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第一話 筋肉は裏切らない

 世の中には、裏切るものが多すぎる。

 金は価値を変え、言葉は嘘を孕み、人は容易に心変わりをする。


 だが、この二の腕に宿る上腕二頭筋はどうだ。俺が負荷を与えた分だけ肥大し、俺が愛した分だけ硬度を増す。

 汗は嘘をつかない。乳酸は裏切らない。

 だから俺は、この山に籠もって『真理』と向き合うことに決めた。


 まずは、朝のウォーミングアップだ。

 目の前には、樹齢数百年はあろうかという巨大な杉の木。その幹は、大の大人が三人で囲んでも足りないほどに太い。

 俺は腰を落とし、呼吸を整える。

 意識を右手の外側に集中させ、体中の細胞を一点に呼び集める。


「ふんっ!」


 一閃。手刀を横一文字に振り抜いた。

 衝撃波が空気を震わせ、ズガガガッ、と鈍い音が山々に響き渡る。

 次の瞬間、巨木は自重に耐えきれず、まるで包丁で両断された大根のように鮮やかな断面を見せて倒れ伏した。

 

 ……いい。昨日の俺より、コンマ数秒、食い込みが深かった。


「次は肩だ」


 俺は倒れた杉など目もくれず、背後にある巨岩へと向き直る。

 高さ三メートルはある花崗岩。これを『破壊』するのではなく、『粉砕』するのが今日のノルマだ。

 突きを放つ直前、全身の筋肉を弛緩させる。そしてインパクトの瞬間、全ての筋線維を一気に収縮。


「──っ、ぬんッ!!」


 正拳突きが岩の芯を捉える。

 破裂音と共に、巨岩は内側から弾け飛んだ。小石となった岩の破片がパラパラと俺の肩を叩くが、産毛ほども痛くない。


 硬いものよりも硬く、強いものよりも強く。

 その境地へ至るための道は、まだ始まったばかりだ。

 昼。太陽が真上に昇る頃、俺は冷気漂う滝壺にいた。

 標高二千メートルから垂直に落下する水の暴力。その水圧は、常人なら一分と持たずに頸椎を砕かれる代物だ。

 俺はその真下で胡坐をかき、ただ静かに眼を閉じる。


 冷たいのではない。これは『外部刺激』だ。

 重いのではない。これは『ウェイト』だ。

 

 一時間。二時間。三時間。

 肌が赤黒く変色し、血管が浮き出る。思考から雑念が消え、心臓の鼓動だけが太鼓のように脳内に響く。

 世界が静止する。激流の音が消え、筋肉と魂が対話を開始する。

 

 もっと重さをくれ……俺を、もっと強くしてくれ……。


 数時間の滝行を終え、俺はゆっくりと立ち上がった。

 全身から湯気が立ち昇る。体内の熱量は、氷点下の水にさえ負けていない。


「……そろそろ、プロテインの時間か」


 ちょうどいいところに、俺を狙っていたらしいツキノワグマが藪から現れた。

 体長二メートルを超える猛獣。だが、俺の目には「歩く良質なタンパク質の塊」にしか見えない。

 

 熊が唸り声を上げ、鋭い爪を振り下ろす。

 俺はその爪を左の前腕で受け止める。鋼鉄の棒に当たったような音がして、熊の顔が困惑に歪んだ。


 悪いな。俺の「前腕伸筋群」は、刃物を通さないんだ。


「感謝して頂く」


 右ストレートを一発。

 脳を揺らし、苦痛を感じさせる暇もなく絶命させる。これが、武道を極めんとする者としての礼儀だ。

 俺は倒れた熊の足を掴み、ズルズルと引きずりながら家代わりの洞窟へと向かった。


 今日の晩飯は熊鍋だ。脂身は削ぎ落とし、赤身を中心に摂取しよう。明日へのバルクアップのために。

 そう考えていた、その時だった。


「ん……?」


 足元が、妙に眩しい。

 見れば、地面に幾何学的な模様の光が浮かび上がっていた。

 幻想的で、どこか不気味な光の環。


「新手の発光キノコか? いや、これは──」


 考察する間もなかった。

 光は一気に膨れ上がり、俺の視界を真っ白に染め上げる。

 凄まじい浮遊感。全身の細胞がざわつく、未知の感覚。

 だが俺は焦らなかった。どんな状況だろうと、重心を落とし、大臀筋と内転筋に力を込めれば、体幹はブレない。


 数秒後。


 鼻を突いたのは、山の湿った土の匂いではなく、古びた石と、微かな香水の甘い匂いだった。


「……ここは、どこだ?」


 目を開ける。

 そこは、石造りのドーム状の建物だった。

 ステンドグラスから差し込む色彩豊かな光。整然と並べられた木製の長椅子。

 どうやら、どこかの古い教会らしい。


「成功……したの? 召喚に……」


 か細い声が聞こえ、俺は視線を下げた。

 目の前には、白い法衣のようなものを纏った女が膝をついていた。

 金色の髪に、透き通るような瞳。どこか浮世離れした美しさを湛えているが、その表情は絶望に染まっている。

 女は俺を見上げ──その瞬間、固まった。


「え……?」


 無理もない。

 神聖な儀式の果てに現れたのが上半身裸で、返り血を浴びた筋骨隆々の巨漢。

 おまけにその巨漢は、今しがた仕留めたばかりの巨大な熊の死骸を、片手でひょいと引きずっているのだ。


「あ、あの……あなたは、もしや伝説の……」

「質問は後だ。俺は今、急いでる」


 俺は女の言葉を遮り、ぴくりと右腕の筋肉を震わせた。


「タンパク質が、枯渇し始めてるんだ。三十分以内に補給しないと、カタボリックが始まってしまう」


 異世界だか何だか知らないが、俺の筋肥大のチャンスは、一刻を争うんだ。

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