13.へたれ仔犬の心身改造計画(6)
夢の中で夢を観ていた。
まだ微睡みながら、ぼんやりとここはどこかと自問し、修行のためにギルドを訪れていたことを思い出す。
そして、夢ともつかぬあの出来事が、過去に起きた現実だということも。
……あれは、エマ、だったな……どう考えても。
となれば、あの薬師は、エマの母親のジーニアだろう。
なぜエマは今までこのことを話してくれなかったのかと腹立たしく感じ、同時にそれ以上に自分への羞恥でのたうち回りたくなった。
情けないところを見られただけではない。
成人を迎え、身も心も大人へと変わりつつあった、一番多感な時期。加えて、家族と離れ孤独に苛まれていた時に起きたその出会いは、短くも強烈な印象を私に残し、いつしか、やさしく慰めてくれた大人の女性と、不思議な導きを残した屈託ない少女の面影を混同させて、ひとりの理想の女性像に創り変えてしまっていたのだ。
魔術の影響か、断片的に妙にリアルに記憶していたせいもあるのだろう。
正直に白状すれば――〝彼女〟は、私の初恋だった。
……夢だと思って美化していた相手が、よりにもよってこれから世話になる本人だなんて、どんな罰ゲームだ。
エマを見て、既視感を覚えるはずだ。実際に会っていたのだから。
彼女は学院でメイドとして三年間も傍にいたというのに、どうして私は何も気付かなかったのか。眼鏡はかけていても、髪も目も色を変えていたわけではないというのに。
思い込みは目を曇らすというが、自分の視野の狭さが心底情けない。
……これからどうやって顔を合わせよう。
エマは忘れてしまったのだろうかと考え、すぐに否と答えが出る。彼女は私を鑑定したことがあると言っていた。きっとあのときなのだろう。
……早く会いに来れなかったと謝っていたな。
もっと前に出会えていたら。いや、あのままずっと傍にいてくれたらと、叶うはずのない空想がいくつも脳裏をよぎった。
いろいろ考えすぎて、胸が重苦しい。
溜め息を吐き、寝返りを打とうとして、体が動かないことに気が付いた。
はっと目を開けば、視界に広がるのは紺色の物体。ふわふわしたそれが毛布の上、私の胸の辺りにでんと居座っている。
「猫……?」
どうやら胸が苦しいのは、夢見の悪さだけではなかったらしい。
まんまるの顔に三角の耳、長いひげ。目は閉じて、両手を内側に折りたたんでくつろぎ、毛と同じ色をした小さな鼻からは、ぷすーと気の抜けた寝息が聞こえる。なんだかとても、おじさんっぽい。
そろそろと夜具から手を伸ばし、ぴくりともしない猫に触れてみる。想像以上にやわらかい紺色の毛に、もふりと指先が埋まった。おお、と心の中で感嘆する。
……もっふもふだ。気持ちいいなあ。
頬の辺りを撫でてやれば、ゴロゴロと低い音が猫から響いた。威嚇かと驚いて手を放す。すると、紺色の顔の中央にふたつ、光が切れ込むごとく金色が弧を描いた。丸い口吻が笑うように吊り上がる。
怒っていないのだと撫でる指を再開すれば、またもゴロゴロと聞こえ、催促するように顎が伸びた。どうやらご機嫌なサインらしい。
こんなに猫に触れて、間近で眺めるのは初めてだ。さっきまでの煩悶が癒されていく。
体重の圧しかかる胸は苦しいが、沁みてくる体温と指に触れる極上の手触りに、もう少しだけ耐えるほうを選んだ。
どこからか差し込んでくる明かりに照らされ、毛のふちが瑠璃色に輝く。それを逆立てるように撫でれば、単色に見えた体は、実は濃淡のある縞模様なのだと気が付いた。
……縞猫……あ、猫の場合は、トラ猫と言うんだったか。
ふと胸に浮かんだ違和感を留めようとすれば、遮るようにノックが響いた。声を返すと、灰色のワンピースにエプロンをつけた細身の女性が、ドアから顔を覗かせる。
「気分はどう?」
「大丈夫です。だいぶ良くなりました」
「それは良かった。――コジローさん、付添いありがとうね。もう行っていいよ」
後半は猫に向けて声がかかる。言葉が分かるのかと疑問を感じたが、紺色の猫は、くわ、と大きな欠伸をひとつすると、あっさり私の上から体を退け、身軽く床に飛び降りた。
若干の寂しさを覚えつつ、重石のなくなった体を起こして深呼吸すれば、彼女が笑ってこちらへやって来る。
「どうやらコジローさんに気に入られたみたいだね。初めての人には、あそこまでくっつかないんだよ」
「……光栄です」
「固いねえ。肩の力を抜かないと、これから一年もたないよ?」
彼女は、今日は薬師の証である白の頭巾を被っておらず、結い上げた濃紺の髪を露わにしている。記憶にあるよりも小柄で、目尻の皺が深い気がするが、すっきりした目鼻立ちはやはり美人だ。
「ジーニアだよ。よろしくね」と右手が伸ばされ、「ジェドです」と名乗って握り返す。触れた手のあたたかさに、夢の情景が一気にフラッシュバックした。
「……私、貴女を知っています」
「おや、憶えていたんだね。――すりおろし林檎、食べるかい?」
懐かしい笑顔で、とろりとした薄黄色のものの入った小皿が差し出された。ベッドに座ったまま、礼を言って受け取る。
一口食べた瞬間、夢の記憶そのままの味わいに泣きそうになったのは内緒だ。
*
一階の食堂に向かうと、すでにギルドの専属たちはそれぞれの住居へ戻っており、父とシラー家の者だけがいた。
ギルド長のザントゥスとジーニア、そして補佐のヤンは、父の仕事に駆り出されているらしく、軽く夕餉の席(昼食は寝すごして食べ損ねた)を囲んだ後、共に慌ただしく旅立っていった。
おそらく、あの魔蟲という未知の魔物絡みなのだろう。私は書物でしか知らなかったが、アイスバーグ侯爵家に謝罪に赴いた夜、父から事の顛末を聞いて初めて――その場にいたエマの蒼白な顔も併せて――実在する脅威なのだと実感したばかりだった。
神の憑代と言われる神樹を喰らうその魔物の存在が、国家機密なのは分かる。だが、そのことで父が、ギルドを秘密裏に動かす理由が理解できない。しかし必要なことなのだろうと、ぐっと疑念を抑えている。
まだ自分は守られる側で、誰かを守れる立場ではないと自らに言い聞かせて。
中途半端に欠けたテーブルの席に目を遣り、エマが申し訳なさそうに詫びる。
「初日なのに、落ち着かなくてすみません」
「いや。父の用命なのだから、仕方ない。世話をかける」
これから彼女の指示に従うのだから、この言い方ではおかしいか。
「その、世話になります」
「……調子が狂うので、いつもの言葉遣いでいいですよ?」
「いや。まずは形からというし」
それに、エマとは適度な距離を保たないと、いろいろと大変なことになりそうな気がする。自分的に。
神妙に考えていると、真向かいに座るウォルターが笑い飛ばした。
「どうせ明日からそれどころじゃなくなって、ぐだぐだになるんだ。堅苦しいのなんて、止めとけって」
ウォルターは初対面ではかなりの強面に見えたが、しゃべると面倒見のいい陽気な兄貴分という印象だ。あれを食えこれを食えと勧めてくる。
その隣に座るのが、長男のカイル。彼はギルドではなく市の自治兵団に勤めており、結婚して家を出ているそうだが、こうした家族の集まりには必ず顔を出すという。斜め向かいの端の席には、嫁のキアラが座っていた。
カイルは、濃褐色の短髪に金茶の瞳のあたたかな顔貌の持ち主で、あまり他の弟妹には似ていない。本人曰く『ばあちゃん似なんだ』とのことだ。
さすがに体つきはがっちりしているが、ザントゥスやウォルターのような威圧感はなく、人柄がそのまま滲み出たような人好きのする男だった。
テーブルに所狭しと並べられているのは、キアラの実家の料理屋に手配してもらったという大皿料理の数々だ。
豪快な豚の塊肉の塩釜焼きをはじめ、白身魚のフライ、チーズと茸と野菜のオーブン焼き、ミートボールと豆のトマトシチュー。パイはポテトとミンチ、チキンと野菜の二種があって、さらに野菜のマリネの上に山と積まれたソーセージに、ずっしり重いブラウンブレッドまであると、正直メインディッシュが影を潜めるほどだ。
テーブルには現在女性二人を含めた五名しかいないのだが、食べきれる量とは思えない。
少しずつ一通りいただいたところで、私はもうお腹いっぱいになってしまった。というか、ソーセージ一本が皿からはみ出す大きさなのだが、これは本当にサイドメニューなのだろうか。
食事の手が止まったのを見計らい、ウォルターが私のグラスに酒瓶を差し出す。
「ほら、ジェド。酒呑め、酒」
「あんまり強引に勧めるなよ、ウォル。困ってるじゃないか」
「なんだよ。せっかくヴィートさんから、いいワイン貰ったってのに」
「ジェドはそのヴィートさんの息子だぞ。呑み慣れているだろう」
「あ、そっか」
父の身分を知っていてこうなのだから、シラー家の者は皆、肝が太い。それでも不敬に感じないのは、踏み込み過ぎた馴れ馴れしさがないからだろう。
受け入れてはくれるが、一定の距離感を保った空気が心地よく、私も少し甘えてみようかという気になってしまった。
「すまない。私は今その、お酒を控えていて」
「体調のせいか?」
「いや。以前……失敗をしたので。止めておこうかと」
軽いお酒であれば、この国では十六から飲酒が認められているし、十八になれば何を飲んでも良いのだが、いかんせん最終試験発表のときに飲んだシャンパンが悪かった。
そのときはいろいろと最高の気分だったのだが、実は薬を盛られていたらしく――しかも唯一身も心も許したと思った相手から――その夜、私は死にかけたようなのだ。
私自身は寮に帰り着き、息苦しさから水を飲みたいと言った記憶までしかなく、事の顛末はエマから聞いた話になるのだが。
苦笑でごまかせば、隣でエマが、堪えきれない笑いをグラスに隠していた。思わず、じろりと睨む。
そのやり取りに、察したらしい年上の男たちが、したり顔で頷いた。
「女か」
「女がらみだな」
「…………う」
「おまえなあ、そんなので禁酒してたら、次はもっと酷い酔っ払い方すんぞ? 呑まねえと、どんどん弱くなるからな」
「いや、薬が入っていたらしいから、それさえ避ければ、たぶん――」
ごにょごにょと言い訳をすれば、ウォルターの琥珀の目が大円になった。
「薬か! いきなりエグいの来たな!」
「あー、それは嫌なの引いたな、うん。ちょっとキツいな」
兄弟が口々に言い、共感したように頷く。温厚な顔に気遣わしげな色を浮かべ、カイルが私に尋ねた。
「薬が入ってたのって、ゲームとかじゃないんだろ?」
「ああ、知らないうちに入れられていて……でも毒とかではなくて、体質に合わなかっただけだと――」
「毒じゃなきゃいいとかいう問題じゃないぞ、それ」
「酒に薬盛るって発想がヤバいって。どこの女だよ」
救いを求めるように、傍観を決め込んで食事に集中しているエマに視線を送れば、兄弟二人も気が付いた。
「エマ?」
「……まあ、側近排除して二人きりになったのはジェドですからねえ」
「おま、少しは自衛しろよ! 魔術使えんだろ?!」
「私のために用意してくれた酒を目の前で[走査]するのは気が咎めて……」
「なんで上位貴族が遠慮してんだよ」
「ジェド。それは言い換えれば、〝自分がよく知らないものを勧められるままに口に入れる〟っていう、最悪のパターンだぞ? 毒じゃなかったのがラッキーなくらいだ」
二人に畳み掛けられ、私は椅子の上で身を縮めた。そこへエマが「毒じゃなかったけど、死に掛けたから一緒ですよねー」と容赦なく爆弾を投下する。
ウォルターが笑い出し、カイルが太い眉を八の字に下げた。
「ジェド、危機管理って知ってるか?」
「うーん。こりゃ、体力強化の前に自己防衛教えたほうがいいな」
「み、身を守るくらいならできるぞ?」
「剣が遣えるのと自己防衛力は別だろ。剣術は手段、自己防衛は予測と回避と対応、そしてリカバリーを合わせた、戦略だ。場数と頭がものを言うんだよ」
そう言われてしまえば、ぐうの音も出ない。感心していると、エマが吹き出した。
「ウォルが偉そうなこと言ってるー」
「バカヤロ、事実だ」
「まあ、ウォルの場合は、頭じゃなくて本能で危機回避してるからな」
「うっせ」
「自己防衛って、なに教える気?」
「魔術教えるのはキリ婆の仕事だから、俺がやるんなら体術だ。投げ技、固め技……主に関節技だな。あと受け身と逃げ方。どのみち呼吸から教えることになるから、体使ったほうが覚えがいいだろ」
体術はある程度習っているつもりだが、関節技や受け身というのは聞き覚えがない。それに――。
「呼吸?」
「今日もキリ婆に言われてたろ? 魔力制御には必須だけど、呼吸だけに集中するのは、なかなか最初は難しいからな。体で覚えたほうが呑み込みが早い」
大皿から次々と肉の塊を取り、淀みなく口へ運びながらウォルターが教える。使うのはフォーク一本で、けして行儀がいいとは言えないが、食べ散らかしたり頬張ったまましゃべることはなく、下品な感じはしない。
エマとキアラは慣れた様子でナイフとフォークを使っているし、カイルは食べるよりも給仕するほうが多く、空いた酒瓶や皿がいつの間にか片づけられていく。
華公爵家と懇意なのだから彼らが普通の平民ではないことは明らかだが、翻せば、平民でもここまでのマナーを身に付けることが可能なのだ。
学ぶことは多そうだ、と襟を正す気持ちでいると、ふと斜め前のカイルと目が合った。
「あんまり気を張りすぎるなよ、ジェド」
「は、はい」
「固いなあ」
はは、と軽い笑い声があがる。
「俺はさ、ウォルやエマと違って仕事を任されたわけじゃないから、無責任な言い方になるかもしれないけど……きっかけはどうあれ、ジェドは、修行のためにここに来たんだよな?」
「……うん」
「修行ってのは、何かを会得するためって思われがちだけど、俺は自分の限界を広げることだと思ってる。そのためには、自分を正しく見つめないといけない。分かるな?」
グラスを持たない左の掌が、境界を示すようにテーブルに立てられる。
説教とも違う、まるで教師の授業を聞いている気分で、私はカイルの言葉に頷いた。
「自分を正しく見つめるってことは、自分のできること、できないことを知ること。つまり……たくさん失敗をしろってことだ。たくさん挑戦して、たくさん失敗する。それが修行の第一歩だと、俺は思う」
失敗という表現に、心が躊躇するのが分かる。おだやかな眼差しをこちらに向けたまま、カイルが続けた。
「たとえば、酒のこともそうだ。ジェドは一度失敗したんだよな? だけど、これから先、仕事に就いたら酒を呑まなきゃいけないこともあるだろう? そのときに、一度失敗したからって酒を断り続けるのか?
どの種類の酒をどの程度まで呑めるのか、やってみないと分からないよな? 合わなかったっていう薬も、避けることはできるかもしれないが、どの程度の量で自分に影響が出るのか、知らないままって逆に怖いだろう?」
「うん」
「せっかく一年っていう時間がもらえたんだ。ここで、今のうちにたくさん失敗しろよ、ジェド。今なら、うまくいかなかったときは一緒に解決方法を考えてやれるし、間違ったら叱ってやれる。おまえはこの一年、俺たちの家族で、弟になるんだ。最初からうまくやろうなんて考えなくていい。もっと気楽に俺たちを頼れ。いいな?」
思わぬあたたかな言葉に、すっかり緩くなった涙腺が、また刺激される。はいと返事をしたら、本当に涙が零れ落ちそうになり、慌てて下を向いた。
妙に空いた静寂に、ウォルターの低い笑い声が落ちる。
「じゃあ、ジェドはうちの末っ子だな」
「良かったじゃないか、エマ。下の兄弟が欲しいって言ってただろう?」
カイルに水を向けられ、エマが、ちらりと私を見て肩を竦めた。
「……自分より背の高い弟って微妙なんだけど」
「俺より低いから問題なくね?」
「ウォル、意味わかんない」
「だいたい、おまえが小さすぎんだよ。成人した時から変わんねえんじゃねえの?」
「失礼な!」
「肉が足りてねえからだな。肉食え、肉」
「ウォルが食べすぎなんだよ。今日もどれだけ食べてるの」
「せっかくおやっさんが準備してくれたのに、残すわけにいかねえだろ。頑張って食ってんだぜ?」
「余ったら明日のご飯に回すから、別に頑張る必要ないんだけど?」
「食は一期一会だぞ?」
「言葉の使い方違うし。遠回しに食事作れって言うの、止めてくれない?」
「それはそれ、これはこれ?」
「うざい」
「大丈夫だって、エマ。盛り付け直したら、ウォルには分かんないから。な?」
悪戯っぽくウインクまで付け加えられたカイルの言葉に、エマが「なるほど」と頷き、ウォルターは「俺の前で言うかよ」と頬を膨らませる。
仲の良い兄弟のやりとりに、いつの間にか私の涙は引っ込んでいた。
いつもそつのない対応をするエマのくだけた態度は、なんだか別人のようだ。言葉が乱雑な分、辛辣さに磨きがかかるが、それも甘えているのだと分かる。
大っぴらに笑っては失礼かと横を向けば、同じく笑いを噛み殺したキアラと目が合い、二人でこっそり微笑んだ。
「あーっ、ジェドがキア姉と仲良しさんになってるっ」
「カイ兄、気を付けないと嫁盗られんぞー」
「大丈夫。末っ子はかわいがられるのが仕事だろ」
「なにそれずるい」
「はは」
十二の成人を迎えて以降、自他ともに大人らしい振舞いを努めてきた私にとって、こんなに面と向かっての子ども扱いは久しぶりだ。少し前なら屈辱と感じたかもしれないが、自分の至らなさを突き付けられた後だからか、逆に相手の心遣いをありがたく、くすぐったくも嬉しく思う。
そして、そう思えた自分が少しだけ誇らしく、同時に――じわりと苦い、後ろ暗い感情が胸底に広がるのを感じた。




