#最終話 くちづけ
「さぁ、もうすぐ、美観地区に着きます。忘れもんせんようお気をつけ下さい、ワタナベさん」
僕は、後部座席に置いたハズのトメばぁの駄菓子屋で買った駄菓子を探した。
「ヒイラギさん、愛宕神社に行く前に、駄菓子を買ったんだけど…後ろのシートに無いんだが…」
「はぁ…、ワタナベさん駄菓子もっとったじゃろうか?記憶に無いですなぁ」
「おかしいな…当てくじ、とか、箱で買ったんだけど…」
「そういや、ワタナベさん。あの駄菓子屋、トメばぁがもう何年も前に亡くなって、最近はずっと営業しとらんかったんですよ。誰が店を開けよったんじゃろか…」
僕は、買ったはずの駄菓子や当てくじを探すのをやめた。
大通りを折れて美観地区の入り口に近づいた。
僕は、窓を少し開け空気を車内に入れた。
ほのかに香るのは、倉敷川沿いの柳の香りだろうか。
「今日は旅館くらしきの前まで行けますけぇ」
そう言うと、ヒイラギさんは、白壁の蔵屋敷に囲まれた倉敷川の畔にゆっくり車を進め、タクシーのメーターを下ろした。
料金は7880円と表示されている。
「ワタナベさん、倉敷は、ええところですけぇ、またゆっくり来て下さい。今度は、良い思い出や、大切な思い出も思い出しに来て下さい」
旅館くらしきを倉敷川を挟んで斜向かいに望む、民芸館の前でタクシーは止まった。
「ヒイラギさん、今日は、色々有り難う。お釣りは…少ないけど餞別としてとっといてくれ」
そう言い、僕は、一万円を差し出した。
「いや、それは誠に…」
一瞬、間をおいてから、ヒイラギさんは、深々とおじぎをしながら、両手で一万円札を受けとった。
後部座席のドアが開き、ゆっくり車外に降り立った。
美観地区は、夕暮れ時を迎え、民芸品店の灯りが倉敷川の川面に反射していた。
重厚な石組の橋の中央に立ち、辺りを見渡した。
白壁造りの観光案内所の脇に、6~8畳程の小さく奥まったスペースがある。
突き当たりには、若いカップルが座っていた。
一人は、倉敷を離れる直前に付き合っていたケイだ。
うつむくケイの左手を、隣に座る『僕』が握った。
ケイが、少し辺りを窺う素振りを見せた後、隣に座る『僕』の瞳を見つめた。
『僕』は、ケイの左あごに軽く手を当てた。
ケイが瞳を閉じ『僕』が顔を寄せてゆく。
僕は、橋の中央に立って二人を見つめ、目を閉じた。
生まれて初めて、大好きな女性の唇に触れた瞬間だった。
僕は、すっかり忘れていた大切な、大切な場所を思い出したのだ。
僕がゆっくり瞳を開けると、二人の姿が消え、観光客が行き交っていた。
その瞬間、故郷の苦い思い出も、素敵な思い出も、僕を優しく包んでくれたような気がした。
僕は、ホッと一息つき、倉敷駅に向かって歩き出し、今度は、このふるさとに、家族と来よう、そう思った。
~~(完)~~