第2話 廊下にて
引っ越してから数日、彼は穴越しに夜を過ごすことに慣れ始めていた。
あの視線、あの声——「そこにいるんでしょう?」という囁きが、まだ耳に残っている。
偶然か、意図的か……確かめたい衝動が募っていった。
そしてある朝。
ごみ出しのために玄関を開けた彼は、隣の扉が同じタイミングで開くのを見た。
——彼女だ。
薄いパジャマの上からカーディガンを羽織っただけの、寝起きの姿。
だがその無防備さは、かえって彼の心臓を強く叩かせる。
一瞬、穴越しに見た夜の残像がよみがえった。
髪を梳く姿、背中のライン、そしてあの意味深な笑み。
「……お隣さんですか?」
彼女が先に声をかけた。
微笑みを浮かべているが、その瞳はどこか探るように、じっと彼を見ている。
「え、あ、はい。昨日引っ越してきて……」
自分でも驚くほど、声が上ずっていた。
「ふふっ。やっぱりね」
彼女は小さく笑う。その笑みに、彼は言い知れぬ寒気と甘い期待を同時に覚えた。
まるで——「あなたが覗いていたことを知っている」と、暗に告げているかのように。
ごみ袋を持ったままの、ありふれた朝の光景。
だがそこには、夜の穴越しに交わした視線よりも濃い緊張が漂っていた。