、ここ最近、母と一緒にアルバ華公爵ご当主様の仕事にかかりきりのため、サイン待ちの書類が山積みなのだ。支払い滞納したくないんだけど。

 主都アルバレスでも屈指の高スペックといわれる男の実態を知って引いたのか、ココ嬢が、そっとスクランブルエッグとベーコンの乗った皿を置いて立ち去る。

 椅子を傾けたまま、グリフィンが短い髭をたくわえた顎に片手をあてて唸った。


「なるほどな。エマは帳簿の管理もできるし、書類も作れるし、貴族との交渉もできる。素材の鑑定も出来て魔道技師との繋がりもあるし、商人や職人にも一目置かれてるし、兵団や医療院とも仲がいい。……そう考えたら、おまえがギルド継ぐってイイ案だな」

「でしょ?」

「ちょ。おいこら!」

「ってことは、おまえ、ついに嫁に行くの諦めたのか?」

「婿をとるほうにシフトしたって言ってよ。でも、とくに後継ぎにはこだわらないんだよね。そのうちカイル兄にも子どもができるだろうし、そこのヒトの種馬具合なら一人くらい当たりそうだし。つか、今まで当たっていなかったのが不思議なくらいだし」

「おい!」

「魔力差じゃね?」

「うーん。だったら適当にこっちで相手を見繕って、一晩部屋に閉じ込めといたら出来る気がする」

「料理じゃねーんだから。お互いの感情っつーもんがあるだろ?」

「グリフがそれ言う? ……でもまあ、それなりに魔力があってコレの相手をしてくれる、気高いボランティア精神の持ち主の女性って、なかなか見つけるの難しいと思うんだよね」

「そこな」

「……おーい。おまえら、ひとの話聞けー」

「職として募集かけるって手もあるんだけど」

「内容的にプライスレスだろ。集まんのか?」

「やっぱ難しいかなあ。スペックだけはほんと良いんだよ?」

「中身アレだぜ? 女もだけど、金遣い荒すぎ。あとで詐欺だって絶対訴えられんだろ」

「おーい。もしもしー?」

「裁判沙汰はやだなー。グリフ、誰かイイ人いない?」

「エマが産めばいいじゃん。俺を婿にしろよ」

「ギルド継ぐ話が出た途端に口説くとか、節操なさすぎ」

「もしもーし?」

「ようは子ども作ればいいんだろ? 俺、結構イイ仕事するぜ?」

「はっはー。女性関係全部清算して、神殿でお清めするのが先でしょ」

「――くおら、おまえらっ! 俺のこと無視すんなっっ」


 さすがに放置しすぎたのか、ウォルターがフォークを持って仁王立ちする。

 ジェドはおたおたしてるし、リーザは笑い沈んでるし、朝だからまばらにしかいない常連のおじちゃんたちは生温い視線を送ってくるし。あーもう、なんて一日のはじまりだよ。

 わりと整ったワイルドな顔貌が、[若虎]そのものの形相で威嚇するけれど、残念ながら中身がアレなので怖くはない。ほんと、我ながら似てない兄妹だ。


「文句があるなら、毎月食費として5万払ってから言いなさい」

「……なんか増えてないか?」

「わたしのストレス分を上乗せしたの。それとも、給料全没収のお小遣い制がいい? あ、言っておくけど、ウォルに選択権はあっても拒否権はないから。毎月5万払うか、毎月5万のお小遣いか。選ばせてあげる」

「ちょっとそれ横暴っ」

「ちなみに決断に1分かかるごとに、1,000リオンずつ手元に残るお金が減っていきまーすっ。いーち、にーい、さーん……」


 カウントをはじめれば、10まで数えたところでパニくったウォルターが「月々払いますっ」と叫んだので停止する。ち、惜しいことした。

 「鬼……」とつぶやいて、ウォルターが席に突っ伏す。

 そこへ甘い香りを漂わせて、店の看板息子が焼きたての丸パンを籠に入れて運んできた。


「はい。熱々のパンでも食べて、元気出してください。ウォルさん」

「ありがとな、ケイ。優しいのはおまえだけだよ。まじで」

「褒めてもベーコンの量は増やしませんよ?」

「……ちっ」


 いい加減、肉から離れろ、兄。いや、こいつの場合、歯抜け爺になっても肉に齧りついている気がする。

 それにしても、焼きたてパンの香ばしい匂いが沁みるわ―。カフェオレしか入っていない胃が、こころなしか空腹を訴えてくる。

 ちゃんと朝食を頼めばよかったんだけど、この店、ギルドの近くにあるだけあって、量が多いんだ。小食なわけではないけど、ストレスで弱ってる胃には、ちょっとツラい。


 元気になったらガチ食いしよう、と心に決めていると、目の前のソーサーに、キツネ色の丸パンがひとつ置かれた。

 驚いて見上げれば、ひとつ年下の茶髪の癒し系が、天使の微笑を湛えている。


「カフェオレだけじゃ、お昼までもたないですよ。食べてください」

「でも……」

「やっと親父から合格もらって、おれが焼いたパンなんです。おまけしておくんで、感想聞かせてください」

「うそ、ケイくん焼いたの?」

「へー、すごいじゃない」


 この[タイガーテール]の〝親父さん〟こと料理長のギルロイおじさんは、冒険者も真っ青なこわもての容姿に違わず、料理にとても厳しいのだ。カミラおばさん似で柔和な後継ぎ息子は大丈夫かと心配していたのだけど、すっかり一人前の料理人に成長しつつあるらしい。


 リーザと二人で褒めたたえ、早速それぞれ丸パンを手に取った。

 まだ温かいパンは、見た目よりずっしり重い。指先に力を込めて割れば、卵の殻よりも薄い表面に、ぱり、とヒビが入り、ぐっとした手ごたえとともに、もっちりしたベージュ色の中身が顔を覗かせた。湯気を吸いこめば、かすかに酸っぱい酵母の香り。

 小さくちぎって、湯気ごと口に放り込む。舌に感じるのは酸っぱさよりも甘みで、全粒粉の小麦とライ麦が絶妙に配合された、ぷちぷちもちもちした触感が笑ってしまうくらいに楽しい。

 これこれ、この味。皇都で流行っている真っ白なふわふわパンも美味しいけれど、このしっかりした味わいがたまらないのだ。ああ、具が欲しい。


 椅子の向こうの大きな背中をつんつんして、男どもから葉野菜とスクランブルエッグを恵んでもらう。リーザと二人、ちぎったパンにそれらを乗せて口に運べば、香ばしさが倍増して、もうリアル天国だ。


「んー。すっごく美味しー。しあわせー」

「ありがとうございます」

「おじさんのより、ちょっとやわらかくて、もっちり感があるかな? 捏ね方とか発酵時間変えた?」

「さすがですね、エマさん。食べごたえがあるほうが好まれるんですが、あんまり硬いと噛み千切るのに大変だと苦情が出て、レシピを見直し中なんです」

「わたし、これくらい好きかも」

「うん、イイ感じ。あたし、お昼用に買って帰ろうかな。持ち帰りいい?」

「もちろんです、リーザさん。いくつしますか?」

「二つ包んで。あと、お勘定お願い」

「かしこまりました」


 見かけによらず早食いのリーザが、ぱくぱくとパンを口に放り込み、欠片でスクランブルエッグの残りをすくい取るようにして完食した。ブラックコーヒーをぐっと飲み干す姿は、夜の蝶というより徹夜明けの官吏だ。おとこっすね、姐さん。

 コーヒーは南方から持ち込まれた異国情緒たっぷりの飲み物なのだけど、皇都では専門店ができるくらい大流行していて、三年間あちらにいた私もどっぷり中毒だ。当然、馴染みの店にも友人にも広め済みである。


 仕事終わりでお腹も満たされたせいか、少し眠そうな顔のリーザが、背もたれのコートを手に取り、ふと動作を止める。眉をひそめた視線が、きっちり半分残した私の手元のパンに注がれているのに気づき、そっと両手で隠した。


「……おやつにするからいいの」

「あんた、ほんと朝ダメよね」

「ほっといて。それに、今これ全部食べると、あとで地獄を見るんだもん」


 言い訳がましく小声で反論すれば、呆れたようなため息が返ってきた。


「薬は?」

「持ってる」

「カフェオレで飲むんじゃないわよ?」

 

 鋭い。けど、さすがに私も食堂で胃薬を飲む度胸はない。


「ギルドに帰ってから飲む」

「あんまりいろいろ溜め込みすぎないのよ? 絞りたてジュース用意しとくから、羽目を外しに店に来なさいな」

「そこはせめて林檎酒シードル

「愚か者」


 マニキュアを塗った爪で軽くデコピンされた。地味に痛い。リーザ姐さん、爪長いから食い込むんだってば。でも、これも愛情なので、甘んじて受けておく。

 軽いやりとりの後、自分の分を精算して、リーザが一足先に店を出ていった。もうちょっと付き合って欲しい気もしたけれど、お互い忙しい身だし、わりとドライな関係でもある。

 私も、食べ残したパンをこっそりハンカチに包んで鞄に入れ、先に会計を済ませた。


 隣のテーブルでもりもり朝食を頬張るジェドが、こちらの様子を見て、焦った顔になる。ゆっくりでいいと身振りで示し、冷えたカフェオレのマグカップを手に、しばしテーブルに伏せた。

 

 ――胃、いた。


 パンのテンションでごまかしていた胃が、入ってきた食事にぐじぐじと抵抗をはじめる。目を閉じ、うたたねするふりをして痛みをやり過ごした。

 胃痛の原因は、はっきりしている。

 不眠だ。三度の食事より睡眠が欲しい私は、眠れないと確実に体に不調が出る。

 まったく眠れないのではなく、眠りが浅くて、リーザに話したようなおかしな夢を何度も観るのだ。夢を観ては覚醒し、また微睡んでさらなる悪夢を観る。それを繰り返して、だんだん寝ているか起きているか分からない状況になって――今に至るというわけだ。


 不眠の原因は、もちろんストレス。とはいえ、ジェドのせいだけではなくて、彼に関わったことで直面した事態のほうが問題なのだ。


 アルバ華公爵家嫡男だった彼は、帝国学院に中途入学してきたニセモノ男爵令嬢に骨抜きにされてこんなところに来ることになったわけだけど――それは、共に(というか、それ以上に)骨抜きにされていたはずの皇太子殿下が、実は、宮廷の派閥争いを打開するため皇太子位を返上しようと密かに目論んだことが発端だったもので。

 それが、共犯だったニセモノ令嬢が暴走したことで、事が大きくなってしまい。

 さらに、事態を収めるために登場した皇帝陛下によって、なんとニセモノ令嬢は〝魔蟲バグ〟と呼ばれる神樹を喰らう魔物に操られていたことが判明し。

 その魔物こそが、長くわがロザリオン帝国と敵対関係にあった神聖王国を混沌に陥らせた主因で、かつ危険すぎると皇帝自ら滅ぼしたはずの存在で。

 当然、国際問題寸前まで発展するところとなり。

 アルバ華公爵ご夫妻の命を受け、学院内でいろいろ暗躍していた私も、否応なくこれらの事情に巻き込まれてしまい――。


 結果。

 ストレスのかかった私の脳は、これまで厳重に封印していたはずの、ひとつの情景を思い出してしまった。


 十年前、視えるはずのない〝糸〟を辿った、おぼろな思い出。

 その先にいた、髑髏模様を背負った金属光沢の丸い生き物。

 ざわざわと。

 大量の。


 ――――忌まわしい記憶を。


 

十人前のシチューを一晩で食べ尽くされた話は事実です。父と兄にやられました(泣)。

なんでそうなる。。


2020/1/4:通貨単位修正。

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