トネリコの番人と八枚羽根の蝶 4
4
「ルルンパはここで何をしているの?」
「あたしかい? あたしはさっきも言ったように、このトネリコの番人をしているのさ。たまに降りてくるヤツから、八番蝶から、あのトネリコの実を守っているんだよ」
「八番蝶から? じゃあ、樹の周りにある壷から飛び出てる赤くて光り輝く風船はルルンパが上げているの?」
僕の質問に、ルルンパは目を見開き、ホウッと輪っか状の煙を吐いた。「ほんとに賢い子だねマナは。そうさ、トネリコの周りに配置してある壷は、全て管を通してあたしの工房に繋がっている。そこであたしは一日分の風船を管に入れて、順番に飛ばすのさ。来る日も来る日もね。止めてしまったら実が食べられてしまう」
「蝶々が実を食べるの?」
「そうだ。トネリコの樹をよく見てごらんマナ。暗くて見えづらいかも知れないけれど、葉と葉の隙間に、赤く輝く実が見えないかい?」
ルルンパに言われて、注意深くトネリコの樹を観察する。外側を通過する風船の光に照らされた部分で、葉の隙間に光るモノを発見した。たぶん、あれがトネリコの実だ。
光の位置が変わって反対側へ。また葉の隙間からキラキラと光る実が見える。今度はハッキリと見えた。赤くて丸い、リンゴのような実。もしかしたら降りた時から漂っている甘い匂いも、あの実から出ているのかもしれない。
「見えたかい?」
「うん。リンゴみたいだ」
「そうさ、実は赤かったろう? あの色が八番蝶を惹きつけるんだ。八番蝶は赤い光に集まる習性があってね、定期的にあの風船を打ち上げる事で、八番蝶を実から遠ざけているのさ。ん? おや? なんだか三番ポットが調子悪いみたいだね」
そう言ってルルンパはギョロリと大きな瞳を動かして、僕の肩越しに壷を見る。振り返ってみると、ちょうどつまらなそうに蹲っているイコと僕らの間にある壷がカタカタと震えている。「あの震えている壷?」
「ああそうだ。ちょっと様子を見てこよう。もしかしたら詰まっているのかも知れない。爆発したら大変だからね」
「え! 爆発するの?」
「ああ、爆発といっても壷の仲で詰まった風船の素が辺りに飛び散るだけさ。身体についても、吸い込んでも、どっちも害はない。そうさね、壷が壊れてしまうから新しいのと交換しなけりゃいけない。これは面倒だね」
「そっか、それなら安心だね」
僕とルルンパは二人一緒にカタカタと震えている壷を目指して歩を進める。僕が穴側、ルルンパは僕から見て左前だ。ルルンパは特別飛び跳ねる事もなく、器用に管の間を縫うように歩いていく。僕もそれを真似て歩いてみたけれど、上手くいかなくて、また何回か太い管に足を引っ掛けてしまった。僕より大きい体格のルルンパに出来て僕が出来ないという事は、何かコツがあるのかも知れない。なんかちょっとだけ悔しい。
ほどなくして、僕らは震える壷に辿り着いた。ルルンパは口にくわえていた長い棒(イコとルルンパがタバコと呼んでいた煙の出る棒)を腰のベルトに戻してから、カタカタといつまでも震えている壷を両手で押さえ込むと、上から中を覗き込むように壷の中を確かめた。
「ああ、こいつはやっぱり詰まっているね。どこかで塊にでもなっちまったのかねまったく……」
「壷、直りそう?」横側から覗き込もうと時計の針のように身体を傾けても、よく見えない。
「ああ、時間は掛かりそうだけど問題ないさね。それよりもマナ、ここいらの柔らかい管には気を付けるんだよ。どこまで詰まっているか分からないからね、間違っても踏んじゃぁダメだ」
ルルンパは壷の中を覗いたり、中に手を入れたり、時には腰のベルトに付いている道具を取りだして、壷の修理をしている。時々作業をしながら僕の方を向いて様子を確認する。きっと、僕がうろちょろして管を踏まないかどうか見張っているんだ。
「ねえルルンパ、踏んだらどうなるの? 固い管には、僕、何回か足を引っ掛けてしまったのだけれど」
「ああ、固いのは大丈夫さ。ちょっとやそっとじゃ傷つかない。けど柔らかいのはそうもいかない。もし柔らかいのを強く踏んで小さな穴でも開いたら、そこから風船の素が飛び出してしまうよ。それにどれが柔らかい管で固い管か分かるのは、長年ここにいるあたしくらいさ。だからマナ、そこでじっとしていておくれ」
「分かったよ。じっとしていれば良いのだろう? そんなの簡単さ」僕はルルンパに返事をすると同時に大きく頷き、その場に根っこを生やしたみたいにじっとした。
なんとなくイコの事が気になって、蹲っているイコの方を眺める。すると、同じようにこちらを眺めていたイコの視線と僕の視線が正面衝突を起こした。イコはすぐに視線を逸らしてしまったけれど、きっと本当は、僕とルルンパが何をしているのか気になって仕方ないんだ。
僕はその場からイコに向かって声をあげた。「壷の調子が悪いんだ! だから今ルルンパが修理してるんだよ!」
「別に教えてくれなんて頼んでないだろ! 僕は今、この気品溢れる毛並みの手入れで忙しいんだ!」わざとらしく毛繕いをしながら声をあげるイコ。「マナはどうせルルンパと話しをしている方が楽しいのだろう? いいさ、それは仕方がない。だったら下へ降りる時になったら声を掛けてくれよ! それまでは放っておいてくれ!」
顔を背けてからは一度も僕の方へ顔を向けないイコの態度を見て、僕は少し腹が立った。でも考えてみたら、さっき僕がルルンパに怒られたと感じた時と同じかも知れないと思った。あの時、イコが何も反応してくれなくて腹が立ったのと、僕がイコと一緒ではなくルルンパと一緒にいたのは、何となく同じのような気がした。だとしたら、僕はイコに腹を立ててはいけないのではないだろうか?
僕がぼうっと考え事をしていると、イコはこちらの様子を窺うように、チラチラと覗く。僕がその視線に気が付いて目を合わせようとすると、途端に背中を向けてしまう。
そうか。これが嫉妬か。
これが、寂しいという事か。
何となく覚えている。
不意に僕は笑った。可笑しかったんじゃなくて、嬉しい笑い。僕とイコは同じだ。そんな事が、豪華なバースデーケーキよりもずっと、ずっと嬉しかった。
「ルルンパ! 管を踏まないように注意しながらなら、歩いても良いかな!」壷の詰まりを直しているルルンパに、僕は叫ぶように大きな声で尋ねた。イコにも聞こえるようにだ。
「なんだい、そんな大きな声を出さなくても聞こえているよマナ。じっとしているのが辛くなってきたのかい?」
「ううん。そうじゃないんだ! 壷を直せるのはルルンパだけなのでしょう? だったら僕は、もう下へ降りようと思うんだ! ルルンパが教えてくれたワイズマンにも早く会ってみたいし、何より友達をいつまでも待たせておくわけにはいかないよ!」僕は尚も大きな声を出した。少しわざとらしいかな? って感じたけど、イコの方が普段ずっとわざとらしいから、これくらいならおあいこだと思った。
ルルンパは僕の言葉を聞くと、驚いたように目をギョロリと広げ、僕とイコを交互に見た。それから作業の手を止めて僕と向き合う。「そうかい、それがあんたの決めた事なら、あたしが止めたり出来るもんかね。なぁに、万が一管を踏んづけたりしても怪我をする訳じゃないんだ。気を付けてお行き」
「うん、分かったよ。色々と教えてくれてありがとうルルンパ。また、会えるのかな?」
そういって、僕は最初と同じように握手を求めた。ルルンパは長い舌をチロリと出すと一瞬困ったように上を向き、喉を鳴らしてから、僕の握手に応じた。「また会えるかどうかはあんた次第だよ。だから、今はさよならさ」
ルルンパの手は相変わらず湿ってヌルヌルしていたけれど、どこか暖かくて、両端が上がった口元は、まるで笑いかけてくれているみたいだった。
ルルンパと繋がった手を離す。
「イコ! お待たせ! それじゃあ先に行こう!」
「な、なんだいマナ? その言い方だと、まるで僕が催促したみたいじゃないか。別に僕は一人でも構わなかったのだよ」
「ううん、僕がイコと一緒に行きたいだけだよ。良いかな?」
僕がそう言うと、イコはバネみたいに跳ね上がり、なんだか得意気にご自慢の髭と形の良い耳をピクピクと揺らした
「そうかそうか! そんなに言うのなら仕方がないね! なに、もとは僕が一緒に下まで行こうと言ったんだ。僕はね、一度言った事は必ず守る主義なんだ。本当さ、嘘じゃない」そう言って普段通りに大袈裟な身振り手振りで話しをするイコ。背中では尻尾がピンと伸びている。
「大丈夫、僕はイコの事を信じているよ。友達の言う事は信じるものなのでしょう?」僕は彼に頬笑みかける。
慎重に管を跨いでイコの居る場所へ歩を進める。薄いオレンジ色の大地には大小様々な管が這っていて、そのどれかが踏んではいけない柔らかい管らしい。違いはルルンパにしか分からない。
イコは上機嫌に華麗な足取りで、管と管の間をスキップしながら僕の方へ進んでいる。
嫌な予感がした。
こういう嫌な予感は当たるんだ。
「イコ、危ないからちゃんと歩きなよ。柔らかい管を踏んだら大変な事になるんだ。だから……」
そこから先の言葉は声にならなかった。
ストロボみたいに突然の出来事。
スキップをするイコが着地を誤って管を踏み付けてしまった瞬間、イコが着地した管がグニャリと捻れ、僕が瞬きをした時と同時にパンッと雷が落ちた時みたいに甲高い音がした。すると、イコの足下からまるで噴水のように、赤く輝く風船の素が吹き出した。
赤い噴水はイコの背丈を超えて、僕の背丈をも超えて、強い輝きを放ちながら、光の雨となって僕らに降り注いだ。バタバタ、バタバタと。
「うひゃぁ!」
イコの叫び声。
その叫び声の原因はすぐに分かった。真っ赤に濡れた僕にも同じモノが寄ってきていたからだ。八番蝶だ。
一匹、三匹、六匹。どんどん集まってくる!
「やめろ! 触るな! 寄るなぁ! あっちへ行けったら!」イコは無数に集まる蝶々の群れを追い払うように手足を振り回す。けれど、一度離れても、蝶々はまたすぐに寄ってきてしまう。
イコは今まで僕が聞いた事がないような大きな声をあげて走り回る。
「危ないイコ! そっちはダメだよ! そっちへ行ったら穴へ落ちてしまう!」
「やめろったら! 来るな! 寄るなぁ! あっちへ行けよぉ!」
僕の声はイコには届いていない!
周囲に群れる八番蝶を手で払いながら、僕は真っ直ぐと穴へ向かうイコの元へと走った。
目に蝶々が被ってしまい、その拍子に固い管に足を引っ掛けて転びそうになるのを必死で堪えて、目の前にある管を飛び越えて、走った!
頭の中は真っ白だ。
イコは半狂乱になりながら、あと一歩で穴に落ちてしまう距離まで来ていた。「あっち行け! あっちへ行け! あ……」
イコの片足が空中を彷徨う。
支えの無くなった身体は、夕日が沈むみたいにゆっくりと沈んでいく。
「イコ!」
僕はイコの名前を叫んで跳んだ。今まさに穴に落ちようとする友達の手を目掛けて、飛んだ!
目一杯伸ばした手が、間一髪で僕とイコを繋げる。けどダメだ!
イコの手を握った僕は、自分でつけた勢いを止める事が出来ず、身体半分が穴に落ちているイコに引きずられるように穴へ近づいていく。これじゃあ僕まで一緒に落ちる!
僕は繋がった手を強く握りしめた。
もう駄目だ! そう感じて僕が目を強く閉じると、ガクンと何かが足に引っ掛かって、腰が穴の淵に掛かった辺りで勢いが止まる。
手にはイコの柔らかい毛に覆われたピンク色の肉球。まるで僕らを食べようとしている大穴はとても暗くて、手の先にいるイコの姿はぼんやりとしか見えないけれど、繋がっている手を伝わって、友達が震えているのが分かった。