沈む家、浮かぶ名
影に指示を出した夜から数日。
クロリス伯爵家の内部では、誰にも気づかれないままじわじわと“歯車の狂い”が進み始めていた。
綿と絹が王都の流行をさらい、商会は品薄のまま大成功。
一方で、麻布一本で勝負していた伯爵アレスは、急速に売上が落ち込み、焦りを隠せなくなったらしい。
影の報告書をめくりながら、俺は静かに微笑んだ。
「……案の定だな」
伯爵はすでに資金繰りに困り、いくつかの商会に借入れを申し出たという。
もちろん、うちの商会にもだ。
“偶然”を装って、最も良い条件――いや、最も“飲みやすい毒”を示してやった。
高利だが、最初は気づかない。
追い詰められた人間は、助けてくれる手を見たら飛びつくものだ。
影が跪き、報告を追加する。
「レオ様。伯爵は我らの提示した借入れを正式に承認しました。返済の目処は……立っておりません」
「すぐには返せまい。わかっていたことだ」
報告書を閉じ、椅子にもたれる。
燭台の光が揺れ、机に置かれたフローラの姿絵を照らした。
綺麗だ。
あまりにも綺麗で、伯爵家の汚れた事情に触れさせるのも腹立たしい。
彼女の人生は、もっと柔らかく、美しい色で満たされるべきだ。
(ああ、そうだな……)
伯爵が返済不能に陥れば、借りた側が差し出すものは限られている。
屋敷、土地、使用人――そして。
「……娘を担保に、か」
声に出すと、胸の奥で小さな焔が灯ったように温かくなる。
影がわずかに身じろぎする。
「レオ様……まさか、本気で……?」
「当然だろう。フローラが伯爵家にいれば、また傷つけられる。あの家の屋根裏部屋に閉じ込められるなど、あってはならん」
姿絵を指先でなぞる。
彼女を守る。
泣かせた世界ごと変える。
そのために必要な手段は、すべて講じる。
「伯爵が返せなくなったら……フローラはうちが預かる。法的にも、社会的にも、だ」
影が息を飲む。
「……嫁確保、でございますか」
「嫁“にする”のではない。守るために……“迎え入れる”だけだ」
言葉にすると、予想以上に甘く胸が熱くなる。
彼女がこの家に来て、朝陽の差す部屋で笑ってくれる姿が、一瞬だけ鮮やかに浮かんだ。
フローラの未来を救うためなら――
世界を少し壊すくらい、なんてことはない。
俺はただ、彼女が幸せになる場所へ導くだけだ。
その先に、俺がいるかどうかは……運命が決めることだ。
もっとも、決めさせるつもりはないが。




