内政の安定
俺は塩田から貰ったマレーシアの開拓を始めた。まず俺の力でマレーシア移民約90万人を集め(もちろん希望制)てから現地へ派遣。現地でゴムなどの希少資源を本土へ送っている。だがオランダ方面へ怖いから35.6センチの旧艦砲16門を配備している。
さらに扶桑型戦艦と巡洋艦6隻駆逐艦8隻を置き、フィリピンへ睨みを利かす予定だ。現在はさしたる脅威はないため行っていない。
俺はさらなる事を始めた。ズバリ内需拡大だ。国内の自動車メーカーはコンベア式生産で乗用車の値段を下げたがまだ少し高かったので国が自動車免税を始めた、これで庶民も大分買いやすくなった。
さらに国内の技術促進や重工業化のために借金ギリギリの投資を行った。これで暫くすれば工業力が大幅に上がり時期大戦も乗り切れる力がつくだろう。さらに全国各地で大量の空港を作ったり、大型の造船所を造設したりした。さらに艦艇の建造の際できるだけ電気溶接するように頼んだ。最初は監視艇からだが。時は
1922年だった。俺は忘れてた、あの天災を。
1923年6月俺は漸く思い出した。9月1日起きるだろう大震災を。9月に来るーーーー関東大震災だーー。ヤベェよまず建造中の天城を避難させたりあとはどうにかして人を死なないようにしたりやる事がたくさんあるよーーどうしよう。まぁいいや取り敢えず工場の避難できそうもないから技術者だけでも助けよう。
そして俺は悩みに悩んだ結果、避難訓練と称して7月1日と9月1日に大規模な避難訓練を行なう事とした。これで少なくても人災は減るだろう。
7月1日の訓練はある程度の早さで動けていたがこの速度で二回目である9月1日の本番(俺にとっては)を凌げるとは思えない。そして不安ばかりが起きる中9月1日を迎えた。
そして地震は起きた。が大して大きくはなかった。
いや、正確に言うと大きいっちゃ大きいけど大震災と言うほどではなかった。最大震度5強という決して弱くない揺れだった。しかしこの世界の日本のプレートは少しずれているせいでどうやら史実より震源地がかなり南だったようだ。これが日本の平野部のみの増加や人口増加、鉱鉄資源の埋蔵、食料支給率の安定を生み出している。これらもその影響で変わったものなのかもしれない。
俺は自分の部屋に入り携帯でルールを確認した。そこには『経済や国際情勢に影響が出るほどの天災は起きない。』と書いてあった。俺は虚無感と安心感の両方にかられた。しかしこれで資源の無駄遣いや工場の消失は免れられたのだ。これは後々に影響するだろう。
俺は関東大地震の後、道のコンクリート化を始めるためにユンボやショベルカーなどの開発を技術開発部に頼んだ。さらに震災後の中国人迫害を禁じ、さらには共産党員を狩るために共産主義規制法を定めて急進的左派を抑えた。さらに在日スパイを取り締まる特別高等警察や対外諜報を行なう警視庁第6課を極秘で設立した。表では他の警察組織の観察を行い、裏では対外諜報を行なう二重機関だ。これで大きな変化が起きるだろう。
震災は俺により少し死者を多めで発表したことや施設ダメージを大きくアピールしたことにより世界各国から多額の支援金や大量の支援物質が届いた。これらを全て医療関係の研究とエンジンの研究に投資した。
そして日本各地に工業地帯を作ることにした。まず愛知と岐阜に工場を造設。さらに埼玉や群馬に各種の自動車工場、そして新潟、北海道、鳥取、鹿児島、高知などでの大工業地帯の建設の計画。そして韓国の平壌やソウルそして地方の工業化のためやインフラの整備ための投資を始めた。
俺は大分前から彼女である千佳が国家元首の務めるタイミャンマー同君連合王国に船舶の建造や陸軍兵器の輸出を行ってきた。これにより史実の10倍ほどの経済力(史実の日本ぐらい)を持つようになっていた(ちなみに今の日本はその6倍以上だろう。)これにより正式に日本はタイとの経済連携協定を結んだ。
技術開発部から朗報が届いた。戦車の試作量産型が完成したそうだ。さらに半軌道車の開発など輸送車の開発も同時にだ。そして俺はかなり驚いた。なんとその戦車はイギリスの創世記型である菱形戦車ではなく砲塔旋回型でルノーFTのような近代的なフォルムをしていた。さらに全溶接らしいので軽くて丈夫である。
砲は現在は短砲身だが今は問題ないだろう。そして、装甲車などのできも悪くなかったがこれに満足してほしくないのでさらなる性能の向上を技術開発部に頼んどいた。かなり難しいだろうが俺は出来ると信じている。