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12.へたれ仔犬の心身改造計画(5)

  

* * *


 目を覚ますと、いつも一人だった。

 昼間なら、しばらくすると誰かが様子を見に来たり、壁越しにいろんな人の気配がして安心するけれど、夜の真っ暗な闇の中では、この世にたった一人取り残されたような気がして怖くてたまらなかった。

 だから幼い頃は、いつも枕元に小さな灯りを点けてもらっていた。それが、どれほど贅沢なことかも知らず。

 ある日、使いすぎてその魔道具は、私が眠りに落ちる前に壊れてしまった。

 そのとき初めて、暗いのは嫌だと泣く私に、父が魔術を見せてくれた。

 空を飛ぶ、火焔の蝶。

 闇の中、きらきらと火花を散らして舞う魔力の蝶は、私を眠りに誘うのではなく逆に興奮させ、父は母と看護師兼メイドから苦言を頂戴することになったと、後で聞いた。

 

 いつからだろう。父に、炎の蝶を強請らなくなったのは。

 いつからだろう。母に、体調の悪さをごまかすようになったのは。

 虚弱な自分のことを、恥ずかしいと思うようになったのは。


 一体――どちらから先に、背を向けたのだろう。

 周りが私を疎んじていたと信じていたけれど、最初に手を離したのは、私のほうだったのかもしれない。

 相手から手を離されるのが、怖いから。



 コンコン、と控えめなノックが聞こえ、誰かが部屋に入ってくる。


『……誰だ?』

『おや。起きてらっしゃいましたか。お邪魔いたしますね』


 見たことのない顔だ。大人の女性。母より少し年上だろうか。

 襟を詰めた暗い色の服に白いエプロン。新顔のメイドかと思ったが、素っ気なくひっつめた髪にはボンネットではなく、白い布を被せてピンで留めている。

 器の載ったトレイを手にやってきた彼女は、枕元の椅子に座った。


『お加減はいかがです?』

『……べつに、悪くない』

『これは大変だ。重症ですね。〝意地っ張り病〟がひどいようです』


 化粧気のない顔が、おどけて笑う。吊り気味の大きな瞳は、めずらしい金色で、薄暗い室内で月のように輝いて見えた。

 きっと化粧をしてきれいな格好をすれば美人なのだろうと、ぼんやり思う。


『さてと。嘘はつきたくないので、率直にいきましょう。私は奥方様に頼まれて、ぼっちゃまを診に来た薬師です。ジーンと申します』

『くすし……?』

『はい。医者でも魔法医でもありません。薬を調合し処方するのが仕事ですが、私は患者ひとりひとりに合わせて薬を変えますので、なるべく患者ご本人とお話をさせていただくようにしております。もちろん、主治医の許可は得ております。

 ぼっちゃまの具合を診させていただいても、よろしいですか?』


 うなずけば、女薬師は私の手をとり、くるくると返して見はじめた。

 頬や瞼、首などを直接触るのでくすぐったいが、女性は冷たい手のことが多いのに温かくて、訳もなく安心をした。


『緊張していますね。怖いですか?』

『……いや。手が』

『手が?』

『あたたかい、から』

『熱すぎますか?』

『……いや』


 どう言ったものかと、口の中で言葉を転がしていると、薬師がふふっと笑って私の手首に指先を当て、懐中時計を取り出して脈を計りはじめた。

 寝着の隙間から聴診器も当てられる。なんだか医師のようだ。


『どうやら体は問題ないようですね。ご飯は美味しく食べられていますか?』

『……べつに』


 本当を言うと、この屋敷に来てから、あまり食欲がなかった。

 部屋の窓からは、あの金色の川も見えない。独りでも頑張ると交わした父との約束も、反故になりそうだった。


 これでも最初は努力をしていた。前向きに受け止めようと、大人になる試練なのだと思おうと、自分から歩み寄るよう努めたつもりだった。

 けれど、現実はそう優しくはなかった。

 初めてつけられた同年代の側近も、友人となるには程遠く。

 優秀な家庭教師たちは、最初こそ私の能力を褒めそやすが、たびたび倒れる私の虚弱さに困惑し、授業ができないことに苛立ち、次第に腫れ物を扱うような態度となり。

 医師は諦観し、使用人たちにさえ同情の目を向けられる始末。

 一番厳しい大叔父だけが、最初から私に対する態度を変えないというのが皮肉だった。


 心を許せる家族は遠く、連絡も途切れがちだ。聞けば、三歳になる妹のアリシアが突然先祖返りを起こし、屋敷の床を破壊したとかで大騒ぎなのだという。

 そのうえ母は、弟を出産したばかり。私のことで、さらに心配をかけるわけにもいかなかった。

 友は便りをくれるが、体を気遣う内容に良くなっていないなどと書くのも憚られ、上っ面の日常を綴るしかない。

 婚約者となった幼馴染とは、読んだ本の話題で盛り上がれるから、それだけが息抜きだ。

 一度、怪我をした仔犬を拾って、内緒でベッドで世話をしていたことがあったが、それも三日もしないうちに見つかって取り上げられてしまった。

 北国のアルバで、太陽の差す時間は短い。その陰鬱さが、私の心にも暗い影を落としているようだった。


 そんな事情を知っているのかどうか、薬師は淡々と私の体調や食の好みなどを問いかけ、手帳に書きつけていった。


『先生の処方に問題はないようですね。もう少し食事を増やしていただきたいところですが、食べたいものはありますか?』


 そのときは美味しいと思って食べても、ひとたび熱が出て床に臥せば、気持ちが悪くて吐いてしまうのだ。あの不快感を思えば、胃に何もないほうが気が楽だ。

 首を横に振れば、薬師は『これはどうです?』とトレイに載せた器の中身を、スプーンで掬って差し出した。どろりとした薄黄色いもの。

 こわごわと口を開ければ、爽やかな香りが鼻を抜け、ざらりとした感触の中に、かすかな酸味と深い甘味が舌の上で溶けた。


『すりおろした林檎に蜂蜜を混ぜたものです。美味しいですか?』


 私は頷き、もう一口食べさせてもらった後、自分で食べるからと体を起こし、スプーンを手に取った。

 片手に収まるほどの小さな器に入ったそれを残らず食べきれば、薬師は『よく食べました』と褒め、器とスプーンを取り上げた。エプロンで口元が拭かれる。

 再び横になる私の枕を整え、そっと上から夜具がかけられた。押し殺した声が、耳元で囁く。


『ぼっちゃま。私は今日一日、この時間しかお会いできません。なにか言いたいことはありますか?』


 唐突な言葉に、一瞬なにを言われているのか分からずに戸惑う。だがすぐに、今日は大叔父が側近一同を連れて城下に視察に出ていると思い至った。

 厳格な大叔父が、平民と思われる薬師を邸内に、ましてや自分の近くに招くことなど決して許すはずがない。

 間近にある金色の目を見上げる。分からないけれど、なぜか彼女は信じられると思った。

 それとも――信じたいと願ったのか。


『ぼっちゃま?』

『……その呼び方は嫌いだ』

『では、なんと?』

『……ジェド』

『はい。ジェド』

『……怒らないのか?』

『なぜ怒るんです?』

『貴族は不用意に他人に名前を呼ばせてはならない、と』

『不用意というのは、いけないかもしれませんね。でも今、ジェドはきちんと考えて言ったのでしょう? だったら、大丈夫です』


 念を押すように、こつ、と薬師の額が私の頭に当てられた。


『ここでは、みんな私のことを〝ぼっちゃま〟とか〝若様〟って呼ぶんだ。だけど、それは私の名前じゃない』

『ええ、分かってます。ジェド』

『だれも、名前を、呼んでくれなくて……まるで、私が、いないみたいで』

『ジェド。そういうときは、〝さみしい〟って言うんですよ』


 認めたくない感情に名前をつけてしまえば、簡単だった。


『さみ、しい……』

『そうです。ジェド』

『私は、さみしい』

『よく言えましたね、ジェド。他に言いたいことは?』

『……家族に、会いたい』

『ええ。他には?』

『帰りたい……もう、ここは嫌だ……!』


 目を背けつづけてきたドロドロとした感情が、涙と一緒に一気に噴き出す。


『帰りたい……さみしい……ひとりは嫌だ。母上に会いたい……父上は、なぜ会いに来てくださらない……なぜ、私を置いて行ってしまったんだ……っ!』


 嗚咽でしゃくりあげ、涙か鼻水か分からないものをぼたぼたと枕に垂らし、それでも一度噴き出した感情はすぐにはおさまらなかった。


『なぜ、アリスのことをすぐに教えてくれなかったんだ。アリスは私の妹なのに……家族なのに……もう、私は家族じゃないのかな……もう、私は、いらないのかな……』

『大丈夫、ジェド。全部吐き出してしまえばいい』

『こんな体いらない……魔力なんてなくったっていい……帰りたい……かえりたい……っ!』


 いつのまにか私は抱きしめられていて、温かい手が何度も背を撫でる。


『よく言えた、よく言えたねえ、ジェド。一人でさみしかったねえ。よく頑張った。ジェドが頑張ってるのが、おばさんよく分かったよ。偉かったねえ。辛かったねえ。

 だけどねえ……おばさんにはジェドを家に帰してあげることも、魔力をなくすこともできないんだよ。ごめんねえ……』

『なんで……私は、こんな体に、うまれてきたの……?』

『なんでだろうねえ。神様がお決めになったことだからねえ』


 敬語がくずれて平民の言葉遣いになっていたけれど、それがむしろ彼女の本心からの台詞に聞こえて、すとんと心に落ちてくる。

 薬師は私のベッドの縁に腰掛け、私を抱いたまま、ゆらゆらと揺り籠のように体を揺らした。


『分かるまで、生きてみるしかないだろうねえ』

『……いきられ、なかったら?』

『そのときは神様に直接会って、聞くしかないねえ』


 まるで親戚に会いに行く気軽さで言うのが可笑しくて、私は少し笑った。


『ジェドはきっと、神様にたくさん期待されてしまったんだねえ』

『きたい?』

『この子なら、きっと苦しいことも乗り越えられるって、そう思って、いろいろ授けてしまったんだろうねえ。ギフトを』

『ギフト……?』

『そう。命はみんな――生きているということは、みんな神様からの贈り物なんだよ』

『魔力も?』

『そうだねえ』

『この、病気も? 体も?』

『ああ、そうだねえ』


 呪いという言葉のほうがふさわしいと思ってきたものたちを〝ギフト〟と呼ぶには抵抗がある。だが、見下ろす薬師の笑顔は、あたたかだった。


『期待っていうのは、厄介だよねえ。お父上も、ジェドに期待をしているんだろう? だから、ジェドをここに連れて来たんだろう?』

『……わからない』

『ふふ。一遍にたくさん喋ったら、混乱してしまうね。だけどねえ、ジェド。できないと諦めてしまったら、なにもはじまらない。なにも、変えられないんだよ』

『……』

『大丈夫、きっと良くなる。体も、魔力も、きっと好きになる。ジェドなら、やれる。おばさんは、そう信じてる』

『ほんとうに?』

『ああ、本当だよ。今日一日会っただけのおばさんでも、ジェドが頑張ってるいい子だって気が付いたんだ。こんないい子が、試練を乗り越えられる力を神様から与えられていないはずがないさ』


 もう一度、薬師が私の額に額をつけて、おまじないのように大丈夫と繰り返す。

 伏せられた彼女の睫毛は濃い青色で、白い布に隠れていない髪も同じ色だと気付いた。


『世の中は理不尽なことだらけだ。頑張っても、いくら努力しても、できないことがある。いや、報われないことのほうが多いかもしれないね。

 おばさんも、できないことがたくさんあって、悔しくて何度も薬師を辞めようと思ったよ。だけど、辞められなかった』

『どうして……?』

『これしかできないからね。それに、自分で決めたことだもの。……ジェドは、大きくなったら、何になりたい?』

『……わからない』

『じゃあ、これから考えればいい。大丈夫。ジェドが頑張ってるのは、みんなちゃんと分かってる。ちゃんと見てるよ。お父上も、お母上も……神様も。誰も見ていないと思っても、絶対に見ているからね』

『……うん』


 息苦しいほど抱き締められ、久しぶりに他人の体温と鼓動と吐息を感じながら、私はいつしか微睡の中に落ちていった。



 瞼に当たる濡れた布の感覚に、ふと目を覚ます。

 人の気配がするほうに目を向ければ、金色の瞳が見えた。だが、あの薬師ではない。もっと小柄で、私と年の変わらない少女のようだ。

 暗い色のワンピースに白いエプロン。ふわりと揺れる、肩をすぎる癖のある髪は、薬師と同じ紺色だ。


『ごめん、起こした?』

『きみ、は……?』

『薬師の娘。ね、おなか減らない? お水持ってこようか?』


 ……あれは、夢ではなかったのか……?


 まだ夢の中にいるのかもしれないと、呆然と思いつつ頷けば、娘は部屋のテーブルに置いてあった水差しから、コップに水を注いで差し出す。

 自分で飲めということかと頭を起こすと、コップと体を支えられ、『ほら、しっかりして』と背中の後ろに枕を入れられた。


『あなた、本当に細いのね。もっと食べて、体力つけたほうがいいよ』

『彼女は、どこに……?』

『母さん? 今はあなたの薬を調合中よ。代理で我慢して』


 娘は素っ気なく言い、私の手からコップを取って、テーブルに戻した。


『こんな口調でごめんなさい。本当は改まるべきなんだろうけど、母さんが……あなたは、あまりそういうのが好きじゃないみたいって言ってたし……多分あなたは、今日のことを忘れるだろうから』

『忘れる……?』

『そう。忘れるの』


 ……あんなふうに泣いて、心の底からすがったことを忘れられるものか。

 

 反発する気持ちで娘を睨めば、彼女は言葉を探すように、テーブルに置いてあった果物の盛り籠を指先でつついた。


『忘れてしまうの。そのほうがいい。お互いのためにね。あなたは頭がいいから、分かるでしょう?』


 薬師が今日一日だけしか会えないと言っていたことと、その理由に考えがおよび、私はようやく波立つ気持ちを静めた。

 娘をよく見ると、色彩以外あの薬師と似たところは少ない。顔立ちもそうだが、雰囲気がまるで違うのだ。年齢差もあるだろうが、彼女に薬師のような包容力や穏やかさはなく、溌剌とした、なにをするか分からない危うさに満ちている。

 それでも、私に向ける眼差しのあたたかさは、同じだと思った。

 

『なにか食べたいものはない? 少しでも食べられそうなものがあれば、食べたほうがいいよ』

『……林檎』


 私の返事に、娘は大きな金色の目を軽く見開く。驚いたときの仔猫にそっくりで、少しだけかわいいと思ってしまった。

 彼女は、先ほど触れていた籠に載った赤い果実を指差し、首を傾げる。


『これ、飾り物なの?』

『知らない。侍従がときどき置いていくんだ。誰かからのお見舞いだと言って』

『じゃあ大丈夫だね。――はい、受け取って』


 娘が、艶のある赤い果実をひとつ手に取り、私のほうに放り投げた。

 慌てて両手を伸ばし、大きな弧を描いて落ちてきた果実を受け止める。皮はつるんとして、軸の部分がへこんだ、いびつな丸い形をしていた。


『これは……?』

『だから、林檎。食べたいんでしょ?』


 林檎は、淡く黄色味がかった白い果物だ。こんな赤い実であるはずがない。

 何を言っているんだ、と見返すと、娘も怪訝な顔をする。


『まさか皮を剥かないと食べれないとか、言わないよね?』

『か、皮がついていても平気だ! だが、これは私が知ってる林檎では、ない、から……』


 むきになって言い返しつつも、自信がなくて、言葉尻がだんだん小さくなる。

 いつもデザートとして出される林檎は、皮を剥いて食べやすく切り分けられていた。正直言って、木になったところは見たことがないのだ。だが、皮付きのまま食卓に並ぶオレンジやメロン――葡萄は違った気もするが――ベリー類は、熟せば皮と中身は同じ色なのだから、きっと私の考えに間違いはないはずだ――たぶん。

 同年代の少女に自分の無知を悟られまいと、虚勢を顔に纏えば、彼女は困惑を深めて問いかけた。


『じゃあ、今まで青林檎しか食べたことないの?』

『青林檎……?』


 林檎に種類があるとは知らなかった。そういえば食卓に出されるときに、侍従が『○○産の××という品種でございます』と紹介することがあった。献上品には珍しいものが多いから、聞き逃したのかもしれない。

 などと、思いを巡らせたときにはもう遅かった。

 何かに気付いた彼女の金色の目が、玩具を見つけた猫のように、にんまりと笑う。


『へえ~。ふーん。そうなんだ~。赤い林檎、食べたことないんだ~』

『ひ、ひとの無知や未経験を笑うのは失礼だぞ!』

『だって、あなたが意地を張るから』


 悪びれもせず言うと、娘は私のほうにやって来て、手の中の赤い果実を取り上げた。エプロンで丁寧に拭いて、


『じゃあ、お詫びに毒見してあげる』


 言うや、いきなり果実に白い歯を立て、かりっといい音をさせて齧りとった。

 しゃりしゃりと咀嚼し、『うん、美味しい』とつぶやく。そして、そのまま果実を私のほうに差し出した。


『はい、毒見完了』


 赤い果実を不揃いに丸く削って露わにされた中身は、鮮やかなまでに対照的な、みずみずしい白。

 驚きを隠して彼女に視線を移せば、果汁で濡れたピンク色の唇が目に入り、ざわりとしたものが私の全身を襲った。

 強いて言うなら――それは、熱。


『ごめん、こういうの慣れてない? 気になるんだったら、反対側から食べてもいいよ。欠けたところから食べるほうが食べやすいけど』


 言いながら、彼女は濡れた唇を指先で拭い、その指をエプロンで拭き取った。

 なぜだかそのことを惜しいと感じ、私は浮かんだ感情を打ち消すように、果実の白い痕の隣に勢いよく齧りついた。

 思ったよりも難しくて、果実を持った手をひねりながら、がりりと一欠片を噛み切る。甘酸っぱい香りと果汁が、口いっぱいに広がった。


『……おいしい』

『でしょ?』


 なぜか娘が自慢そうに笑う。しかしそれを悔しく感じないほど、その果実は美味だった。


 ……中身は白いのに、外の皮は赤いんだな。不思議なものだ。


 これまで林檎を食べたことはあるが、それほど特別に美味しいと思ったことはない。甘いだけではない酸っぱさと、しゃりしゃりした食感がなんとなく苦手な気さえしていた。

 だが、初めて実の形のまま食べた林檎は、まるで違っていた。みずみずしく香り豊かで、薄い皮の部分は邪魔だが、果肉と一緒に噛み砕いてしまえば、問題なく呑み込める。

 口の中でリズミカルに湧き立つ音さえ、風味のひとつのようだ。


 ベッドの端に座った娘が悪戯っぽく笑い、再び私の手から林檎を取り、一口齧って返す。私も負けずにがりがりと果実を齧り、また齧られ、競って果実の白いところを増やしていった。

 種のある中心の固いところまでくると、さすがにもう歯が立たない。彼女が指先で軸を摘まんで、空いたコップにぽとんと捨てた。

 濡れたタオルで手と口を拭き、同様に私のほうも拭いてくれる。


『結局二人で食べちゃったね。ごちそうさま』

『お腹いっぱいだ』

『本当、ちょっと苦しいかも』


 お腹をさする彼女の仕草が太った料理人の男と同じに見えて、笑いを洩らせば、軽く睨まれた。


『あなたはもう少し食べるべきだと思う』

『少食なんだ』

『だったら、少しずつを何回も食べればいいんだよ。大きくなれないよ?』


 ワンピースの袖をまくり、夜具の外に出ている私の腕の横に並べる。


『ほら、わたしのほうが太い。絶対身長だって勝ってると思うな』

『……そのうち成長する』

『きちんと食べて運動しないと大きくなれませんー』

『それができたら、とっくにしている』


 体調を崩して寝ている相手に、ずいぶんと無茶を言うものだ。目を逸らして不機嫌に呟けば、突然、右手の上に彼女の手のひらが乗った。


『だけど、手は大きいんだね。指も長いし……これって、体が大きくなる証拠なんだって』


 手の上に乗せられた、彼女の手を見つめる。指の太さはさほど変わらないのに、掌も指も私よりも小さくて、爪もちんまりしている。


 ……なるほど、彼女はこれ以上大きくならないというわけか。

 

 思ったら察したらしく、手の甲を軽くつねられた。


『わたしのことはいいの、わたしのことは』

『病人なのに、ひどいな』

『――ジェド。今、体は辛い?』


 いきなり声を低めて囁かれたので、からかわれたのかと身構える。が、金色の目は真剣そのものだった。正直に首を振る。


『いや、今はそれほどでも』

『そう。良かった。……いや、良くないか。一時しのぎだもんね』

『私に、なにかしたのか?』


 その問いに彼女は答えず、考え込んだように、しばらく動かなくなった。私の手を両手で包み、決意を込めた表情で見上げる。

 満月のような黄金の瞳。


『ジェド。本当に、魔力はいらないって思う?』

『……』

『魔法は、嫌い? 魔術も?』

『嫌い、ではないけど……』

『使ってみたいとは思う?』

『それはもちろん』


 反射的に答えて、矛盾に気が付いた。おのれの体を痛めつける極性の魔力を疎ましく思いながら、父のような魔術を使いたいと願う自分に。

 相反する思いを抱えていた事実に愕然としていると、彼女は私の手ごと、両手を胸元へ引き寄せた。どくどくと早鐘となって打つ鼓動が、彼女のものか自分のものか分からない。


『ジェド。この部屋にいるものに気がついてる?』

『……いるもの?』

『そう。部屋の角の、あっちとそっちに』


 視線に誘われて目を動かせば、確かにぼんやりとしたものが片隅にわだかまっているのが視える。


『悪いものじゃないの。遠慮して隠れているだけ。姿を見せてもいい?』

『うん』

『――ふたりとも出ておいで。ちゃんとジェドに姿を見せて、挨拶して』


 彼女の声に、右隅にわだかまっていたものが、赤い光を撒き散らして小さな竜となり、左隅にいたものが、水色の光を散らして小さな有翼の蛇となった。

 思わず目を瞠る。それらは、幼い頃からときどき目にしていた精霊たちだった。


『なぜここに……皇都の屋敷にいるものだとばかり』

『彼らは家や一族ではなく、あなた自身に憑いているの。もちろんここにも憑いてきてたけど、ジェドが魔力があることで苦しんでいたから、姿を現わしにくかったったみたい』


 動物に似た姿をとれるものは中級精霊と呼ばれ、自分から人前に姿を見せることは珍しいという。両親も皇都の侍従たちも、彼らの存在を当然のように扱っていたから、てっきり家の守護精霊のようなものだと思っていた。


『ジェド。彼らが何者か分かっていると思うけど、拒まないであげて欲しいの』

『拒むつもりは……』

『彼らの属性は、火と氷。彼らが傍にいるとあなたの魔力は双極に偏る』


 一息に言われ、一瞬理解ができない。やがて意味を察して身じろいだ私の手を、小さな両手がぎゅっと握った。


『だけど同時に、彼らがいることで、あなたの魔力は火と氷に限り暴走することはない。彼らがコントロールを助けてくれる。正式に契約をするまで言葉は交わせないかもしれないけど……彼らは絶対に、あなたを守るから』


 吐息とともに、その手に額が押し当てられる。祈るように。


『魔術を学んで、ジェド。魔力を拒絶せずに、受け入れて。今、あなたが無事でいるためには、少しずつ魔力を肉体に馴染ませるしかない。魔力も肉体も成長を止められないの。受け入れて――すべてを。あるがままのあなたを』

『なにを……言っているんだ』

『ごめんなさい。もっと早くに会いに来れなくて、本当にごめんなさい』

『君は一体、何者なんだ……?』


 ただの〝薬師の娘〟ではない。もっと大事な、重要ななにかを隠している気がして手を伸ばそうとすれば、握りしめられていた掌が解かれた。


『もう行かないと。――眠って。起きたら、今日のことは忘れているから』

『……忘れたくない』

『大丈夫。忘れても、大切なことは心が憶えているから』

『また、会えるか?』

『……生きていれば、たぶん。いつか』


 名残惜しむように、ゆっくりと指先が離れてゆく。ベッドから飛び起きて引き止めなければと思うのに、体が重くて腕すら持ち上がらない。

 二体の精霊に『あとは頼むね』と声をかけ、彼女は、私の前から姿を消した。



 おそらく、なにか魔術を使ったのだと思う。気がつくと朝になっていて、枕元に置いたはずの濡れたタオルも、水を飲んだコップも、食べ終えた林檎の芯もすべて無くなっていた。

 ただ、ひとつ。否、ふたつだけが違っていた。

 ベッドの足元の両端で丸くうずくまる、赤と水色の精霊たち。鱗のある動物の顔なのに、どこか不安そうに見えるのは、彼女の言葉が耳に残っているからだろう。


『おいで。仲良くなろう』


 手を差し伸べれば、二体ともぱたぱたと羽根をはばたかせて、こちらへとやってくる。

 火と氷という正反対の属性の二体がなぜ一緒にいるのかは分からないが、やはり相性は悪いらしく、赤いチビ竜は私の右肩に止まり、水色の小蛇は左腕にくるりと絡まって落ち着いた。

 こちらを見つめる二対の双眸は――黄金。


『これから、よろしく頼む』


 ――……誰も見ていなくても、絶対に見ているから。


 こだまのように響いた言葉は、確かに私の心に残った。言ってくれた相手の顔も声も、すぐに思い出せなくなってしまったけれど。


 それでも、その日のことを忘れたことはない。

 その日を境に私は泣くことがなくなり、積極的に魔術を学びはじめ、そして、大人の体になったのだ。


* * *



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