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泉のワイズマン 3

3


「おかえり? おかえりって、どういう意味さ? 僕はここへ初めて来たんだ。それに、僕はまだ君に名前を教えていないのに、どうして君は僕の名前を知っているんだい?」

「そんなに焦らなくても良いですよ。私はどこにもいきません」早口で捲し立てた僕に諭すように、ワイズマンは静かに言った。「覚えていないのは無理もありません。マナ、あなたは一度、いえ、ずっと昔からここへは訪れているの。何度も、何度もね」

「昔から? 何度も? 僕にはワイズマンが言っている言葉の意味が分からないよ」

「ここを出ていけば忘れてしまう。夢と同じ。何度も繰り返す、夢の中」

「夢? 何を言っているんだい? 僕にも分かるように話してくれよ」

「前のあなたは逆子ではなかったわ。でも今回は違う。逆子のあなたは選ぶ事が出来る。夢の後か、夢の続きか。選ぶのはどちらか一つ、一人だけ」

「そうだ! 逆子! 逆子ってなんなのさ!」

「逆子は忘れない者。覚える者。残る者。導く者。選ぶ者。あなたは何? マナはどうしたい? マナという名を貰ったあなたは、マナというあなたになった僕は、なにをしたいの?」

「わからないよ! 僕にはワイズマンが何を言っているのか全然分からない!」地面に言葉を捨てるように、僕は自分の足下めがけて声を張り、二回ばかり大地を強く踏みならした。

 僕は正直腹を立てていた。質問をはぐらかすように、いつまでも含んだ言い回しのワイズマンにだ。イコやルルンパの説明は親切だったのに、イコやルルンパよりも物知りだというワイズマンは、もったい振ってばかりで、全然親切じゃないと感じたからかもしれない。

 でも、きっとそれだけじゃない。理由は分からないけれど、ワイズマンの声を聞いていると、その声がまるで自分の内側から声が聞こえるみたいで、気持ちが悪いんだ。

 自分の内側から聞こえるワイズマンの声。

 僕の中のワイズマン。

 気持ち悪くって、何だか落ち着かない。

 イコと手を繋ぐ右手に力を込める。正面を向いていたイコは、チラリと僕の横顔を覗いたけれど、またすぐに前を向いてしまった。イコにはワイズマンの言っている事が分かるのだろうか?

「イコはワイズマンの言う事がわかる?」

「分かるさ。僕も以前、ワイズマンから話しを聞いているからね」イコは視線を逸らさずに答えた。「よく知っているよ」

「なら教えておくれよ。ワイズマンは何を言っているんだい? さっきから、もったい振ってばかりで、僕の話なんて、てんで聞いちゃいないんだ」

 僕が身振り手振りに訴えると、イコはそっと手を離して、僕と向かい合った。最初に慰めてくれた時より三歩分だけ離れた距離。

「マナには、僕やルルンパがどういう風に見えた?」

「え? どういう事?」

「自分と同じだと思ったかい?」

「それは……」

 違うと思った。だいいち、姿形が全然違う。僕には気品溢れる毛並みも、優雅に揺れる尻尾も、力強く伸びる紫の舌も、何一つない。

「僕も逆子について詳しくは知らない。ワイズマンに聞いたところで、いつも同じ答えが返ってくるだけさ。でもこれだけは知っている。いいかいマナ、僕やルルンパも逆子なんだ。君と同じなんだよ」

「僕と同じだって? けどイコとルルンパは身体の大きさだって全然違うじゃないか」

「僕やルルンパは番人だからさ。姿形はそんなに関係ないみたいだ。僕の前の番人はライオンの姿をしていたよ」

「前の番人?」

 その瞬間、僕は電気が走ったみたいに気が付いた。イコが直接言ったわけではないから、もしかしたら、という僕の勝手な予想。いつだって外れる安易な想像だ。

 けれど、僕はその、もしかしたらを口に出さずにはいられなかった。そうじゃない。口に出したかった。僕の口はその気持ちと裏腹に、シルクのように流れる空気しか漏れる事がなかった。

 はっきりさせたかった。やっぱりねと、いつもみたいに外れた事に安心したいと思った。だって、そうじゃないと、僕は泣いてしまいそうだったから。

 イコは申し訳なさそうに耳を垂らし、僕を見上げている。尻尾は下がり、大地に触れているままで、黒曜石の瞳は、僕の顔が映り込んでいる。

「僕の前の番人はね、僕を守ってくれると言っていたんだよ。僕はねマナ、君と違って臆病だから、初めて見るトネリコの樹や八番蝶に震えてばかりいたんだ」

 自慢話の好きなイコ。

 いつだって芝居がかった話し方のイコ。

 八番蝶が大嫌いなイコ。

 今、目の前で話しをするイコ。

 全て同じ友達だ。

「彼と一緒に泉へ来た時も、僕は怯えていたんだ。なんと言ってもワイズマンというのが彼だろう? それに、頭の中に響くように聞こえてくる声、正直に言うと、僕は今でも少し怖いんだ」イコは困ったように首を小さく振ると、鼻をひくつかせた。

「前の番人は、イコが逆子だと分かったから、付いてきてくれたんだね?」

 僕の言葉に、イコは困ったように一度だけ喉を鳴らした。

「そうさ。彼は僕が逆子だと初めから知っていた。そして、怯えて耳を塞ぐ僕の代わりに調べてくると言った彼は、そのまま帰っては来なかった」自らをあざ笑うように肩を竦めてイコは言い捨てた。「お笑いじゃないか! 気が付いた時には彼はここを出ていき、マヌケで臆病な僕は彼の代わりにまんまと番人になったんだからね!」

「イコは、ここを出ていきたいの? だから……」僕の友達になったの? と続けようとして、また声が出てこなかった。

「最初の内はね。僕は自分がやられた事を誰かに仕返してやろうと思ったんだ。けど、来る日も来る日も、同じ青い顔をしたヤツらばかりのおもりでうんざりさ。それに、逆子じゃないヤツの後ろからこっそりと付いていった事もあるのだけどね、どうしてだか途中ではぐれてしまう。元居た場所に戻ってしまうんだ。そんな日が永遠のように続いて、楽しみは食べる事と眠る事、仕返しなんて忘れかけていたところで」

「僕が来た……」僕はイコの言葉を遮った。

 それ以上は聞きたくなかった。こういう時に限って、予感は狙ったみたいに正確に当たる。悪い予感ほど当たるんだ。

 いつだって。

 ほんと、嫌になってくる。

 でも、今イコが僕に話したように、イコが僕を利用する為に友達となって、ここまで一緒に来たのなら、おかしな点がある。どう考えたって、こんな話しを僕にするのは変だと思った。

「どうして、その事を今僕に話したんだい? 君を騙した前の番人のように、最後まで黙っていれば、イコはここから出られたのに」

「そうかもしれないね。けどいいんだ。所詮、僕に誰かを騙すなんて出来ないんだよ。善人を気取っているわけじゃない。ビビっているだけさ」

「イコ……」

「さあ、僕の話はここで終わりだ。君はさっさと行くがいいさ。僕はこれでもここでの暮らしに慣れてきたところでね、少しだけだけれど、悪くないって考えていたんだ。だから君は、大人しくここから出ればいいんだ」

 いつもみたいに、身振り手振りで髭を揺らすイコ。

 イコは、自分がやられて嫌だった事を、僕にしないように決めたんだ。この泉に来た時に、イコが何かを決めたような表情を浮かべていたのは、きっとそういう事。

 だから僕は、イコの思いに答えなくちゃいけない。

 僕は頷き、泉に足を入れた。

「決まりましたか?」内から響くワイズマンの声。

 僕はワイズマンの問には答えずに歩を進める。

 イコの思いに応える。それはイコの言った通りに、僕がここを出ていく事だろうか?

 一歩。

 二歩。

 本当にそうだろうか?

 三歩。

 四歩。

「ここを出ていくのなら、泉を進みなさい。生命の泉。トネリコの樹の根元。その先に出口があります。一人だけの出口。進めるのはどちらか一人」

「その前に質問させておくれよ」

 僕はくるぶしまで泉に浸ると、どうしてもワイズマンに確かめたい事があっって、歩く速度を緩めた。

 ワイズマンは答えない。僕はそれを質問しても良いと解釈した。

「ワイズマン、ここを出ていった先には何があるのさ?」

「あなたはあなたになります。そう、逆子のあなたは周囲の者よりも、少しだけ優れているかもしれません」

「優れている? それは僕が欲しいモノなのかな?」泉の水は、くるぶしから脛へ。

「いいえ。他人が欲しいものが優れているという事。あなたが欲しいものは、あなたが決めます」

「僕の目的は出ていく事なの?」泉の水は、脛から膝へ。

「それも、あなたが決める事です」

「それなら、ここを出たら、僕はここの事を覚えているの? イコや、ルルンパや、君の事、覚えていられるのかな?」歩みを止めて、天井を見上げる。トネリコの樹が伸びる、ドーナツ型の天井。

「夢は覚めれば忘れてしまいます」

「そっか……、分かったよ。うん、決めた」僕は振り返り、泉の畔で見送るイコの元へと戻る。

「マナ?」

 引き返した僕の様子を見て、イコは怪訝な表情を浮かべる。

 そんな顔をしないでおくれよ。

 僕は僕自身で決めたんだ。

「やめた。僕は行かない。僕はここに残る」泉からあがると、僕はイコに笑いかけながらそう告げた。

「やめた……だって? 何を言っているんだいマナ? 君が向かう先はもっと奥、トネリコの樹の根本さ。さあ、はやく行きたまえよ」

「嫌だ。いくらイコが言っても無駄だよ。僕はもう決めたんだ。僕はここを出ていかない。ここに残る」

 僕の言葉に、イコはしなやか尻尾を大きく腫らし、鼻息荒く、体中の毛という毛を全て逆立てた。

「何をいっているんだ! やめただって? それは僕に気を使っているのか? 冗談はよしてくれ! 僕はそういう風に施しを受けるのは嫌なんだ! 君は僕になんか気を使わずにさっさと行けば良いんだ!」

「別に気を使ってなんかいないさ。ここを出たらイコやルルンパの事を忘れてしまうのだろう? だったら行きたくなんかないよ。僕はここに残るんだ」

「そんな事が理由で? 分かっているのかい? 僕らは逆子だ、ここを出たら成功が約束されているようなものなんだ。それを捨てて、こんな退屈なところに残るというのか? 馬鹿げている!」

「そんなに言うのなら、イコが行けばいいじゃないか。僕は優れているという事も、イコの言う成功というのも、どちらも興味がないんだ。それよりも、色とりどりの大地や階段を眺めているのも楽しいし、八番蝶を惹きつけて止まない、キラキラ輝く赤い風船をみているのだって良い。階段の数を数えているのだって、最初からずっとやって来たけど、全然飽きなかったよ」

「そんなの……、そんなのすぐに飽きるに決まっているさ! 今はまだ目新しいから楽しんでいられるだけで、何日も、何年も、繰り返される作業の中で、マナだってすぐに飽きてしまうに違いないさ!」

「大丈夫だよ。僕は飽きない。それに飽きたって大丈夫さ。僕には友達がいるからね」

「友達だって? そんなものはいないよ! 一人さ! いいかいマナ? 番人になるというのは、君が考えているほど楽しいものじゃないんだ!」

「そんな事ないよ。僕にはイコがいる。イコとの楽しかった思い出がある。だから平気だよ」

「何を言っているんだ君は……」

「それに、もう会えなくなるわけじゃないしね。ワイズマンも、僕が来た時に言っていただろう? いつになるかは分からないけど、イコだって、またここへ戻ってくるんだ。だから、さようならというわけでもないさ」

「仮にそうだしても、次に僕がここへ来た時、僕がマナを覚えているとは限らない。そんなの、二度と会えないのも同じじゃないか……」

「大丈夫。どんなにイコが僕の事を忘れても、僕は君を覚えている。何日、何十年経ったって、僕はずっと覚えている。イコの名前も、姿も、臆病なところも、見栄っ張りで、ピクルスと八番蝶が大嫌いな、僕の友達さ」

「マナ……」

「だから、僕の事は心配しないで良いから、ちょっと外を見てきなよ。それで、またここへ来た時に、もしその時にイコが僕の名前を忘れていたら、僕が名前を付けてあげる。君が僕にそうしてくれたようにね」

 それ以上、僕らの口から言葉が出る事はなかった。

 イコは暫くの間黙り込み、決心したように僕を見上げた。僕も、その決心に黙って頷いた。

 イコは静かに泉へと足を浸していく。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 さっきとは反対の立場。僕が見送って、イコが進む。

 イコは真っ直ぐと、振り向かないで歩を進めた。僕よりもずっと身体の小さなイコは、あっという間に腰まで浸かり、肩口まで泉に浸かった時、一度だけ振り返った。

 黒曜石のように真っ黒な瞳が、真っ直ぐに僕を見ていた。

 僕も、イコも、何も言わない。

 けれど、何を伝えたかったのかは、はっきりと分かった。


 僕らは約束をした。

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