愛のある話
「あいしてる」
みんなが声をそろえ、頭を下げる。プラスチック製の真っ白な机の上にはカラフルなランドセルが一列に並んでいた。やはりプラスチック製のホワイトボードには、日直の小西君が消し忘れたのだろう、足し算や引き算、大きい花丸と小さめのばつ印が並んでいる。
「ああ、愛してる、また明日な」
ぼくらは先生に帰りのあいさつをした後、一斉にランドセルを背負い始める。タブレットPCと本の他に今日は体操服も入っているから少し重い。肩の辺りがぎゅうっとして、何か勉強以外にも違うものを背負ってしまったような感覚になる。
ぼくの前では、女子達が集まっておしゃべりを始めている。アイドルの話だとか、誰が誰を好きだとか、話題はつきることがなさそうだ。頭がいいと思われたいのか、「最近、禁止用語がまた増えたんだって」と朝見たニュースを話している女子もいる。何が不満なのか「あいしてる」を連発する女子もいた。入学式から三週間たっただけで、どうして女の子は女子へと変われるんだろう。
「おだくん」
不意にガラス玉のように透き通った声が聞こえて、思わず振り向いた。
「……何?」
少し音のずれた声で返事をする。声の主は分かっている、後ろの席の大川さんだ。いつも昼休みに教室でぼくと同じように本を読んでいるからだろう白めの肌色の頬には、ほのかに赤みが差している。まだ四月なので、格好は長袖の黒いセーラー服に黒いスカート。胸には血のように赤いリボンがついている。制服のポケットには「愛町小学校一年五組 おおかわ かなえ」と書かれた名札が安全クリップによってとめられていた。
女子のつくったグループとは少しはなれた場所にいる、ちょっと不思議な子だ。そのせいだろうか、周りの女子達は彼女のことをあまりよく思っていない。担任の先生も扱いづらい生徒だと思っているみたいだ。しかし僕は彼女のその不思議な雰囲気や一つ結びの大人びた髪型をほんの少し嬉しく思っていた。
「おだくんって、いっつもむずかしいこと、かんがえているんだよね。よんでいるごほんをのぞいてみても、わたしにはよくわからなかったし」
ほめられたのだと分かって、顔が彼女に分からない程度に赤くなる。ぼくは
「う、うん……まあまあ、かな」
とだけうつむいて言った。
じゃあ、と大川さんは近寄ってきて口を開いた。唇は淡い桃色で、ふっくらしていた。
「なんで、かえりのごあいさつがこんなのなのかわかる? ようちえんのときはわたし、せんせいに『さようなら』っていってたよ」
難しい質問だった。まだ「女の子」の彼女にも分かるよう説明するには考える時間も頭も必要だった。首をひねって簡単に言える答えを出そうとして、結局何も言えずに黙り込んだ。彼女の長いまつげの奥にある、少し茶色がかった瞳に吸い込まれそうになるのが自分でもよく分かった。目が少し悪いのだと自己紹介で言っていたのを思い出す。
確かに幼稚園のかばんをさげていたとき、帰りのあいさつは「さようなら」だった。
それだけじゃない、「おはよう」も、「ありがとう」も、「いただきます」も、「ごめんなさい」も。あいさつだけじゃなくて、「いやだ」とか「ばか」とか、「だめ」とか。
ニュースの中のえらい人たちが言う「負の言葉」はみんな一つの言葉にまとめられてしまった。
昨日の夜見たニュースのお兄さんの話によると、最近他の国で大きなケンカがあったのが原因みたいだ。日本は巻き込まれなかったものの、えらい人たちがそのことで話し合いをしたらしい。その結果あいさつや「負の言葉」は全て平和の象徴である「あいしてる」になった。
「キライ」とか「死んじゃえ」とか、そういう表現はやめなさいって。
先生からも、お父さんやお母さんからもそう言われた。えっと、きょ、そうだ、強要、された。この言葉も本当は使ってはいけないらしいのだけれど。
下を向き口をつぐんだままのぼくを見て、大川さんのまつげが一回、上下に動いた。
「わたしね」
大川さんは無理矢理にでも人の目をのぞき込みながら話す。それもまた、彼女がよく思われない理由だった。深い茶色の瞳が鏡となって、小さな自分を映し出しているのを見ると、何だかすごく悪いことをしたような気分になるのだ。ぼくもまた、心臓が一回、どくんと跳ねた。大川さんはタンポポのような笑顔を浮かべる。
「もっと、おだくんとおしゃべりしたいな。だってあなた、ほかのひととはちがうかんじがするもの――」
それからぼくと大川さんはよく話すようになった。放課後、誰もいなくなった教室でぼくはイスを回して彼女の正面に座り会話を弾ませる。それはクラスメイトの女子が話しているような華々しい話ではなかった。昼休みにパンの香りがしたのでどこからきたんだろうと想像したとか、登校中にがんばって砂糖の粒を運ぶアリの姿を見たとか、ちょっと難しい話をしてもそう言えば働きアリには働くアリと働かないアリがいるそうだとか、そういう話だった。
「おじいちゃんが貸してくれた本で読んだんだ。働きアリの、十匹のうち二匹はよく働くんだけど、二匹はあまり働かないんだって。もう六匹は普通に働くアリ。えらい人達は『働かないアリなんていない』って言って、それを隠したいみたいだけど」
彼女はしばらく黙り込んで、それを味わった。人差し指と親指が無意識のうちに唇に触れ、何かを考えているそぶりを見せる。そして時通りぽつりと自分の考えや疑問を漏らすのだ。
「なんで、はたらかないアリがいるのかな。おこられるのが、こわくないのかな」
その真剣な眼差しや小さく動く唇が、ぼくの心臓を大きくゆさぶっていった。これが何なのか、ぼくにはよく分からなかった。必死に頭を回転させ正直に答える。
「そこまではよく分かっていないみたいだ。……ぼくは、その働かないアリにも意味があると思う」
続けて、と彼女の瞳が語る。えっと、と少しずつ言葉をつむぐ。彼女はいつもそれを辛抱強く待ってくれた。
「きっとその二匹の働きアリは、じっとそこで座って、他の働きアリたちの観察をしているんだよ。そして、考えるんだ。これでほんとにいいのかなって。みんな、えらい女王蜂に流されているけれど、これであっているのかなって……」
ほかに分かりやすい言葉がないかと探すぼくに、大川さんは小さくつぶやく。
「わたしたちははたらかないアリなのかな」
はっとして彼女の顔を見つめ直した。口元が緩み、瞳はいつもより大きく見えた。
だったらいいね、と二人で笑いあった。
担任の先生が、横目でちらりとぼくらを見ながら通り過ぎていった。彼は少し驚いた様子だった。しかしどこか苦しそうな表情をしていたのに、ぼくは気がつかなかった。
二人だけの秘密の時間は、二週間ほど続いた。ぼくは彼女との話題を作ろうといつもより多くの本を読んだ。もちろん、ぼくが彼女に教えるだけじゃなくて、彼女がぼくに知らないことを教えてくれることもあった。大川さんはやはり他の子とは違い、はっとさせられるような考えを持っていた。
その日は、いつか話そうと決めていたあの「あいしてる」の話をした。ぼくも勉強して世界中で起こったケンカのことを「戦争」と言うのだと知っていたし、彼女もそれについて理解していた。大川さんはぼくの話をいつも通り濃い茶色の瞳をこちらに向けて聞いていた。それもあって、ぼくも分かりやすく自分の言葉で説明することができた。成長したものね、と言いあう。
ぼくはここで、少し声を潜めた。
「でも、ぼくはいまだにこの『あいしてる』っていう言葉がよく分からないんだ。辞書を引いても出てくるし毎日使っているけれど、何かが違う気がするんだ」
これが、ぼくが二週間かけて出した結論だった。「何か」が何なのかまでは分からなかったが、それでも大川さんは真剣にうなずいてくれた。彼女はあの僕をどきどきさせる、人差し指と親指で唇を包み込むようにして考えるそぶりを見せつつ、口を開いた。
「わたしもあんまりこのことば、すきじゃないの。『あいしてる』ってなんなのかな。そんなにかんたんにつかっていいのかな――」
その時だった。
「大川!」
大きな声が教室の前の方から聞こえた。担任の先生だ。大きな肩は壁のように教室のドアをふさぎ、四角い眼鏡は固まる僕らの姿を映し出していた。とても頭のいい人らしいと女子が噂していたのを思い出す。
「大川、駄……愛してるだろう、そんなこと言っちゃ」
と、先生は大川さんにゆっくりと近寄り言った。その姿はとても大きくて、恐ろしくて、反論できそうな雰囲気ではなかった。
それでもぼくは何かを言おうと、口を開きかけた。
しかしその時、先生は突き刺すような目でこちらを見た。瞳は彼女と違って濁りきっていた。あまり寝ていないのか、くまさえ浮かんでいた。悪いことをした男子を怒るときにも、こんな目はしていなかったはずだ。彼のそれらから、ぼくは全く目をそらすことができなかった。眼鏡の奥の濁った目にぼくの姿は映っていなかった。体は小指一本も動かなかったが、心は氷水を被ったように冷静だった。働き者のアリの目だ、とぼくは思った。
彼はぼくから視線をはずすと、再び大川さんに向き直る。
「教育長からの要請で、負の言葉、及びあいさつ全ては『愛してる』に変換するようになっているんだ。職員室に来なさい」
そう言うと先生は彼女のセーラー服のえりをぎゅっとつかみ、
「く、くるしい……」
「ほら、そういう言葉が間違……愛しているんだ」
そのまま教室を出て行く。彼にお相撲さんのような力強さは全く無かった。むしろ、疲れているようにさえ感じられた。しかし彼女は抵抗をしなかった。抵抗をすることが悪いことだと思っているかのようだった。
大川さんがドアをくぐり抜ける直前、ぼくは彼女の唇が動くのを見た。音は無かった。
「あいしてる」
彼女はにっこりと微笑むと、教室から消えた。途中途中で先生の怒鳴り声が聞こえた。
最初に動いたのはまぶただった。まばたきをすると自然に小さな水の粒があふれ出てきた。何故それが出てくるのか、やはり分からなかった。
今までぼくが詰め込んできたものは何だったんだろう。今までぼくが見てきたものは何だったんだろう。働かないアリのぼくらは、二人で勝手に意見を呟くしかない、そんなちっぽけな存在でしかないのだろうか。
彼女の最後の声にならない言葉が、いつも使っている、しかし彼女が嫌いな言葉が、頭をはなれなかった。あの小さな女の子は何を考えたのか? ぼくは右手の人差指と親指で唇に触れた。それはとてもカサついていて、柔らかさなんて一つも見つからなかった。それでも、考え続けた。
「……そっか」
ぼくはぱっと顔を上げると、机とイスに散々ぶつかりながら教室のドアへと走った。お腹やひじにぶつかって、いろんな場所がジンジンと痛んだ。
「先生!」
延々と続くようにさえ思われる廊下のはるか遠くに、立ち止まった二人の姿があった。ぼくの大声に、先生が振り向く。その間に二人の元に走った。普段運動をしないからちょっとスピードを上げただけで息が切れる。心臓がいつもとは比べ物にならないくらい速く動いている。それでも走って、走って、ようやく二人のいるところへたどり着いた。先生も大川さんも目を大きく見開き、ぼくが息を整える姿を見つめていた。透き通った目と濁りきった目が、二対、並んでいた。目の前にいるそれらに向かって、ぼくはわき目もふらず叫んだ。大きな声を出さないと、彼女達が遠くに行ってしまいそうな気がしていた。
「ぼくは、この『あいしてる』の使い方を、よく分かっていません。ぼくが今彼女に対して持っている気持ちが、それなのかすら分かりません。ぼくらは何も、知りません。だから、平和の象徴だからと言って、勝手に使ってはいけないと思うんです。気持ちを込めてえっと、大切な感情を持って言うべきでっ、だからっ……」
そこでぼくは大きくせき込んだ。心臓が激しく動き過ぎて、逆に止まってしまいそうなほどだった。唇はさらに渇き、喉の奥がいがいがしていた。
先生は黙っていた。目を大きく見開いてはいたが、やはりその瞳は不透明だった。しかしそこにはしっかりとぼくが映っていた。
「……決まりなんだ」
ぼそりと先生は言った。哀しみの色が、彼の表情にしっかりと表れていた。彼も苦しんでいるのだ。それが分かったぼくはその場に立ちつくすしかなかった。二人はそのまま歩きだすと、角を曲がって見えなくなった。
翌日、彼女が転校したという知らせが担任の口からもたらされた。理由は聞かされなかった。クラスメイトの女子は顔を見合わせて共に小さく笑うと、再び真剣なふりをして、一時間目の国語と三時間目の算数が入れ替わったことを聞いた。