イコとマナ 1
224段。
それが階段の段数。
ポッカリと空いた穴へ真っ直ぐと、捻れることなく一直線に向かっていく階段。
板チョコみたいにデコボコした板を224回踏みしめて下っていくと、校庭にある100メートルトラックが二つ入りそうなくらい広い場所に出る。広場の真ん中にはさらに下へと続く階段。そして、その頑なに真っ直ぐな階段を224段下りていくと、また同じような広場に足を踏み入れる事になる。
112、113、114。
階段を降りる。下る。僕はこの二十日鼠みたいな運動を繰り返し、通り過ぎた広場は次で十個目。でも今まで通り過ぎてきた所もただ広いだけで何もなかったから、きっと次も何もないのだろうな、なんてぼんやり数えながら歩いている。
115、116、117。
224段おきに訪れる広場に、特別なモノは何もない。だけど、周囲の景色全ての変化が無いわけじゃない。
例えば、最初の周囲の色は黒だった。見渡す限りが真っ暗で、夜中の曇り空の中を歩いている感じ。真っ直ぐに下へ伸びている階段の板チョコみたいな板の色は白。申し訳程度の二本の手摺の色も同じ。そして広場の色は灰色だった。灰色の土、灰色の岩、灰色の草、全部灰色。
二番目の周囲の色は灰色。でも灰色だけではなく、よく見ると白い斑点が規則的に並んでいた。階段の色はピンク。広場はオレンジ。
広場に降り立った時、辺り一面がオレンジだったものだから、目がチカチカして仕方がなかった。あまりに目が疲れるものだから、僕はそこで一度だけ躓いた。オレンジ色の小石が見えなかったんだ。腹が立ったからその小石は蹴っ飛ばしてやったけど、その後小石が何処へ行ったのかは知らない。何かにぶつかった音もしなかったから、遠くへ飛んでいったんだと思う。
三番目の周囲の色はクリーム色。僕はてっきり、次の色はオレンジだと思っていたのに、なんだか騙されたみたいでガッカリした。階段は朱色。広場は青と白の縞模様。
そうやって最初の内は降りる度に変化する周囲の色を楽しむ事が出来た。でも、それも六つ目辺りで飽きてきてしまった。ようするに慣れちゃったんだ。結局、色の変化だけで他は何も変わらない。板チョコみたいにデコボコした階段の板も、階段が224段だというのも、広場が100メートルトラック二つ分だというのも、全部一緒の繰り返し。息をするみたいに退屈な連続。
けれど、不思議と階段の数を数えるのは飽きてこない。板チョコ板を踏む度に必ず鳴る、コツーンという金属音がコーラスみたいに穴の中一杯に広がっていくのも、まるで歌っているようで楽しいからかもしれないし、それに合わせて数を数えていくのを繰り返していく内に、僕の中で一種の義務感が生まれたのかもしれない。
151、152、153。
でもまあ、別に何でも良いか。
一通り考えた後に、何だかどうでも良くなってきてしまった。楽しい事に理由なんていらない。色だけ変わる景色は面白くない。階段の数を数えるのは楽しい。これだけで十分な気がする。
158、159、160。
これまでの流れなら、そろそろ下の広場が見えるはずだ。
周囲は黄色の水玉模様。階段は青。これで広場が赤なら信号機だけど、僕のこの手の期待は当たった試しがない。
161、162、163。
見えてきた。
広場の色は……、茶色?
やっぱりね。
焼きすぎたライ麦パンの表面みたいな濃い茶色の大地を眺めて、僕は思わず溜息をついた。期待はしてなかったけど、それでも心の何処か端っこの方で小さく、未練がましくドキドキしているから、その分だけ肩を落としてしまう結果になる。それに茶色という色も僕の好みと違う。ライ麦パンはあまり好きじゃないんだ。
昔からそう。
昔から?
不意に自分の中に生まれた『昔』という言葉に首を傾げる。昔って、何だろう?
焦げたライ麦パンの色は思い浮かべる事が出来るのに、昔の光景を思い出す事が出来ない。
190、191、192。
別に良いか。
僕ってヤツは、そういう細かい事を気にしないタイプなんだ。難しく考えても仕方ないしね。余計な事だとは思わないけど、考えてすぐに思いつかない事は、しばらく考えても閃いたりしない。そればかりか、どうしてだろうの迷宮に入り込んでしまって、気付いたら別の事に頭を悩ませている事の方がずっと多い。
眼下に広がる茶色い大地に視線を落とす。全てが塗り潰されたような丸い空間。色こそ違うけれど、十回目の見慣れた景色。
— おや? —
見慣れた景色にうんざりしかけた矢先、視界の隅で何かが動いた様な気がした。
その場で足を止め、手摺から身を乗り出すようにして、もう一度注意深く茶色の大地を観察する。
動いた!
真ん中にある階段のすぐ脇、岩のような影を落とした塊が、今確かに動いた。凄い! こんなの初めてだ!
210、212、214。
また動いた! 今度はさっきよりもはっきりと、寝返りを打つように大きく一回転。間違いない。ここには僕以外の誰かがいる!
220、222、224!
最後の一段を踏んだと同時に、僕は足から海へ飛び込むように目一杯蹴り込んだ。
「おーい!」
茶色い大地に足を踏み入れた直後、僕は思わず動いている何かに声を掛けた。返事はなかったけど、代わりに塊は僕の声に反応して小さく震えた。
小走りで近寄る。上から見た時にはよく分からなかった塊は、どうやら茶色い布にくるまっている何かのようだ。
「おーい! さっき僕の声に反応したって事は僕の声は聞こえてるんだろう? だったら返事くらいしておくれよ。それとも、きみは言葉を話す事が出来ないのかい? ねえったら」
思い切って手を伸ばそうとした瞬間、布にくるまれた何かはモゾモゾと動き出した。
「うるさいなあ。そんな大きな声を出さなくても聞こえてるよ」そう言って何かは僕の傍から離れるように、布を引きずりながら距離を取る。「だいたい、何でそんなに元気なのさ?」
「そんなのは知らないよ。それよりさ、その布を取って、きみの姿を僕に見せてくれよ。ここに来るまで誰とも合わなかったから、僕以外の誰かに会えるなんて思ってなかったんだ。ねえ、良かったら名前を聞かせておくれよ。ねえったら」
「やれやれ……」
何かは観念したように溜息をついた。正確には溜息をついた所を見たわけじゃないのだけど、声の感じと、上下する布の動きから、きっと溜息をついたのだと思う。
布にくるまっていた何かは、もう一度モゾモゾと大きく動くと、その身に纏っている茶色い布を、同じ色をした大地へ無造作に落として立ち上がった。
目の前に姿を現した何かは毛むくじゃらだった。