涙の令嬢と始まりの夜
回廊に反響した自分の足音を誤魔化すように、俺はそっと息を潜めた。だが、あの深緑の瞳は確かにこちらを捉え、逃げ道はもうなかった。
燭台の灯りが揺れ、涙で濡れた彼女の頬をきらりと照らす。泣いているのに、どうしてこんなに綺麗なんだろう。心臓が痛い。いや、これは単なる鼓動の暴走か。初恋というものは案外、物理的に殴ってくるものらしい。
「……あの、大丈夫か?」
声をかけた瞬間、自分でも驚くほど柔らかい口調が出た。普段の俺はもっと淡々としている。親友ディンに聞かれたら腹を抱えて笑われるだろう。
令嬢は涙を拭いながら、小さく会釈をした。
「お見苦しいところを……お見せしてしまって……」
震える指先。握りしめたレースのハンカチ。
胸の奥がまた、ぐっと熱くなる。
どいつだ。
この子を泣かせた男は、どこの家の愚か者だ。
「気にするな。悪いのは、君を泣かせた相手だろう」
「……っ、はい……」
涙を堪えるように頷く彼女を見ていると、不意に回廊を吹き抜けた夜風が、彼女の髪先を揺らした。わずかに甘い花の香りがした。
この世界に、こんな色を持つ瞳があっただろうか。深い森の底みたいで、光を受けると宝石めいて――その奥で揺れる傷ついた心ごと、抱きしめたくなる。
いや、抱きしめたら通報されるな。
さすがに初対面でそれはまずい。うん、理性は残っている。
「……名前を、聞いても?」
小さく問いかけると、彼女はぱちりと瞬いたあと、微かに微笑んだ。
「フローラ・クロリスと申します」
フローラ。
ああ、もう駄目だ。完全に落ちた。
胸の内で花が咲くような名前だ。
こんな奇跡みたいな令嬢を泣かせた奴、絶対ゆるさん。
「レオだ。レオ・ハウゼン」
名乗ると、フローラはほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
自分が誰かの支えになれた気がして、妙に嬉しい。単純か? いや、恋に落ちた男なんてだいたいこんなものだ。
……さて。
フローラを泣かせたあの男と、薄ら笑いを浮かべていた妹。
俺は静かに空を見上げた。夜会の外、星がひとつ瞬いている。
守るためなら、なんだってする。
全力で“ざまぁ”を見せてやろう。
フローラの涙一滴すら、二度と落とさせないために。
この夜、俺の執着は、そっと芽を出した。




