決めちくれーーー!!
作者の体調不良により大幅に投稿が遅れたことを謝罪します。投稿ペースは落ちますが頑張っていきます。これからもよろしくお願いします。
1943年2月
ソ連軍は度重なる冬季攻勢を同盟国側に仕掛けていた。ドイツ南方方面軍とオーストリア軍に包囲されているスターリングラードへの救援、そして反攻にでた。ソ連軍はT34-85中戦車をアメリカ経由で届いた工作機で生産し前線へ大量に送ってきた。このT34-85戦車はT34中戦車に85ミリ高射砲を搭載した戦車だ。史実では、性能はパンターに劣ったものの10対1と言われる数の差を生かしドイツ軍を圧倒した。しかしこの世界ではドイツが人口増加による生産量増加やオーストリアのイギリス式大量生産、さらにはイギリスからの輸出で数は5対3を保っていた。
スターリングラードはソ連からすると軍のトップであるスターリンのメンツを考え死守してくるだろう。しかしドイツ南方方面軍とオーストリア軍は史実と違い、まるで注視していなかった。ソ連軍は市街戦を行い疲弊させたところを包囲して叩こうとしていたがオーストリア軍は市街地から撤退して増援にきたソ連軍と正面から戦った。市街地のソ連軍の抑えはドイツ南方方面軍が行った。ソ連軍は戦車を前に歩兵隊と共に突撃してきた。オーストリア軍はこれを正面から受けて戦った。しかしここでソ連軍を驚かす強戦車が現れた。その戦車はオーストリアが自国開発したオットー重戦車だった。
オットー重戦車
車体正面 傾斜付き150ミリ 側面90ミリ 背面20ミリ
砲塔正面 180ミリ 側面100ミリ 背面50ミリ
主砲 9センチライフル砲
車体重量 60トン
最高速度 40キロ
オーストリア軍は初期生産したこの戦車を80両配備してあった。
ソ連軍戦車隊はパンターを突破して歩兵隊を攻撃しようとするとこの戦車と戦う事になった。さらに窪地に隠れてたりしてとてもT34-85戦車の主砲では貫通できそうもなかった。この戦車の活躍によりソ連軍の反攻は頓挫し、オーストリア軍撃破は叶わなかった。しかしスターリングラードの守備隊は再び市街戦を続けているためオーストリアによる占領は未だかなっていない。
ドイツ軍中央、北方方面軍はレーニングラードを攻めていた。レーニングラードは市内工場での生産や細々と続けられている補給物資によって保っていたが市内はドイツ軍の(イギリス軍のもの。)重爆により焼け野原にされていた。さらに補給に使われていた線路も空襲の被害にあい崩壊した。ドイツ軍は暫くすれば勝手に落ちるとの判断を下して包囲したままモスクワへ向かい前進を始めた。
しかしモスクワへの道は険しかった。戦車が凍りつき動かなくなり歩兵隊のみでの前進ではソ連軍の堅固な陣地を突破できなかった。この間にもソ連軍は戦車を次々に生産し前線に送り込んでいる。ドイツ軍はとうとう進撃を停止して一度休息をとった。この間に戦車や砲弾、銃弾を補給して春季攻勢に備えた。
西部戦線は大きな変化があった。イギリス軍が各地で大幅な増援を得て攻勢に出たからだ。ベルギーを中心に一帯を制圧したイギリス軍は最新鋭戦車の2種をを本国より配備してあった。それは重戦車ブラックプリンスと中戦車センチュリオンⅠ型だった。
巡回戦車センチュリオンⅠ型
車体 傾斜付き正面90ミリ 側面60ミリ 背面50ミリ
砲塔正面 120ミリ 側面背面50ミリ
車体重量 40トン
主砲 80口径17ポンド砲
最高速度 57キロ
この戦車は保守的なものと最新の設計を両方取り入れている。そのせいかかなりの信頼度と生産量を持っている。しかも主砲は日本軍が正式採用しているものよりも長く貫通力が高いものだ。
重戦車ブラックプリンス
車体 傾斜付き正面120ミリ 側面背面40ミリ
砲塔正面 150ミリ 側面背面80ミリ
車体重量 50トン
主砲 60口径20ポンド砲
最高速度 45キロ
この戦車は新機軸をふんだんに使い大胆に設計されている。そのせいか故障が多いものの速度以外の機動性は良くさらに弾の弾きもいい。さらに主砲は17ポンド砲よりも貫通力が非常に高い。さらに装填速度は17ポンド砲ほどではないが他の同口径の砲よりもかなり早くなっている。
この戦車を巡回戦車コメットから更新した。さらに主力戦闘機を2000馬力のグリフォンエンジンに換装したスピットファイアに変更してある。
時は遡り1943年1月。
アラスでイギリス軍とドイツ機甲師団連合軍はフランス軍と衝突した。
参加兵力はフランス軍200万 イギリス連邦軍170万だった。制海権、制空権共にイギリス側にありさらに戦車もイギリス側の方が圧倒的強かった。対してフランス軍は連日のイギリス軍の空爆により補給は滞っていた。そのため全兵力はフランス軍の方が多かったもののイギリス連邦軍はフランス軍を圧倒した。フランス軍は総崩れとなり壊走した。パリは無防備都市宣言をしたのちにイギリス連邦軍が凱旋門を通りパリ制圧を占領した。イギリス連邦軍に対して塩田は治安の安定とインフラの安定を徹底させた。これにより史実と違い大幅にレジスタンスの数が減り治安維持に多数の兵力を要することがなくなった。フランス軍は首都陥落後もド・ゴール将軍を中心としたフランス軍は政府関係者をヴィシーに移送して国内での徹底抗戦を宣言した。




