#4 武道館の記憶
僕の乗ったタクシーが、倉山武道館の正面玄関に着いたのは17:05を過ぎたときだった。
タクシードライバーのヒイラギさんに、武道館の中を見学して来るので少し待っていてくれるように伝えて車外に出た。
「あっ、お客さん。名前聞いてもええじゃろか?」
武道館の正面玄関を入ろうとしたとき、タクシーから声が飛んできた。
「あぁ、ワタナベです。五分くらいで戻りますから」
振り向いてそう伝えると、「ごゆっくり!」と返事が帰ってきた。
正面玄関を恐る恐る入ると、左手に事務所がある。
その武道館は、一階が、剣道場、二階が、柔道場、三階が、弓道場になっており、それぞれが、柔道の試合場三面ほどの広さがあって、かなりの道場生が出入りする。
事務所を覗くと、見覚えのあるおばさんが、こちらに気が付き、声をかけてきた。
「こんにちは、何か御用かしら」
おそらく、僕の顔は覚えておらず、道場生にも、見えなかったのだろう。少し、訝しげな表情を浮かべていた。
「あの、二十年以上前の小・中学時代にこちらで柔道を習っていたものです。久し振りに倉敷に来たので、柔道場を見学したくて来たのですけど…」
その事務所のおばさんの表情が、いっぺんに和らいだ。
「あらあら、そうなの、どうぞどうぞ、お上がりなさい」
そう言うと、左手にある階段に手を向けた。
僕は、深々とお辞儀をして、スリッパに履き替え、階段を駆け上った。
階段を上がると、更衣室の入口があるのだが、その入り口を入らずに右手に回り込むと、柔道場の見学スタンドに出た。
誰もおらず、静まり返る、柔道場。
正面の中央には、大きな神棚が備え付けられており、左手には、嘉納治五郎先生の写真が掲げられている。
僕は、スタンドからの見学では、もの足りず、更衣室に回り、道場の入り口に立った。
やはり、当時に比べ心なしか道場が小さく感じられた。
僕は、更衣室からの道場入り口で、深々とお辞儀をして畳に足を踏み入れた。
神棚の前に進み、正座をして暫く瞑想をした。
瞼をあけ、畳の感触を味わっていた。
(懐かしい…)
その時だった。
「ワタナベさーん」
突然、開け放たれた窓の向こうから、ヒイラギさんの声が聞こえた。
時計に目をやると、タクシーを降りてから、ゆうに五分は過ぎていた。気を利かせて呼んでくれたようだ。
僕は、慌てて立ち上がり、柔道場を出ようと更衣室との出入口に向かった。
出入口の上に目をやると、道場生の名前が書かれた木札が級、段別に並んでいる。
懐かしさを感じながら、視線を外そうとしたとき、初段のスペースに、見慣れた札を見つけた。
「渡辺 二郎」
僕の名前だ。
少し驚いたが、渡辺なんて、倉敷でもよくある名字だから、たまたま同性同名の道場生がいるのだろう。
「ワタナベさーん」
もう一度、外から声が聞こえた。
僕は、今度は「はーい」と大きな返事をして、出入口に立ち、もう一度道場を目に焼き付けて、長い一礼をし、下の事務所に向かった。
事務所前には、人懐っこい顔をしたあの事務のおばさんがにっこり笑って立っていた。
「お名前はなんておっしゃるの?」
「あぁ、もう覚えてらっしゃらないと思いますけど、ワタナベって言います。おばさん、あっ、いや、お姉さんも全然お変わりなくて」
「あら、やだ(笑)。ワタナベくんかぁ、今も渡辺くんて何人もいるからねぇ。覚えてないなぁ。ところでここに来たのは何年振りって言ったかしら?」
「正確に言うと、23年振りなんです。でも、道場も、事務のお姉さんも、全然変わってなくて、びっくりしちゃいましたよ」
事務のおばさんは、少し考える風をした。
「23年前ねぇ、あたし、その頃いたのかしら?ここに来たの、確か、15年くらい前なんだけど…あれ、あたし勘違いしてるかしら…」
その時、正面玄関のガラス戸が開きタクシードライバーのヒイラギさんが、ひょっこり顔を出した。
「お取り込み中すみませんねぇ、ワタナベさん、お時間は大丈夫じゃろか?」
時計を見ると、既に、17:15になっていた。
「いけない、ごめんなさい、今日は時間がなくて。でも、道場が見られて良かった。今日は、これで失礼します」
「あらあら、お忙しいのねぇ。また、ゆっくりいらっしゃい」
事務のおばさんはそう言うと、にっこり笑って手を振った。
僕は、お辞儀をしながら、武道館の玄関を出て、タクシーに乗り込んだ。
「すまんね、バタバタしちまって」
「いやぁ、お久し振りなんじゃろ、仕方ないですわ。さぁ、この後どうしましょうか?」
「そうだな、連島町の変電所の近くに、昔住んでいたアパートがあるはずなんだ。まずはそこに行って、よく遊んだ愛宕神社、小学校、中学校を回って欲しい。その後に18:15に美観地区へ連れて行ってくれ」
「いやー、かなりハードスケジュールじゃな。任せてください。ヒイラギタクシー、最後のお客さんじゃけぇね、頑張りますわ」
ヒイラギさんはそう言うと、倉山武道館の駐車場から車を出した。
それにしても…何か府に落ちない、この妙な感じは何なのだろうか。
あの事務のおばさん、僕が通っていた当時、仮に35歳だったとすると既に60近いはずだが、とてもそんな年齢には見えなかった。
そう言えば、事務に入ったのは15年前だと言っていたが、他人のそら似、別人なのだろうか。
それに、「渡辺二郎」の木札。
日が傾き始めた倉敷の街並みが車窓を流れてゆく。
「ワタナベさん、もうすぐ、変電所辺りに着きますよ」
ヒイラギタクシーが、右ウィンカーを点滅させていた。