プロローグ
少年ははぐれていた。自分から手を離したわけではない、行き交う人波に押され強引に離す形になっていた。
右往左往と、途方に暮れながらも探すことを諦めなかった。それが、少年にとっての希望であり、生きるためのものでもあった。少年の背では、大人の高い身長には到底勝てず、それゆえ人と人の間からできる微かな隙間から、伺っていた。
少年はこの惨事を理解していなかった。少年は空の色すらも確認しようとはしない、あるのは希望のみであり、絶望のことは考えていない。
行き交う人々は少年が一人で突っ立っていようが気にしたことはない。――最優先は我が身、邪魔なら跳ね除けるだけだった。 そんな中でも、変わった人間はいた。
「大丈夫か、坊主」
騒音とわめき声が交わり、不安な調和が完成していた。その場所であっても、男の声は透き通って聞こえた。子供の単なる、自分に対する聞き耳のようなものかもしれなかった。
少年は声には気づかなかった、だが目の前に大人が立っていることだけは影が教えてくれた。
「お前さんだ、坊主。一人……なのか?」
子供と同じ目線の高さになるように、膝を曲げた。少年はまじまじと男の顔を覗いた、
男は三十、四十にみえる風貌をしていた。それよりも男の姿は周りの大人とはひと味違った格好をしているのに気がついた。腰のあたりに、おもちゃのような形をしたものをぶら下げている。服装は、見たことのないロゴが入ったジャケットを着ている。
「…………はい」
少年は目を伏せながらいった。
「どこではぐれたんだ」
定かでない記憶で、
「……わからない……」
そんな反応にも男性は呆れる様子を見せることなく、子供の気持ちになったように、うん、うんと首を頷けている。
「この中だもんな……どんな感じの人なんだ、特徴っていうか……! ……目立つところっていうか」
男は少し適当な動作を混ぜながらいった。
「覚えていれば教えてくれるか、わからなければ俺も一緒に探す」
そう男性は提案した。少年の首は男の方を向いてはいた、だがそれは目の前の彼ではなかった。それよりも向こうに、存在感を放っていた。
「あれ――」
「あれ?」
少年が指差す方向には、奇妙な鎧のようなものをまとった人間らしき物体が半壊したビルの頂上に立っていた。少年に見覚えはない、あるのは特撮に出てきそうなという記憶だけだ。
男の方はそれを嫌なほど、うんざりするほど知っていた。
「リト……ラクター……!」
男はそれを見ていった。
『リトラクター』――今の世の中では知る人はいない存在となったやつの呼び名だ。未確認生命体であり、その力は未知数とされている。この状況を生み出したのもやつらだった。
男は周りに他の人間、敵の仲間がいないかを確認した。
人間はまだいる。敵はあの一体だけらしいな。
「坊主、お前の親はあんな感じなのか」
「……わかんない」
「あいつは凶暴で、人間を片手で潰れるリンゴのようにみている連中だ。お前のお母さんやお父さんもそんなやつなのか? 息子であるお前を殺すのか」
「そ、それは違う!」
少年は思い切って口に出した。
それを聞くと、男は二マリと微笑んだ。
「よくいった!」
男はそういうと、少年の頭を無造作に撫でた。少年の頭が左右に揺れる。
彼はなぜするんだと考えながら、されるがままにされていた
「お前は隠れていろ、応援をよこす。それまで、辛抱してろよ」
人間とは思えない驚異的な跳躍で男は敵の元へ向かう。その体はみるみるうちに小さくなっていく。
すると、腰にぶら下がるものを手に取った。少年からはただのおもちゃだと思っていたものだ。今となれば、それは棒状というよりも、ナイフのように刃があり、持ち手があるようにみえた。そして口が動く――。
一瞬の出来事だった、男の体が人間ではなくなっていた。人間ではあった、がそれは形だけにすぎない。全身に真新しい防具・装備が付き、手には先程のものか――武器が握られている。武器はこれを人間がやったのか、と疑うほどの出来前だ。三十センチから約1、2メートルの長さのあるものに変形した。形状も変わっていた、日本刀のように少し曲線を描く形になっている。
男は武器を構えた。だが、敵はまだこちらに気づいていなかったのか別の方向を途方に向いている。
チャンスだ! 少年はその光景を眺めながら心の中で応援していた。
不意にリトラクターが少年の方を向く。だが視線は別の方向に向けるために一度ちらと見ただけだった。それでも、見ていた彼にとってそれは恐怖そのものだった。
キンッ! 金属を交えた鋭い音が耳に入ってくる。それは二度、三度と続く。
再び見ると、男が苦戦しているように見えた。男は場所を、攻撃の向きを幾度となく変えている。その相手は一歩も動かずビルの斜面の一歩足を踏み出したら転落する場所に平然として立っていた。高さは約十メートルある、落ちたとしたら何らかのダメージはあるだろう。
「くそッ! なんだお前は!」
男は一度、リトラクターから離れた。彼が離れた理由は造作もなくわかった。相手が指一つ、体を一度もブレることなく立っていたからだ。武器も何も持たず、首は攻撃する男の方を向いていなかった。ただ腕を組み、雲を眺めるように斜め上を見ていた。その間ずっと男の攻撃を受けていたわけになるが、その容姿に目立った傷跡は見受けられない。
「なぜ――ダメージを受けない!」
「…………」
男は兜の下から狼狽し、その姿をみて言った。
リトラクターの方は時間をあげているように、依然として動かずにいた。
ちらと、男は少年の方を心配し目を向けた。
――誰もこない、か。全滅したのかぁ? ありえるかもな。こんな奴が沢山いてはな。
誰も来ないことを考察すると、その本人が音もなく首だけを真正面に傾けた。
無音の威圧感、力がどれほどあるのかまだ分からない。このままやっても、今のままでは傷一つ付けられず、最悪死ぬのが決まっている。
真正面には、逃げかう人々の群れが見受けられた。
こいつが向かえば、まず――いや、止めるのが俺の役割だ。そしてあの坊主を無事に避難させる。それまで、死ぬことは考えるな。
しかし、リトラクターは足を動かそうとしない。
こいつなら足を一度曲げるだけで、到着することだろう。
「おじさん!」
「…………、」
リトラクターが声のした方を向いた。斜め下、そこに丁度あの少年がいた。一度、心臓を掴まれる感じがした。
「来るなといっただろッ!」
咄嗟に怒声をあげた。
恐れることが起こった。奴が、跳躍する動きをみせた。場所は思うまでもなかった。
「今すぐそこから逃げろ!」
「何で! そいつは動かないんでしょ!」
「いいから逃げろ! 今すぐにだッ!」
少年は見上げていた、そのためリトラクターが動いたことに恐れた。
「あ…………あ……ッ!」
足が思うように動かない、自分が男とあの化物が戦っている場面をみたからにほかならなかった。あの武器を持とうが、あいつは動くことはなかった、もしかするとただの動かない物体なんじゃ、そう思って少年は来たわけだが、それが裏目に出た。
刻一刻と、あいつは近づく。
すると、その後ろの物体も飛び降りた。飛び降りると、同時にそれは物を投げる動きをみせた。
カキンッ! リトラクターが飛んでくる物体に腕を使い跳ね除けた。物体は明後日の方向に飛んでいった。
視線は静かにそちらを向いた。
「おい、こいよ! かかってこい! なんだ、お前はショタコンなのか! おーい、ショタコン!」
すると、ビルの壁に腕を伸ばした。破片を散らしながら壁に強引に入り込むと速度を和らげ、足でその壁を蹴ると男めがけ跳躍した。素早く、今にも男に手がとどくほどだ。
「マジかよッ!」
男は壁の方を見ると、とっさに手を伸ばし、下の階層に入り込んだ。
数回転がる。その間にもリトラクターは入り込んでいた。音がしたのはここから左だ。察しがよければ、すぐに――。
バッキバキッ! と身近な物を手当たり次第壊しだす音が聞こえてきた。
知恵はないみたいだ。今の俺には武器はない、あるのは仲間の呼べる通信ぐらいだ。それも、信用に及ばない。連絡はしたものの、返信はこない。これが意味することは、自分でどうにかするしか方法はないということだ。
奥の手を使うか、だがあいつに通常攻撃は通じない。技はまだ試していない、やる価値はありそうだが……武器がなくてはなぁ。
いや、そういえば! と、この頃噂されていることを思い出す。確かあれは、戦闘中に武器を手放した時の対処法だった。強く、武器の名前を念じれば武器が手元に現れるらしいというものだった。それは今になるまで試すことはなかったが、まさか噂に頼ることになるとはな、と内心笑いながらも、それにすがる思いだった。
――蓮火……! 蓮火……!
噂通りに、心の中で望んだ。だがこない、やはり嘘か、そう思っていると光が手元に溢れ出し、男の武器が姿を現した。
男は持つと、すぐに脱出を図った。今の光が自分に見えて、あいつに見えていないはずはない。
やはりリトラクターはこちらを追いかけてきた。それも、距離がすぐに縮まる勢いだ。
こちらに豪腕な手を伸ばした。その手に掴まれれば、男の頭など例え防具に包まれていようがたわいないように感じさせた。
サッと、男がリトラクターの方を向いた。戦うわけではない。
「『疑の太刀』ッ!」
鞘から意図的に本の数センチ、刃を覗かせた武器を、男は動く体の前に動かす。その目は瞑っていた。
瞬く間に、その刃からおびただしい光量が瞬時に火の発火のように姿をだした。それは遠くからでも、視認できるほどだった。
目を開けた。その間にも後ろへ飛んでいた。
リトラクターは突然のことに対応できず、その場に膝をつき、目を押さえていた。
これは効果があるのか。だが今の時点隙が生まれているが、攻撃したらおしまいだろう。目は抑えたとしても、他は先程と変わらない。こちらが動けば、奴も気づく。
念の為に――何もない空中で武器を構え振り下ろす。次元を切断したように、リトラクターの後ろの支柱が斜めに切れた。段切音に、首が向いた。そちらに体ごと突進するように突っ込んだ。なぎ倒すように、体の前にある障害物を突き進んでいく。
残念だが、そこに俺はいない。
冷静にビルから出ると、少年の元へ向かった。
少年は一人ではなく、隊員と一緒だった。
スーツの効果が発動しているため顔は見えないが、見覚えのある格好だ。――瀬野か。
「心細いと思いますが、私だけ応援に来ましたよ」
そう言うと、頭部のボタンを押した。瀬野の頭部がくっきりと透けて見えている。機能的には透けて見えるだけで、触れるとちゃんと付けたままだ。
「今となっては心強いもんだ、ほかの連中は?」
「それが……どういったらいいものでしょうか、……その」
男はその口調を察したように、
「わかっている、よく頑張った」
そう言うと瀬野の肩に手を置き、励ますようにいった。
「おじさん、あいつは……?」
「あいつ? リトラクターがいるんですか!」
男がいうよりも瀬野が先に口を開いた。
「特異体質というものなのかもしれない。銅を錆びさせたような色の防具を着ていた、それに……攻撃が一切通じない」
言葉に驚いたように瀬野がいう。
「あの攻撃も、ですか?」
あの攻撃とは、技のことだろう。
「それはまだ試していない、『疑の太刀』は使った」
「それは――」
「これは使えるらしい。まぁあ相手の何の防具もない視界だがな」
頭上で音がした。振り向くまでもない、リトラクターが回復したのだ。
破片を撒き散らし、立ちこんだ灰色の煙から姿を現した。こちらに気づくまで、数秒もない。
男は早口で言う。
「今からお前がこいつを連れて逃げろ、いいな無事に、だぞ。例えお前の命を使ってでも、こいつの命を消させるな。お前も命をかけるからには俺も命を賭ける、そして戦う」
「鉦さん、あなたがここで死んだらどうするんですか! この組織、そして仲間、あなたの奥さんにも! 僕は説明できませんよ!」
フッっと鼻で笑った。
ああそうだ。死ぬわけにはいかない。
「だと思ったよ。――だから俺は帰ってくる。無論、お前はちゃんとその子を連れて帰れよ」
「はいッ!」
敬意を持った短い返事をすると、瀬乃は少年を丁寧ではないが肩に担ぐようにして持った。
「おじさん、大丈夫……なの?」
「…………」
返事に困ったのか、間ができる。
考えを決めると、微笑みながら少年の頭を撫でた。
「なに怖いこといってんだ! 大丈夫だ、俺は生きてまたお前に会ってこうやって撫でてやる。約束だ、約束!」
それ以上、少年は尋ねようとしなかった。代わりに無言でこくりと頷いた。
瀬野が軽く会釈をすると、踵を返しここから近い避難所へと向かう。
飛んでいく中で、少年は男の方をじっと見えなくなるまで見ていた。
武器を構え、戦う。その姿が彼にとっての最後の姿となった。
男――室義鉦にとっては、その死に様が割に合っていたのかもしれない。子供を守り、敵と戦う。それこそが親の、大人の務めとやらだ。
「ハァ……! ハァ……!」
スーツはほとんどが壊れ、生身の体にも深くダメージを負っていた。スーツを着ていない状態に近かった。それでもまだできる、までできる! 力をひと絞り、と何度も何度もデコピンで倒れそうなほどの体に鞭を打ち、どうにかして武器を構え立っていた。
リトラクターはそんな人間を見ても、情の一つすら感じることなく、こちらに武器を構え切り込もうとしていた。傷を付くことはなかった体にも、荒い傷はいくつとなく生まれていた。
「ヤアアアアアアアァァァッ!!」
室義は武器を持ち直す。意識が飛びそうだ、そしてこれが最後になりそうだ。
駆け出すと同時に、鋭く攻撃を放った――リトラクターも同じだった。