プロローグ
我々が暮らす現実世界とは異なるもう一つの世界『アナザーワールド』は、かつて、魔王によって支配されていた。
空は暗雲に閉ざされ、大地は魔獣の咆哮に震え、人々はただ怯えて暮らすのみ。希望などという言葉は、辞書から消え去って久しい暗黒時代。
だが、天界で見守る神々は、この愛すべき世界の終焉を黙って見ていたわけではなかった。
神々は決断した。
この世界の理を超えた存在を、異世界から呼び寄せることを。
召喚されたのは、平和な現代日本に暮らす若者たちだ。
神々は彼らに『権能』という名のチート能力を授けた。
ある者には、万物を切り裂く聖剣を。
ある者には、時間を自在に操る神の瞳を。
ある者には、無限に魔力が湧き出る魔導の体躯を。
その数は幾百名にも及んだ。
異世界から現れた「転生者の軍勢」は、凄まじい勢いで魔王軍を圧倒した。
現地の人々が数百年かけても傷一つ負わせられなかった魔王の城は、わずか数ヶ月で陥落。最後の一撃が放たれ、魔王の魂が消滅したとき、世界中の人々が涙を流して歓喜した。
誰もが信じていた。これで、平和が訪れるのだと。
神々も満足げに頷き、勇者たちに告げた。
『救世主たちよ、見事であった。約束通り、お前たちを元の世界へ帰そう。現世での平穏な暮らしが、お前たちを待っている』
しかし──。
勇者たちのリーダー格であった男が、鼻で笑ってこう言い放った。
「帰る? 誰が、あんなクソみたいな毎日に戻るかよ」
神々は耳を疑った。
彼らがいた元の世界は、過酷な労働や学歴社会、退屈な日常に縛られた窮屈な場所。
対してこの世界はどうだ?
自分たちは神にも等しい『権能』を持ち、誰も逆らえない圧倒的な力を手にしている。
ここでは、望めば何でも手に入る。金も、食料も、そして美しい女たちも。
「俺たちはこの世界に残る。この力があれば、俺たちが新しい『神』になれるんだからな」
それは、最悪の裏切りだった。
転生者たちは、神が用意した帰還の魔法陣を、自らのチート能力で破壊した。
魔王を倒した英雄たちは、その瞬間から、魔王よりも質の悪い『侵略者』へと成り果てたのである。
それから数年。
アナザーワールドは、かつての魔王時代よりも悲惨な状況に陥っていた。
ある転生者は、気に入った街を自分の「コレクション」にするために結界に閉じ込め、住民を奴隷として働かせた。
ある転生者は、罪のない村人たちをモンスターの巣穴に放り込み、経験値を稼ぐための「餌」にした。
ある転生者は、自分のハーレムを作るために、各国の王女や聖女を洗脳の権能で拉致していった。
彼らは神から授かった力を「正義」のためではなく、肥大化した「自己顕示欲」と「欲望」を満たすために振るった。
もはや現地の人々にとって、転生者は救世主などではない。
いつどこから現れて、気まぐれに命を奪っていくか分からない、歩く天災そのものだった。
***
「ああ……神よ、どうかお助けください……」
アナザーワールドの聖域、村の小さな神殿。
若き聖女リリス・ジャッジメントは、祭壇の前で血を吐くような祈りを捧げていた。
彼女の目から流れる涙は、枯れ果てることを知らない。
かつて自分が召喚に立ち会った勇者たちが、今は自分の国を滅ぼそうと、すぐ近くまで迫っている。
「私たちのミスです。異世界の力に頼り、力に溺れる者の本性を見抜けなかった……!」
天界の神々もまた、己の過ちを悔いていた。
だが、一度与えてしまった権能を、神が直接剥奪することはできない。
毒を制するには、毒を。
理不尽を叩き潰すには、それ以上の理不尽を。
だが、これ以上の「チート」を与えれば、また同じ悲劇が繰り返されるだけだ。
ならば──
神々は最後の方策に出た。
能力など必要ない。
魔法など必要ない。
神の加護など、欠片もいらない。
ただ、ひたすらに「個」として完成された、純粋な生物学的強者。
文明の利器にも、神の奇跡にも頼らず、ただ自らの身一つで「最強」という概念を体現する、ある種の『異端』を呼び寄せることに決めたのだ。
リリスの前に、再び召喚の魔法陣が展開される。
これまで見たこともないほどに巨大で、荒々しい光。
「来て……どうか、この狂った世界を止めてくれる、真の英雄よ……!」
閃光が弾けた。
爆音と共に、神殿の床が、その凄まじい重量によってひび割れる。
立ち込める白い煙の中から現れたのは、これまでの勇者たちのような美少年ではなかった。
そこにいたのは、上半身裸。
岩のように隆起した大胸筋、鋼のように硬く引き締まった腹筋、そして丸太のような太い腕。
噴き出す汗は蒸気となって立ち昇り、その男がただ立っているだけで、周囲の空気がビリビリと震えている。
男は、突然の状況に戸惑う様子もなく、ゆっくりと自分の拳を握りしめた。
ミシミシ、と骨が鳴る。
「……なんだ、ここは」




