トネリコの番人と八枚羽根の蝶 1
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「おや? あれはなんだろう?」
紫色の大地を抜け、鋼色の階段を十段ばかり下りた所。吹き抜けの下から赤い光が見えて、僕は思わず声を上げた。手摺に寄って下を覗き込むと、赤い光はゆっくりと上へと昇ってきている。
イコも僕の隣に並んで下を眺めたけれど、赤い光を見た途端に「なんだ風船じゃないか。面白くもない」とつまらなそうな言葉を溜息と一緒に吐き出して、階段を三段抜かしで跳ぶように先へ行ってしまった。
「待ってよイコ!」駆け足でイコの後を追う。「どうしたのさ? イコはアレの事が嫌いなの? あんなに綺麗なのに? それに、風船って言ってたけど、風船は光ったりしないよ。ねえ、待って!」
「やれやれ、仕方がないな……」
僕の訴えが届いたのか、先を行くイコは歩みを止めて待っていてくれた。すぐに追いついたけれど、走るのに慣れてないから僕は息切れしてしまった。立ち止まり、吹き抜けを眺めるイコは疲れているようには見えない。階段の上り下りに慣れているんだと思った。
「ごらんよマナ、もうすぐ風船が僕らの前を通過する。君が綺麗だと言ったアレをその目でしっかりと見るんだ」そう言うとイコは吹き抜けに手を指し示した。表情は相変わらずつまらなそうで、髭はその首をもたげ、いつも優雅な尻尾はくたびれた麻縄のように垂れ下がっている。
イコに促されて手摺から吹き抜けを覗いてみると、上から見た時には親指の先くらいの大きさでしかなかった赤い球体は、今や手の平と同じ大きさまでとなって迫ってきていた。目前に迫る風船と呼ばれたソレは、赤い輝きを保ったまま、ゆっくりと近づいてくる。光は真昼の太陽みたいに強く、その色は夕焼けよりも遥かに赤い。どうして浮かんでいるのかは不思議だったけれど、そんなの気にならなくなってしまうくらいに綺麗だと思った。
「イコは風船が嫌いなの?」隣に並んでつまらなそうに眺めるイコに尋ねる。
「好きか嫌いかで言えば嫌いだね。ほら、よく見てごらんよ。あの赤く光っている気持ち悪い風船の周りを、さっきから飛び回っている影があるだろう? 僕はアレが一番苦手なんだ」
イコの言葉でもう一度風船を眺めた。今度は風船そのものじゃなく、その周りに注意を向けて、瞬きをしないで見続けた。すると、確かにイコの言う通り、風船の周りを飛び回っている幾つもの影があるのが分かった。
光り輝く風船はぐんぐんと確実に昇り、ついには僕らの目の前を通過する。眩しくて目を細くしたけど、それでも周りを飛んでいるモノの正体は確認出来た。
アレは蝶々だ。
でもただの蝶々じゃない。羽根がいくつもあって、僕が今まで一度も見た事の無い蝶々だった。町外れのうっそうとした森の中にも、春になると甘い香りで包まれるアカシアの花畑にも、あんな蝶々はいなかった。
赤く輝く風船は僕らの前を通りすぎ、さらに上へ上へと昇っていく。光を追いかけるように、蝶々も一緒に上へと昇る。
ぐんぐん、ぐんぐんと。
僕はそれを目で追いながら、首の後ろが痛くなるまで真上を見る。
ゆっくりと、どこまでも昇っていく。少しずつ小さくなりながら、音もなく。
「八番蝶さ」
「やつがいちょう?」僕は横へ振り返り、いつの間にか吹き抜けに背を向け、手摺に寄り掛かっているイコが口にした耳慣れない言葉を繰り返した。
「そう、あの風船に惹かれて飛んでいる気味の悪い八枚羽根の蝶の名前だよ。あの八枚の羽根で粉を撒き散らす姿を見るだけで、僕の綿毛よりも柔らかな毛が、まるで針のように逆立ってしまう。ああ! 気持ちが悪い!」
「イコはあの蝶々が苦手だから、それを運んでくる風船も嫌いなんだね」
「そうさ。あんな気持ちの悪い蝶々がたくさん群がるんだから、きっとあの風船も気持ちが悪いに決まっている。ああ! 気持ちが悪い! 想像しただけで痒くなってきた! 僕はあの蝶々も大嫌いだが、痒いのも嫌いなんだ!」イコは手摺から二歩下がり、後ろ手にして、その場で飛び跳ねながら一心不乱に背中を掻いている。
イコは好き嫌いがはっきりしている。対して僕は好きだとか嫌いだとかがよく分からなくて、彼が嫌いだという風船や蝶々も、好きでも嫌いでもない。
でも、イコと僕は友達だから、彼が嫌いだと言って目を背けたモノを、僕が好きだとは言ってはいけないような気がした。それが良い事かどうかは分からないけれど、僕がイコの嫌いなモノを好きだと言ったら、きっとイコは悲しむだろう。
友達の悲しむ顔は見たくない。だからこそ、僕は夕日よりも真っ赤な風船も、八枚羽根の不思議な蝶々も、何も言わずに黙って眺めていようと決めた。
高く浮かび上がり、親指大の大きさに戻った赤く輝く光をもう一度見上げる。
— あんなに綺麗なのに、もったいないな。 —
やっぱり好きとか嫌いとかはよく分からないけど、少なくとも今、僕の頭上で輝くあの光は、とても綺麗だと感じた。
それは僕の素直な気持ち。
「さあ、こんな所で油を売っていないで、さっさと下へ行こう」
そう言ってまた先を歩いていくイコ。僕は今度こそ置いて行かれないように、慌てて見上げるのをやめて、イコの後ろをついていく。
僕らが螺旋階段を下っている間も、風船と、その光に誘われるように光の周りを飛び回る八番蝶は、何度も吹き抜けを昇っていった。その度に、階段を下る僕らの横顔を煌々と赤色に染める。
暫くして階段も終わりに近づくと、僕はこれまでとは違う光景に気が付いた。吹き抜けの真ん中には、大きな樹があるのが見える。豊かに茂る樹の周りから昇る赤い光。まるで逆さまにしたオイル時計みたいだ。
「イコ、あの樹は……」
なんだろう? と問いかける途中で、イコは僕の言葉を遮るように手の平を僕に向けた。「その質問は僕が答えるよりも、専門家の口から聞いた方が良い。あの気持ちの悪い八番蝶や風船があるという事は、ルルンパの工房まで来たという証拠だからね。彼女に聞いてみると良いさ」
「ルルンパ?」
イコは僕の質問には答えずに、得意気に髭を三回揺らして見せると、さっさと階段を進んでいく。専門家と言っていたので、学者さんが住んでいるのかもしれない。
イコの知り合いみたいだから、僕はその学者さんの姿を、イコが帽子を被っている姿で想像していた。