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イコとマナ 2

— 犬? —

 口元は長く、先端には黒い鼻。長い髭。100メートル先の息遣いまで聞こえそうな程に大きな耳は二等辺三角形の頂点を上に向け、一点の曇りのないつぶらな瞳は、まるで黒曜石のように輝いている。立ち上がった背丈は僕の腰くらい。身体は手触りの良さそうな白い毛並みに覆われているけれど、彼の背中越しに揺れている尻尾は縄のように細長い。

— 猫? —

「イコだよ」

「え? なに?」

「だから、イコだよ。僕の名前。さっき尋ねたろう? 今さっき自分が言った事くらいは覚えておいてくれよ。他の事は忘れても良いからさ、僕に話し掛けた内容だけは覚えておいてくれないかな」イコは何度も鼻をひくつかせながら僕に話し掛ける。

「ごめん……。僕の名前は……」

「あー! いいよいいよ! 別に僕は君の名前を知りたいとは思わないし、どうせ覚えているかどうかも定かじゃないんだから、無駄な事をしなくても良いよ。それこそ時間の無駄だからね」

「きみがそう言うのなら構わないけど、それならイコは僕の事をどういう風に呼ぶの?」

「君は『君』で良いんじゃないかな。所詮呼び方なんてハンバーガーのピクルスみたいに余計なものさ」

「僕はピクルス好きだよ。というか、イコはハンバーガーを食べるの?」

「そりゃ食べるさ。僕はピクルスの入っていないハンバーガーを、ドーナツとフィッシュフライと冷めたパンケーキの次に愛しているからね。だけどハンバーガーにピクルスが入っていたら、途端に順位は下から二番目さ。分かるかい? 僕はピクルスが嫌いなんだ。だいたいあれは……」

 鼻をひくつかせ、尻尾を揺らし、時折僕にピンク色の肉球を見せつけながら、イコはいかに自分はピクルスが嫌いかどうかを力説した。僕にはうるさいとか言っておきながら、イコの方がずっとお喋りでうるさいと思う。自分勝手だな、とも考えたりしたけれど、もしかしたらイコはずっと一人で眠っていて寂しかったのかもしれない。

 そう考えると、目の前で身振り手振り話をする彼の事を嫌いにはなれなかった。

 僕は途中から別の事を考えていたので、イコの話は話半分で聞いていた。だけどパズルみたいに散らばった言葉の欠片をつなぎ合わせたところ、要するに彼にとってピクルスとは、折角の御馳走を台無しにしてしまう憎むべき敵なのだという事が分かった。

「うん。だいたい分かったよ。それで、イコはここで何をしてるの?」イコの口上の合間を縫うように尋ねる。

「何を? おかしな事を聞くヤツだな君は。まあそんな事よりもだ、そろそろ僕に質問をしたらどうだい? それとも、名前だけ聞いてさっさと下に行くかい? さっきから君は僕の話をマヌケな顔をして聞いているだけだが、君の目的は下へ行く事だろう? 他に何にも聞く事が無いなら、こんな所でグズグズしていないでさっさと行き給えよ。まだ先は長いんだ」

「目的?」

「そう、目的。大丈夫かい君?」

「……目的、目的……」目の前で仁王立ちしている犬とも猫ともつかない彼に言われた言葉を、何度も口の中で繰り返す。下へ向かうのが僕の目的だなんて、言われて始めて知った。メトロノームのように左右に頭を捻りながら、頭の中でも反芻する。

 目的?

 目的って何だ?

「おいおい、まさかとは思うけど、君はそんな事も分からずにここまで来たのかい?」イコは両手を力無く拡げると左右に首を振った。「ここへ来るまで少なくとも10回は降りてきたはずだ。オレンジ色の大地も、朱色の階段も通り抜けてきたのだろう? それなのに君は何も考えずに降りてきたとでも言うのかい? 冗談はよしてくれ」

「ごめん、僕には分からないよ」

「謝るような事じゃない。けど、だとしたら僕はどうしたら良いんだい? 僕は誰かがここへ来るまでに考えた事を可能な限りホワイトインキで修正して、次の階層へ送らなきゃならない。疑問がないなら疑問がないでそれを確かめてね。それが僕の役目でもあるんだ。ところが君は何も考えてないって? 目的も分からない? それじゃあ僕は用無しじゃないか!」

「ごめん……」

「だから謝らないでくれ。それより本当に何も考えなかったのかい? 例えばそうだな……、昔の事とかは? 友達の事とか、サファイアみたいな海辺の思い出とか、色々あるだろう?」

「……ごめん」

 なんだかイコに酷く責められているようで、僕は俯いた。蒼白い自分の足と茶色い大地が視界に入る。「ただ……、ただ僕は気付いた時には歩いていて、階段はずっと下に続いていたから降りてきたんだ。それが自分の目的だなんて考えもしなかった……。きみに今言われるまで、思いもしなかった……」

 哀しいわけじゃない。けれど身体から涙が逃げ出そうとするのを必死で堪える。考え無しの自分。哀しくないのに泣こうとしている自分。

 下唇を噛み、頬に力を込める。

 男はどんな時でも泣いちゃいけない。

 そう昔に、誰か、優しい誰かに言われた気がする。

 だから泣かない。

「もしかして君、本当に何も覚えていないのかい?」

 何かを探るように問いかけるイコ。僕は黙って頷く。

「だったら、住んでいた場所の風景とか、それくらいは覚えているだろう?」

 涙を堪える事で精一杯で、僕は黙ったまま、今度は首を左右に振る。はっきりと覚えているのは、色取り取りの情景。224段おきに変化する景色。一人っきりの足音。

 そして、夢みたいにぼんやりと、遠くで聞こえる誰かの声。草むらに落としてしまった小石を探すみたいに自分の記憶を探っても、その声の主を捜し当てる事が出来なかった。

 慣れない事をしている、そんな自覚はあった。けれど、どんどん霞んでいき、迷子になっていく記憶に当てられて、また一層哀しくなってきて、手の平をぎゅっと力一杯握る。泣くもんか。

「なるほど……そうか」

 俯いた頭の先から聞こえる、納得の色を滲ませたようなイコの声。「いや僕の方こそ悪かった。なに怒っているわけではないんだ。だから顔を上げてくれないか? 目の前でそんな顔をされたら、僕まで哀しくなってしまう。自慢じゃないが、僕は他人を泣かせた事は一度もないんだ。だからそんな終末みたいな顔をするのはよしてくれ」

 イコは音もなく近寄ると、僕の腰に肉球を押し当てながら、俯いている僕を下から見上げた。

「そうだ! それなら僕も一緒に下まで行こうじゃないか! どうだい? 僕と一緒なら楽しそうだと思わないか?」

 頬の力を緩め、下から覗き込むイコの黒曜石のような瞳を見つめる。「一緒……に?」

「そう、一緒にだ。二人でマザーグースでも歌いながら陽気に行こうじゃないか。僕もここで寝ながら時々来るヤツの修正をするのに少しばかり飽きていた所でね。たまには下の様子でも見に行きたい、と常々夢の中で考えていたんだ」そう言うとイコは僕を見上げたまま口を開き、まるでただの犬のように舌で息をしながら、三角の耳を小刻みに二回動かした。

 そうか。イコは僕を励ましてくれているんだな。イコのこの表情は、きっと元気を出せと頬笑みかけてくれているんだと思った。

 僕は頷く代わりに精一杯の笑顔を作り、イコに応えた。対してイコは満足そうにもう一度小刻みに耳を動かす。

「オーケーオーケー、それじゃあさっそくだけど先に進もう。善は急げと言うしね。ドーナツだって出来たてのアツアツが美味しい。気持ちが冷めないうちに、早いところ下へ行こうじゃないか」

 イコはそう言って僕の腰を軽く押すと、毛並みの良い背中を見せて歩き出した。もしかしたら歩く時は四本足じゃないのかなとか思っていたので、二本の足で音もなく歩く様は、ほんの少しだけ面白くて、ほんの少しだけ声に出して笑った。笑うとさっきまで泣きそうだったなんて、まるで嘘みたいだ。

 僕がイコの後ろについていこうと一歩踏み出した時、イコは何かを思いだしたように肉球を叩き合わせて振り返った。「ああ、そうだ。折角だから君の名前を決めよう。これから一緒に下まで行くのに、名前がないんじゃ不便だろう?」

「突然どうしたの? さっきは別に聞きたくないって言ってたじゃないか」

「さっきはさっき、今は今。最初は君も他のヤツと同じで通りすぎていくヤツだと思っていたけど、そうじゃない。今の僕達は行動を共にする仲間だ。兄弟と言っても良い。そうだな……、マナ、なんてのはどうだい? 貴婦人の濡れた唇のように素敵な名前だと思わないか?」

 得意気に提案するイコの言っている事の半分は理解出来なかったけれど、マナという名前は悪くないと思った。直感というヤツだ。同時に自分の本当の名前を思い出そうとしても上手く思い出せなかったので、そっちは一時保留。

 イコに駆け寄る。「うん、いいね! 僕もマナって名前気に入ったよ!」

「ならば君は今からマナだ!」両手を大きく拡げたあと、流れるようにイコは僕に向かって片手を差し出した。「改めて、僕の名はイコ。よろしくマナ」

「僕の名前はマナ。こちらこそよろしくイコ」

 少し屈んで握ったイコの手は、ピンク色の肉球がマシュマロみたいに柔らかくて、昔聞いた声と同じに優しかった。

 優しい声が誰なのかは思い出せない。

 どうして思い出せないのか? 別にそんなの関係ないし、もう気にならない。だって今は新しくできた友達の手の温もりで胸が一杯だったから。

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