円環 ~勇者の光と影~
古い城の、冷気漂う広間の奥には、王座がある。
そこに座る黒ずくめの男は、その地に住む人々からは、魔王と呼ばれていた。
魔王の憎悪は、目に見える瘴気となって、彼の周囲を澱ませる。
暗闇に浮かぶのは、遠見の円環。
玉座の前に浮かんだその環は、遙か遠くの情景を彼に見せてくれた。
水面のように小さなさざ波を立てたあと、円環は残虐な画像を映し出す。
魔物たちによる、一方的で、熾烈な戦いだ。
魔の城から漂い出た瘴気が、自然界の動物たちに染み込み、体を歪め、人を襲う凶悪な魔物へと変えた。
ゲジゲジに似た巨大な生き物が地を這い、無数の脚音を響かせながら、村々を踏み潰した。
大きな毒針を持つ手のひら大の殺人蜂が、頭上から人々を襲い、痺れたまま動けぬ者を群れで食い荒らす。
蛇と鳥を合体させたような獣が、逃げ惑う者を空へと攫った。
夥しい数の魔物たちが村を襲い、人に牙を剥き、惨殺する様子を、食い入るように見ながら、魔王は愉悦ともつかない歪んだ表情を浮かべた。
人が憎い。
その感情は、何年経とうと何百年経とうと、消えることはなかった。
両腕が無意識に、何も無い空間を抱く。
膝の上に乗る、小さな、子どもくらいの空間を。
ふと見下ろし、そこに何もないことを思い出し、ハラハラと涙が落ちかける。
魔王は歯を食いしばり、全ての感情を抑え込む、それが瘴気へと変わる。
その繰り返しだった。
瘴気から生まれた異形の怪物たちは、魔王の意思に従い、時に都市をも壊滅させた。
しかし、人はしぶとい。殺しても殺しても、ゴキブリのような生命力で繁殖し、数を増やす。
力を使い果たし、何十年か眠ることもあった。
魔王はかつて人であった頃の、幸せな夢を甘受する。
そして目が覚めると、人への憎しみはいや増した。
魔の城は、魔物を人の世に生み出し続けた。
ある時、辺境の村に勇者が生まれた。
腕の立つ騎士、治癒魔術師、魔法使いを連れて、魔の城に迫る。
城を幾重にも取り囲んだ、眷属の防御壁を難なく突破する様子に、魔王は自らの最期を悟った。
永い時を経て、とうに力尽きている魔王の身体は、勇者の一振りに斃された。
『輪は閉じた……』
憐れみの目で魔王は勇者を見返し、一条の黒い霧となり、消えていった。
勇者はその功績により、魔の城周辺の領地を与えられた。
魔王を倒すほどの力を持ち、国民の人気を博した彼を、国王は恐れた。
荒れ果てた地を『報償』としたのは、権力者としての増長を抑えるためだったが、村育ちの勇者はそれに気づかない。
その地の領主として復興に尽力すると、荒れ果てた地は緑豊かになり、豊穣をもたらすようになった。
勇者は真面目で努力家の妻を娶り、子を授かり、村人たちと共に穏やかな暮らしを始めた。魔王の残した傷跡は徐々に癒え、数年後には、激しい戦いも遠い伝説として語られるようになった。
だが、王国の中枢にいる者たちは、勇者の存在を脅威とみなしていた。
「魔王を倒した者が、今や人心を掌握している。いずれ王位を狙うだろう」
そう囁く者たちの声は日ごとに大きくなり、ついに王は、勇者を排除することに決めた。
折しも、北の地に異国の民が襲来し、その平定に苦労しているところでもあった。
「今一度、勇者の力を借りたい。どうか、他国の侵略を食い止めてはくれないだろうか」
領地を与えられたという恩もあり、勇者は国王の依頼を快く引き受けた。
心配する家族に見送られながら、勇者は北の地へ向かった。
勇者の留守を預かる妻は、領主の代理としてよく働いた。
教育に力を入れ、困窮する者に力を貸し、水害の話を聞けば、識者の意見を取り入れて改良に努めた。
害獣が出ると、退治のために、館を守る騎士達を差し向けた。
出費は嵩み、守りは薄くなるが、領民のためにと、彼女は我が身を後回しにした。
家臣の進言に従い、税率を上げたために不満は出たが、領地を良くするには仕方がないことだ。
勇者の妻は根気良く、領民にそう説明して回る。
納得する者もいたが、ほとんどの者は良い顔をしなかった。
妻は夜ごと遠い北の地に向かって、祈った。
愛する夫が、無事に帰ってきてくれますようにと。
この機を捉え、王の命により差し向けられた者達が、領民にあらぬ噂をばらまく。
豊かになった領地から得た税を、領主一家が自分たちの贅沢な生活に使っている。
勇者が領地の復興に尽力したのは、その金が目的だったのだと。
贅沢に溺れた勇者家族は、さらに税を引き上げ、より豪奢な生活を望んでいる──
ある夜、その噂に踊らされた暴徒が領主の館を襲い、何の罪もない妻と幼い子をむごたらしく殺した。
燃え上がる館の炎を指さし、高笑いする暴徒たちを止めようとする者もいた。しかし、領民たちのほとんどが最初から最後まで、ただ見ているだけだった。
遠征から帰ってきた勇者は、崩れ落ちた館の残骸から妻子の骸を探し、声にならぬ咆哮を上げる。
ようやく見つけた小さな骨は、彼の手の中で砕けた。
すべてを失い、すべてを悟った勇者はその夜、ひとり、魔の城へと向かった。
城は朽ち果てた外観でありながら、内部には何かが息づいているかのように、厳かな佇まいが保たれていた。
その奥、玉座へと向かう勇者の耳に、声が響く。
『……来たのか』
一条の黒い霧が、うっすらと玉座前に浮かび上がる。
魔王が最期に、この世に留めた瘴気だ。
暗い目で見つめた勇者は、粉々になった骨を握り締めた。
彼は淀みなく歩を進め、自らを瘴気に晒す。
髪と瞳、服が、かつての魔王と同じ、黒へと変異していった。
玉座が勇者を迎え入れる。
愛する者を奪われ、正義を踏みにじられた男の憎しみが、新たな瘴気を生み出していく。
濃密な闇が城に満ちた。
瘴気に染められ、変異した異形の者たちが、領民を喰らう。
一匹の鳥が、鉤爪を持つ怪物に姿を変え、人を空に攫って啄んだ。
小さなムカデが、家よりも大きい毒虫となり、田畑を踏み付け、水を汚し、家畜を襲った。
豊かだった領地は荒れ果て、作物が穫れなくなり、人々は餓死した。
玉座の前に浮かんだ遠見の円環が、遙か遠くの情景を映し出す。
勇者は食い入るように人々の死を見つめ、かつての魔王と同じに、泣きながら笑ったような、歪んだ表情を浮かべた。
勇者の仲間だった騎士、治癒魔術師、魔法使いも、国王に裏切られ、家族を失っていた。
三人は引き寄せられるように城に流れ着き、彼の眷属になった。
最強だった騎士は、何者にも打ち倒せない悪魔騎士となり、魔の城に向かって来る王の軍勢を蹴散らす。
治癒魔術師は死者を蘇らせて、兵士たちを襲わせた。
最強の呪術師となった魔法使いは、高笑いをしながら逃げ惑う人々に火の玉を降らせ、燃やした。
新たな勇者を名乗る若者たちが、正義の名の下に魔の城に迫るが、眷属の者たちに阻まれて、儚く倒れた。
勇者はふと、自分の腕を見下ろす。
かつてそこに抱いていたはずの、愛しい者たちを想い、彼は涙を零した。
深い感情に揺さぶられ、消えることのない憎しみが止めどなく生まれる。
一つ、また一つと、村が、都市が滅んでいく。
瘴気は広がり続け、ついに国を滅ぼした。
古い城の、冷気漂う広間の奥には、王座がある。
そこに座る黒ずくめの男は、その地に住む人々からは、魔王と呼ばれていた──
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