20.へたれ仔犬の心身改造計画(13)
白魔鎮圧後、アルバは完全に雪に閉ざされた。
雪は一度に降るのではなく音もなくひたすら降りつづき、今や、山も森も家も農地もすべてが形を失くす白い世界だ。これで白魔鎮圧が失敗していたら、どれほどの雪の量になっていたのだろう。
街から人の姿は消え、取り残されていた僅かな行商人とともに、カエルレウムとヴェルメリオも街を去った。
ギルドは休業。代わりに自治兵団と協力して、雪かきに追われる毎日だ。
それでも、これを乗り越えると春は間近なようで、街の住民はみな黙々と雪に耐えている。
静かな昼の街並を照らすのは、雲間の向こうの淡い太陽と、等間隔に建てられた見張り塔の燈火。そして、彼方にそびえるアルバ城の魔法光の明かりだ。
城からは幻想的に見えた景色を大地に立って見上げれば、この厳しい冬に抗おうとする力強い生命の輝きに思えるのは、平民の生活に馴染んだせいだろうか。
中途半端になってしまった私の魔力制御だが、魔力を減らすことには成功しなかったものの、契約精霊を召喚すると安定性が増すことが判明した。そこでクウェンティンの許可の下、週に二度ほど、ふたりを召喚した状態で魔術訓練を行なうことが決まった、のだが。
自由気ままな精霊にとって、人型をとっての侍従訓練はかなりストレスが溜まるらしく、ほぼ毎日――おそらく休憩や訓練後に――勝手にこちらにやって来るようになってしまったのだ。
「また来てんのか」
「……うん」
武術訓練が一段落した、本日の昼下がり。
シラー家のリビングにウォルターと来れば、火を絶やさない壁際の暖炉を囲むようにソファとローテーブルが置かれたそこに、なぜだか精霊たちの気配がある。
見れば、青龍が屋根の上でとぐろを巻き(窓から尻尾が見えている)、朱王にいたっては、暖炉の前に干した洗濯物にまぎれて、火蜥蜴の開き状態で寝こけていた。
「なんだかごめん」
「おまえが謝ることじゃねえけどさ。ここまでくると、召喚に意味があんのかって疑問になんだよな」
「私もそう思う」
至極当然なウォルターの意見に、私はしょんぼりと眉尻を下げた。
精霊は本来、人との積極的な交わりを好まない。その傾向は力の強さに比例すると言われ、上級精霊などは契約で喚び出さない限り、滅多に人界に姿を現わすことはない。
だが、朱王と青龍は、その誕生の経緯ゆえか強大な魔力ゆえか、契約前からこちらの世界に入り浸っていたものたちだ。そのあたりのこだわりはないらしい。
そのうえ一度星霊界に戻れば物理的な距離は関係なくなるらしく、皇都とアルバを毎日往復するくらいなんともないようなのだ。
召喚ではないので、実体化しない気楽な動物の姿だが、この地に滞留する高濃度の魔力のせいか視えやすく、[身体強化]の要領で魔力を纏えば触れもする。
つい先日は、朱王が暖炉前の特等席のロッキングチェアに上がろうとして、コジローさんの猫パンチを浴びて引き下がっていた。さすが冒険者の片腕も務める最強猫だ。
ロッキングチェアは、今日もコジローさんの定位置である。
ちなみに、エマは朝から医療院の手伝いに出掛けて不在。ギルド長夫妻と補佐のヤンは、この雪で道を閉ざされ、まだ帰宅できていない。馬に擬態したタローさんとサブローさんを連れ、ムーとセラのコンビが迎えに行っている。
要領を覚えたウォルターが、鮮やかなオレンジ色をした火蜥蜴の腹を指でつつく。
「まあ、かわいいからいいんだけどよ」
「召喚しないと普通、言葉も通じなくて触れもしないものなんだが」
「言葉は通じねえけど、意志疎通はできんだから問題ねえだろ。あいつら表情分かりやすすぎだ」
「本当に」
侍従訓練の成果、なのだろうか。ふたりとも動物の姿では冷血と呼ばれる爬虫類系なのに、顔つきも態度も感情が表に出まくりなのだ。
私の魔術訓練が進んで以前より意思疎通がしやすくなったせいかと思っていたが、ウォルターにも分かるのなら、原因は彼ら自身なのだろう。
「侍従としても精霊としてもどうかと思うんだが」
「はは。飼い主に似るんじゃね?」
むっとすれば、言葉の代わりに大きな手が、私の頭をわしわしとかき混ぜる。
「わっ、やめろって」
「おまえの頭、撫でやすいんだよな」
「なんだよ、それ」
相変わらず意味不明だ。痛くはないが、荒っぽくて目が回るからほどほどにしてほしい。
私はウォルターの手から逃げ、暖炉の前で温もった洗濯物の回収にとりかかった。腰高の室内用物干しに下がるのは、主に私とウォルターの訓練着や肌着だ。ぱりりと乾いたそれらの皺を伸ばし、形を整えて畳んでいく。
……だいぶ慣れたな。
最初は、洗濯物を畳むという行為の意味が分からなかった。というか、着て汚れた衣類がその後どうなるか、考えたことがなかったのだ。
……[清浄]の魔術で全部どうにかしていると思っていたからな。
魔力を介して汚れを除去する[清浄]が、何度も行なうと魔法素材以外ではかえって生地を傷めてしまうことや、魔力量の少ない者にとって毎日繰り返し使用できる術ではなく、むしろ水流を回転させる魔法陣を組み込んだ魔道具を起動させるほうが楽だなんて、知ったときは目から鱗だった。
そのうえ、自分の下着がエマに洗われ、ロープに吊るされてはためいているのを見たときの、あの衝撃。顔から火が出るとはこのことだ。
すぐにエマに頼んで、自分の下着だけは自分で洗うようにした。風呂に入ったときに一緒に手洗いするのだ。みんなから「今さら?!」と呆れられたが、これだけは譲れない。
私にも意地があるのだ。
洗濯物の中に、一際小さな白いブラウスを見つける。エマのだ。
さすがに女性らしく、肌着めいたものは目に付くところにないが(あっても見ないようにしている)、その他の衣類はそれほど振り分けられもせず、一緒に洗濯されている。
……さすがに女性物は違うな。打ち合わせが逆なのは知ってたけど、前も後ろもウエストも袖口もひだが詰めてあって、アイロンをかけるのが大変そうだ。
慣れているエマは、私たちの分も含め流れ作業のようにアイロンがけをするので、それほど大変そうには見えないが、私がやったら確実に皺くちゃになるだろう。
ブラウスを傷めないよう、そっと皺を伸ばして慎重に畳む。小さいから折り返しが少なくて、思わず口元が緩んだ。
この小ささにエマの肩や腕がおさまってしまうのだと微笑ましく思っていたら、じっとりとした視線を感じた。
はっと顔を上げれば、半眼となった朱王とウォルターと目が合う。
「いや、これはやましい気持ちなどではなくて……っ!」
「俺はなにも言ってねえけどな?」
『……』
朱王からの無言の圧力がツラい。そんなに変質者を見るような目で見ないで欲しい。
別に、服の匂いを嗅いだわけでも頬ずりしたわけでもないのだから、妄想するくらい良いではないか。気になる女性とひとつ屋根の下にいるというのに、監督されるという立場にかこつけて寄り添ったり手を繋いだりするくらいしかできないのだ。
……うん、我ながら変態っぽい。
自分のダメさ加減にため息をつきつつ、畳んだブラウスを近くのソファに置く。
煩悩を打ち消そうと洗濯物の片付けに没頭していると、ぱさりと広げた自分のズボンの後ろが裂けているのに気が付いた。
……縫えるかな。
穴に指を入れながら考える。
平民の衣服は魔法素材ではないので耐久性が低く、訓練で一月も着れば縫い目が裂けてしまう。なので、エマとキアラから繕い方を習ったのだ。まだまだ下手だが、自分で着る分には問題ない。
袖のほつれかけたシャツと一緒に脇へ避け、先に他の洗濯物を畳んで、三人分の山に振り分けた。
「ウォル、洗濯物はどこに置けばいい?」
声をかけると、ローテーブルに砥ぎ道具を広げていたウォルターが、顔を上げる。
「わり。部屋に入れといてくれ」
「ん。手前の箪笥のところでいいか?」
「サンキュ。……あ、おまえのナイフも出しとけよ。一緒に手入れしとく」
「分かった。ありがとう」
シュッシュッと小気味いい音を立て、革砥で小刀を砥ぎはじめるウォルターを横目に、三人分の洗濯物を混ざらないように抱えて階段へ向かう。
「おい、ジェド。洗濯物残ってるぞ」
脇へ避けたシャツとズボンを目顔で示され、思わず眉が寄る。
「それは穴が開きそうだから、これから縫おうと思って」
「マジか。おまえ縫えんの?」
「……習い中」
縫えるとは断言しづらくて言葉を濁せば、ウォルターが妙な顔になった。
「カイ兄にか?」
「いや、キアラとエマにだけど」
「そっか。じゃ、俺のも頼むわ」
にかっと笑ったウォルターが、ローテーブルの下の裁縫道具の籠の中から、布きれを掴んで差し出した。どう見ても男物のパンツだ。
「エマに頼んでるのに、あいつ、いつまでたってもやってくれねぇんだよ」
「自分でやればいいだろう」
「俺、細かい作業苦手」
悪びれもせず言い切る年上の男に、私はため息をついてそれを受け取った。自分もこれくらい気軽に他人を頼れたら楽なのにと思う。
「どうなっても知らないからな」
「ん。履ければOK」
洗濯してあるとはいえ、他人のパンツをまじまじと見るのは抵抗がある。脇へ避けたシャツとズボンの上に無造作に積み重ね、私はもう一度洗濯物を抱え直して階段へ向かった。
すると、またもウォルターの声がかかる。
「おい、ジェド」
「なに?」
「洗濯物――盗むんじゃねえぞ?」
にやりとした視線が差す先は、私の鼻先で揺れる、白いブラウス。
かっと耳の先が熱くなる。
「ぬ、盗むわけないだろうっ!」
「ま、下着盗むよりかマシだけどなー」
「盗まないったら!!」
「だけど、お前も夜のお供はいるだろ? エマがいない今がチャンスだぞ。黙っといてやるから」
「盗らないって!!」
牽制しているのか唆しているのか――多分からかっているだけという線が一番濃厚な相手を睨み、私は足音も荒く階段を駆け上がった。
きっと顔は真っ赤になっているだろう。すごく熱い。
心配したのか、火蜥蜴姿の朱王が走り寄って私の背中をよじ登り、ぺそりと頭の上におさまった。
*
エマは毎日私の傍にいて、優しいし笑顔はかわいいし、料理は抜群で身の回りの世話も完璧。弱いところも曝け出せて相談にも乗ってくれるし、誰よりも私の成長を喜んでくれる。そのうえ夢だと思っていた理想の女性にもっとも近い相手――というか本人、なのだ。
好きにならないわけがない。
だけど多分、エマは私のことは何とも思っていないのだと思う。
私の監督という仕事に収まらないほど親身に世話をしてくれるが、それは彼女の性格に依るところが大きい。末っ子のくせに、早くから働いていたせいか、とにかく面倒見がいいのだ。
ヒースのこともそうだし、ギルドの専属たちもエマの友人たちも街の人も、なにかとエマの助けを求めにくる。
各種悩み相談にはじまり、薬の配達に畑の害虫駆除、魔道具の修理、食堂のメニュー開発に街の学校の臨時講師。アルバ神殿からは《聖誕祭》の歌唱依頼まで来ていた。
これは、《聖誕祭》には私と皇都の夜会に参加することになったため断ろうとしたが、神殿側が折れずに結局前夜祭で歌うことになり、皇都の往復を転移魔法陣で強行突破したというオマケつきの一件だ。
澄んだ歌声はもちろん、金の星の冠を被り、白の貫頭衣風ドレスを着て、蝋燭の灯に囲まれて歌うエマは息をのむほど美しかった。アルバ神殿の英断を心の底から称えた。
それはともかく。
仕事終わりに様々な用事を家に持ち帰るエマは『自分も助けてもらってるから当たり前』と言うが、明らかに働きすぎだと思う。ときどき作業中に転寝したり、目の下に隈を浮かべたりするのだから、少しはセーブして欲しいものだ。
まあ、一番面倒をかけているのは私なのだが。
無論、私に心を許してくれてはいる。敬語はなかなか崩れないものの、アルバに来る前のよそよそしさはまったくないし、冗談や軽口も言い合える仲だ。
いや――むしろ、心を許しすぎているかもしれない。カイルが弟だと言ってくれたが、まさに家族扱いなのだ。
嬉しいが、エマに関しては、本当に本気でこれが困る。
シラー家に来て、エマが寝間着姿でリビングをうろついているのを見たときは、しばらく固まった。ガウンを羽織っているならまだいい。最悪なのは――最高ともいうが――湯上りで、濡れた髪のままのネグリジェ姿だったりするのだ。
もう本当に、私をどうしたいんだと叫びそうになる。
……うん、分かってる。エマに慎みがないわけでも、私を誘惑しようとしているわけでもなく、家に風呂場がひとつしかないという物理的要因によるものだとは。
確かにここは彼女の家だし、どういう格好をするのも自由なのだが、それでもさすがに彼女の寝間着の下が無防備な素肌だと気がついたときは、猛ダッシュでウォルターの部屋に駆け込んだ。
『おう、どうした?』
『……エマが、服、を……着ていなくて』
『あいつ、いつの間にストリップなんかするようになったんだ?』
『そうじゃなくて! その、夜着の下に……』
『あー……。でも、俺も寝るときはパンイチだぜ?』
『男と女では状況が違うだろう!』
危機感のない発言に、思わず大声を出してしまった。
だいたいこの兄妹は、自分で言うのもなんだが、女性絡みで問題を起こした相手に対して警戒心がなさすぎる。部屋に鍵もついていないのだ。魔道具の首輪を当てにしすぎないで欲しい。
その後、ウォルターがどう言ってくれたのか分からないが、エマは寝間着の下に肌着をつけてくれるようになった。
『気づかなくてごめんなさい』
『いや。その、私も家族扱いは嬉しいが……やはり他人だし、節度はきちんと守ったほうが良いと思うんだ』
『気をつけます。ジェドも、嫌だったら遠慮なく言ってくださいね?』
『…………うん?』
『まさかジェドが、例の件で女性が苦手になってるなんて思ってもみなくて……。そうですよね。薬も盛られたし、彼女には魔蟲が憑いてたし、良い印象はないですよね。早く克服できるといいですね!』
……何を言ったんだ、ウォル。想像はつくけど!
ウォルターへの腹立たしさを押し込め、私はエマの手を両手にとった。こうなったら誤解を利用してやる。
『じゃあ、克服できるまで、エマが傍にいてくれる?』
『もちろんです』
『よかった』
よし、言質はとった!と心の中で拳を握った。
根本的な問題はなにも解決していないが、これはこれで他の女性を遠ざける理由になるし、堂々とエマに触れることができる――あくまでプラトニック限定だが。
後日この状況を知ったキアラとリーザには、『これも修行だね』と同情された。
生温く見守られている状況に、若干へこむが仕方ない。反対されるよりましだ。
私はわりと分かりやすくエマに纏わりついているはずだが、周囲の当たりはそれほど酷くない。時々グリフィンとリーザがちくちく釘を刺してくるくらいで、むしろ彼女に近しい人ほど寛容なのだ。もう大人だから、本人から相談がない限りプライベートには口を出さないというスタンスらしい。
フィオーリには、『お嬢を泣かせたら、ヴィートさんの息子でも容赦しないからな?』と警告を受けたが、それも最初の一度きりだ。
……うん、あれはSクラス冒険者の本気の目だった。肝に銘じておこう。
意外なのがウォルターで、一番大事なのは家族と仕事(彼的にこの二つはイコールだから矛盾はないらしい)だと公言して憚らないくせに、なにかと私をけしかけるのだ。
『エマを落とすんだったら、親父がいないうちが勝負だ。頑張れよ、ジェド』
『頑張れって……ウォルはいいのか? その、私とエマが……どうにかなっても?』
『合意なら別にいいんじゃね? 嫌ならあいつが自分でどうにかすんだろ』
『家族として、妹の付き合う相手を見定めるとか』
『はは。これまでの相手、ろくな奴いなかったからなー』
そうだった。エマはこれまで五人の彼氏がいたんだった。ちょっと多くないだろうか。
『まあ、あいつらはちょっと違ってたしな』
『違う?』
『エマにもいろいろあんだよ。思うとことか、いろんな事情がな。……それより、あいつ結構手強いぞ? 恋愛慣れしてないからな』
『……待った。彼氏がいたんだよな?』
『いたぞ。ゴミみたいな奴な』
『なのに、慣れていないのか?』
『だからすぐに別れるんだって。言っとくが、あいつ処女だからな?』
『…………はああぁっ?!!! な……んで……?!』
『なんだかんだ言って、イイ子ちゃんだからな、あいつ。親父が結婚するまで許すなとか言ってたの、律義に守ってんだろ』
『それは、エマから聞いて……?』
『言うわけねえだろ。見りゃ分かんだよ。あいつは処女、間違いない』
『……ちょっと待って……頭がついていかない……』
『野郎に囲まれて育ったせいか、あいつ妙にスレてるから誤解されんだよなー。ま、お手柔らかにやってやってくれ』
『待った、ウォル。私にその情報を教えて、どうする気だ?』
『べつに。おまえも知っといたほうがいいだろ?』
『そうだけど! エマと顔が合わせづらくなるじゃないか!』
『このくらいで動揺してどうすんだよ』
『ただでさえ隣の部屋なのに……!』
『今さらだろ。……あ、ジェド。部屋に籠もるときは、ちゃんとタオルを窓から垂らすか、外のドアノブに結んどけよ』
『は? タオル?』
『合図だよ。こっちも最中に出くわしたくないからな』
『……もうなにをどこから突っ込んだらいいか分からなくなってきた……』
『あと、結界張るのは絶対に止めろ。ガキの頃、部屋に結界張って閉じこもったら、ドアごと親父に吹き飛ばされた。拳で』
『鍵は……?』
『もぎ取られる。家族に隠し事はするなとさ』
『……』
予想はしていたが、やはり最大の難関は父親のザントゥスのようだ。エマは冷たい態度だが、一人娘だし、変な虫がつかないか目を光らせているのだろう。
やはり修行が終わるまでは、プラトニックな関係を貫くしかなさそうだ。
当面の目標は、エマの期待を超えるほど訓練を頑張って、異性として見てもらうことである。情けないが、何事も、千里の道も一歩から、だ。
*
何度か深呼吸をして冷静さを取り戻し、私は朱王を頭に乗せたまま、階段を上りきったちょうど反対側にあるウォルターの部屋に向かった。
ドアを開けると、目に飛び込んでくるのは巨大なベッドだ。冬らしく火鼠の毛皮が敷き詰められている。言わずもがな、自分で狩ったものらしい。獣臭はなく、オイルや革の匂いに混じって、仄かにムスクの香りが漂った。
「いつ見ても意外だよな」
『キュ』
木調でまとめられたウォルターの部屋は、驚くほどシンプルで、きっちり片づけられている。ベッドの他は右側の壁と一体化したクローゼットに箪笥、折り畳み式のテーブル、ベッドの足元に同じ火鼠の毛皮の足置きマット。
ベッドにひとつだけ置かれたクッションは、青い布地に赤の端切れでドラゴンがパッチワークされたもので、子どもの頃カイルが作った鞄のリメイクだと聞いた。他に余計なものは一切置かれていない。
この几帳面さは、いい加減な性格とは真逆のようだが、状況に応じて様々な装備を必要とする冒険者には必須の素質だという。曰く、父親譲りらしい。
私は、入り口すぐ横に置かれた、小物類を仕舞った箪笥の上に畳んだ洗濯物を置いて、ドアを閉めた。
次に向かうのは、エマの部屋だ。階段横の狭い廊下を通り、三番目のドアを開ける。
中は土足禁止だ。全体に敷かれた淡いベージュピンクのカーペットが、入り口すぐで半円に切りとられ、そこで靴を脱ぐようになっている。
目隠し用の薄手のカーテンは、開け放されていた。左手にクローゼットとベッド、右手奥に本棚とデスク、中央には丸い座卓とクッションがいくつか置かれている。
エマのクッションの中にもカイル作のリメイクがあり、こちらはクリーム色の地に、明らかにコジローさんと分かる青い縞猫がでーんと居座っている。デフォルメされて愛嬌たっぷりだ。
家具は白、他のクッションや寝具は小花柄のパッチワークキルトで、全体的にとても女性的なのだが、本棚の上にずらりと並んだ不気味な人形たちが、部屋の雰囲気を見事にぶち壊している。
巨大なガラスの目玉に口を大きく開けた怪物の像、リアルすぎる豚、人とも猿ともつかない木彫りの仮面等など。唯一まともそうなクマのぬいぐるみでさえ、目が痛くなるようなショッキング・ピンクのドレスを着ているのだ。
それらはどれも父親の旅の土産で、一応、幸福を招いたり、災厄から護ってくれるものらしい。[鑑定]をもつエマをして、むしろ災厄を招きかねなく思えるものばかりなので、最初は部屋に置かずリビングに飾っていたところ、客人に大層不評で撤収となったそうだ。
気の毒に、と同情する相手は、エマよりもザントゥスだ。今度こそまともに娘が喜ぶ土産を買ってきて欲しいと、切に願う。
ぷんすか怒りながら教えてくれたエマの様子を思い出し、私はふっと笑いをかみ殺して、持っていたブラウスを壁際のカーペットの上に置いた。修行内容の打ち合わせで何度も入ったことはあるが、部屋主がいないところに上がるのは気が引ける。
身を起こす直前、ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐった。石鹸とハーブと何かの花の混じった香り。
……エマの匂いだ。
思った瞬間、再びかっと体の芯が燃えた。
「朱王、戻ろう」
『キュッ』
私はエマの部屋の戸を閉め、足早に隣の自室に移動した。
……ウォルが煽るからだ。まったく……。
本棚に囲まれたシンプルな部屋に飛び込み、ため息にも似た深呼吸をひとつ。ベッドの上に残りの洗濯物を放り置き、部屋を後にする。
ドアを閉めかけ、思い出して、ベッドの片隅から革の鞘に入った短剣を掴むと、私はようやく階下へ戻った。




