第四話 筋肉は時間を超越する
レオンを強制送還し、一晩の休息を終えた翌朝。
聖女リリスは、教会の備品を詰め込んだ巨大なバックパックを背負い、鼻息も荒く俺の前に立った。
「さあ、那由多様! 次の集落までは徒歩で三日。食料、水、予備の衣類、それに魔導ポーション……準備は完璧です!」
「……重そうだ。そんなもの背負って歩けるのか?」
「聖女の意地を見せます! さあ、那由多様も支度を!」
俺は、足元の岩を指先で弾き飛ばしながら、ゆっくりと首を振った。
「支度などいらん。俺の体こそが、完成された唯一の装備だ」
「えっ、でも……着替えとか、武器とか……せめて上着くらいは着ませんか!?」
「筋肉に布を被せるのは、彫刻に泥を塗るのと同じだ。通気性が悪くなれば体温調節が乱れる。……行くぞ」
結局、俺は腰布一枚と、プロテイン代わりの干し肉を詰めた小さな袋だけを手に歩き出した。
隣で「せめて……せめて前を隠す以外の何かを……!」とリリスが嘆いているが、目的地への最短距離を歩む歩幅に迷いはない。
街道を歩き始めて数時間。
のどかな田園風景が広がる一本道で、不自然な「違和感」が空気を支配した。
「おっ。思わぬ収穫じゃん。こんなド田舎に、とびきり上質な聖女様が歩いてるなんてさ」
道端の木陰から、一人の男がひょっこりと姿を現した。
仕立ての良いシルクのシャツに、指にはこれ見よがしな金指輪。そして左腕には、この世界の技術では到底作れないであろう、歯車が複雑に噛み合う『巨大な機械仕掛けの時計』が装着されていた。
「あ……あの紋章。彼も、転生者……!」
「へぇ、俺のこと知ってるんだ? 光栄だねぇ。だったら話は早い。そのボロい服脱いで、俺様のハーレム要員に入りなよ。隣の裸の変質者は、目障りだから消えてもらうけど」
男が左腕の時計に手をかける。
カチ、カチ、と秒針が刻む音が、物理的な衝撃となって周囲に響き渡る。
「那由多様、気をつけてください! その転生者の能力は時間停──」
「遅いよ。……『ザ・ワールド・クロック』」
カチリ。
最後の一音が鳴り響いた瞬間。
吹き抜けていた風が止まった。
舞い上がった木の葉が空中で静止し、リリスの叫び声が、言葉になる前に大気に固定される。
世界から一切の色が失われ、モノクロームの静寂が支配する「停止した世界」へと変貌した。
***
「ひゃっはー! 決まったぜ!」
俺は、完全に固まった二人に向かって、指を鳴らした。
あーあ、可哀想に。聖女ちゃんは口を開けたままマヌケな顔で止まってるし、隣の筋肉ダルマに至っては、一歩踏み出した姿勢のまま彫像みたいになってやがる。
「結局さ、筋肉だの力だの言ったって、『時間』の前じゃ無力なんだよねぇ」
俺はこの『時間停止』の権能を手に入れてから、負けたことがない。
相手がどれだけ強くても、時を止めて首をはねれば終わり。気に入った女がいれば、時を止めてお持ち帰りすればいい。まさに神の遊びだ。
「さてと。まずはこの筋肉バカをどう料理してやろうかな?」
俺はニヤニヤしながら、動かない那由多と呼ばれた男の周りをぐるぐると歩き回った。
間近で見ると、本当にムカつく体つきだ。この浮き出た血管、丸太みたいな腕。
「おいおい、そんなに踏ん張って、時が止まってるのに動こうとしてるのか? 無駄無駄。お前の脳からの信号も、筋肉の収縮も、全部この俺が止めてるんだからさぁ……」
俺は挑発的に、那由多の分厚い大胸筋を指先でツンツンと突いた。
「あれ……? なんだこれ、硬っ……。岩っていうか、鉄板かよ。まぁ、止まってりゃただの肉の塊だけどな!」
腰に帯びた、選ばれし勇者のみが扱えるという「聖剣」を抜き放つ。
「……終わりだ、化け物」
黄金の輝きが停滞した空気を切り裂く。
──カァァァンッ!
静寂の世界に、あり得ない音が響いた。
手応えは、肉を断つ感触ではない。まるで世界の理そのものを叩いたかのような、絶対的な拒絶。
俺は目を疑った。
「な……っ!?」
次の瞬間、伝説の金属で作られたはずの聖剣が、まるで安物のガラス細工のように粉々に砕け散った。塵は頬をかすめ、破片は地面に突き刺さる。
その衝撃に合わせるかのように、白黒の世界に色が戻り、止まっていた風が吹き抜けた。
***
俺は目の前で呆然と立ち尽くす男を、冷ややかな、あまりにも冷ややかな目で見下ろした。
首を左右にパキパキと鳴らし、凝り固まった時間をほぐすように肩を回す。
「お前……今、何かしたか?」
その声は低く、地這うような威圧感を伴っていた。男の喉が鳴る。手に残ったのは、無残に砕け散った聖剣の柄だけだ。
「ひ、ひぃっ……! な、なんで……聖剣が……そんな、馬鹿なっ!」
腰を抜かし、尻餅をつきながら後ずさりするサトシ。その顔は恐怖で歪み、先ほどまでの傲慢さは微塵も残っていない。
俺は一歩、また一歩とゆっくり歩を進める。その足音が、男にとっては死神のカウントダウンに聞こえた。
「その様子じゃ、自慢の『時間停止』も不発に終わったようだな」
俺は男の目の前で立ち止まり、ゴミを見るような視線を投げかけた。
「自分の能力に甘え、研鑽を怠った罰だ。……無敵だと思い上がっていたその根性に、たっぷりとお灸を据えてやろう」
「待っ、待ってくれ! 助け──」
悲痛な叫びは、振り上げた拳の風圧にかき消された。
制裁の刻。
逃げ場のない蹂躙が始まった。
俺の動きは、もはや時間停止など必要ないほどに速く、それでいて重い。
一撃が腹部を捉えるたびに、男の口から酸素と、そしてこれまで積み上げてきた根拠のない自信が吐き出されていく。
「これが、お前が軽んじた『積み重ねた者』の拳だ」
逃げようと這いつくばる背中に、容赦ないがアッパーが見舞われる。
魔法も、聖剣も、奇跡も。
この圧倒的な現実の前では、何の意味も持たなかった。
「……あ、が……っ」
地面に転がる男を見下ろし、俺は冷徹に拳を握り直す。
制裁は、まだ始まったばかりだった




