#7 愛宕神社
「エリ…」
僕は、愛宕神社の社へと続く石段の上がり口にあるベンチに座り込み、お腹を押さえている少女に声をかけた。
虚ろな表情をしたエリがこちらに一瞬目配せした後、また、足下を見つめた。
(早く上がって来いよ)
遠くから男の声ががした。
エリが顔を上げ、愛宕神社の社がある上方を恨めしげに見上げた。
その顔は、苦痛で歪んでいる。
そうだ。
僕は、中学二年生のとき、エリと付き合い始め、学校帰りに何度かこの愛宕神社にやって来たんだ。
あの声は…、そう、僕の声だ。
(早く来いよ)
また、声がした。
エリはお腹を押さえている。
多分、月のモノが来ているのだろう。
覚えている。
愛宕神社に二人で遊びに来た僕は、なかなか石段を上がって来ないエリを責めてケンカになり、それがきっかけで別れることになったんだ。
当時は、彼女がそんな状況にあることに思い至ることができなかったんだ。
「お腹、痛いのか?アイツは分かってないよ。俺が言って来てやる」
僕は、エリにそう告げると石段へと向かった。
「ヤメテよ。何なのよ、オジサン…」
僕は、エリの静止を聞かずに、石段を二段跳びに上がり始めた。
(なんてヤツだ、エリがこんな状況なのに、優しい言葉の一つもかけられないなんて…)
僕は、おそらく、愛宕神社の境内でエリを待つ『僕』にそう伝えねばならなかった。
ハァハァ息を切らしながら、石段を上がり切ると、懐かしい愛宕神社が現れた。
広く見積もっても僅か十畳程の広さしかない小さな社が静かに佇んでいた。
社の脇にはピンクと青紫の紫陽花が咲き誇っていた。
だが、小さな境内には、人の気配がなかった。
「おーい、ワタナベ。いないのかぁ?」
僕は、声をあげた後、頭を掻いた。
俺が俺を呼んでいる。おかしな話だ。
僕は、後ろを振り返り、眼下に広がる倉敷平野を見渡した。
エリと何度も眺めた懐かしい景色だが、エリを気遣ってやれず、別れることになった苦い思い出の風景でもある。
僕は、賽銭箱の前に腰をおろし、深いため息をついた。
なんて帰郷なんだろうか。
(ワタナベさーん)
下の方から、僕を呼ぶ声がした。
「はーい」
腕時計に目をやると、もうすぐ、18:00になろうとしていた。
僕は、18:30には、倉敷を発たねばならず、そのために18:15に美観地区に着くようタクシードライバーのヒイラギさんに頼んでいたのだ。
そのタクシーを下に待たせたままだった。
(いけねぇ)
「今行きまーす」
僕は、大きな返事をして、立ち上がり、もう一度、倉敷平野を見渡した。
僕が急ぎ足で石段を下ると、にっこり微笑むヒイラギさんが手を上げて迎えてくれた。
「ワタナベさん、何か急がしてすまんのう。でもあんまり時間が無いけぇ、遅れちゃいかん思うてのう」
「あ、いや、いいんだ。時間気にしてくれて有り難う。ところで…このベンチにさっき座ってた中学生の女の子、どこか行っちゃったか?」
僕は、念のために聞いてみた。
「…はて、女の子おりましたかのぅ…わしは気が付かんかったけど…」
「いや、いいんだ、気にしないでくれ」
僕は、手を左右に振り待たせているタクシーに向かった。