満州事変!!証明される日本の強さ。
俺は中華民国の許可のもと中華人民共和国に宣戦布告し、満州へ攻め込んだ。
作戦としてはまずこうだ。陸軍は国内で予備役30万人に召集をかけてそれらの兵士を全軍朝鮮半島へと送り込んだ。朝鮮半島にいた7個師団と第三戦車師団を先陣として満州へ行かせた。
満州にいや鴨緑江の付近にいた中華人民共和国軍は連絡が届いていなかったのか開戦してから1時間も経っているのにほとんど集団的な反撃もせずに玉砕されていった。歩兵は半起動車などハーフトラックなどに乗りながらこの時代としては超高速で進軍していった。そして満州を一気にスルーして北京方面へと進軍していった。北京近郊では日本の宣戦布告に驚いた中華人民共和国軍は中華民国との国境からは兵を少しだけしか引き抜かずまた農村から徴発した兵士たちだった。しかし、ソ連製のMS1戦車が配備されており油断はできなかった。
一ヶ月後俺は終了した今作戦の報告書を読んだ。
国境を越えた先遣隊は全て北京へ向けて進撃していった。そして追って本国から5日後9個師団の増援が来て二個師団が満州へ7個師団が北京へむかった。先遣隊6個師団は増援が来るのを待ってから進撃した。北京近郊ではソ連より送られたMS1軽戦車と初期型八九式中戦車初期型が衝突した。結果はほぼ互角だった。しかしこの戦車はエンジンを全面におき車体が貫通されてもエンジンで弾丸が止まる寸法になっていたため戦車兵は殆ど死なずに済んだようだ。しかしこの戦車戦は数が多かった日本軍の勝利となった。
そしてこの戦いで勝利の鍵となったのはやはり技術力の差だった。日本軍は三八式歩兵銃から最新の八七式歩兵銃(3発連射可能で弾丸は三層になっている。つまり9発撃ったら弾薬を入れ替えるという仕組み)を配備。さらに軽機関銃も各部隊に配備しさらに装甲車による突撃も効果的だったようだ。中華人民共和国軍は旧式の野戦砲だったため火力、機動力共に日本軍の野戦砲に大敗し統率力もなくなり日本軍の突撃に耐えられなかったようだ。さらに北京攻略には自走砲(八九式中戦車のシャーシを利用したオープントップの砲台)が活躍したようだ。
しかし一方で問題も発生していた。まず八九式中戦車は耐久力が低く連続運用には耐えられないこと。次に八七式歩兵銃と軽機関銃がオーバーヒートしたり故障が相次いだことだ。これらの事は物量、技術力の両方で日本軍が凌駕できる中華人民共和国軍相手なら良いがアメリカやソ連相手ではダメだ。よって俺は銃、戦車共に耐久力の高い物を技術開発部に求めた。これには流石に嫌がっていたが頭を下げたらやってくれることになった。ていうか俺のカリスマ性ヤバいなこの世界だと。
そして北京を占領された中華人民共和国軍は中華民国の攻勢もあり日本軍の講和した。これは以下の通りである。
北京条約
一、 中華人民共和国は満州から一週間以内に完全に全部隊を撤退させること。
一、 満州における日本の優越権、開発権を認めること。
一、 今後30年間は満州へ軍は進めないこと。
などなどだ。
俺はその後満州へ石原莞爾を送り溥儀を皇帝とした立憲君主国の建国を張作霖に提案。中華人民共和国の支配から日本軍のお陰で抜け出した張作霖は日本との同盟と技術援助、資金援助を条件に大統領として就任した。そして満州帝国の建国を宣言した。俺は直ぐに満州へ行き張作霖と会談、石油や資源の取り分は半々とするなどした。この国家の建設にはソ連とアメリカ以外はドイツ、イギリスの工作により表立って非難しなかった。
俺は今作戦が成功したことに安堵したものの明らかな史実との変化に戸惑っていた。アフリカでの大戦争、さらに南アメリカでの勢力争い。この世界の状態はアメリカとその仲間のフランス、イタリア、オランダ、オーストラリア、ブラジル、ニュージーランド、ケニア、ポーランドなどだ。ソ連側は中華人民共和国、コンゴ民主共和国、ユーゴスラビア、イラク、アフガニスタン、インドネシアなどだ。日本側はイギリス、ドイツ、フィンランド、タイ、イラン、南アフリカ、アルゼンチン、コロンビア、ブルガリア、ルーマニア、オーストラリア、ハンガリーなどだ。この様に複雑に分かれている状態では俺が持っている知識がどこまで役に立つかわからない状態が続くとうことだ。