#3 タクシードライバー
僕は、倉敷駅に着き、改札を出ると、まずネクタイを外し、バッグと共に、コインロッカーに放り込んだ。
そして、駅前のロータリーに出ると、6月の梅雨の合間の晴れやかな青空が広がっている。
左手にあったハズの三越が、天満屋に変わり、右手に見えるホテルも経営者が代わっているようだが、目の当たりにしている風景に、大きな変化が無いように感じたのは、過去の記憶が薄いせいだろうか。
そう言えば、イメージしていたそれよりも、景色が少し小さいような気がする。
中学の時は身長が、150センチ位しかなかったのに、倉敷を離れた後、170センチまで伸びたから、相対的に景色が小さく見えたのかもしれなかった。
天満屋の向こう側に、倉敷センター街の入り口の看板が見える。
中学の時に、仲間とつるんでよく徘徊していたアーケード街で懐かしい。
だが、今日は時間がない。
僕は、まずタクシー乗り場を探さねばならなかった。
駅から外に出た場所は、二階部分の歩道になっているため、タクシー乗り場に行くためには、階段を降りて地階に出ねばならなかった。
階段を降りて周りを見渡すと、『タクシー乗り場』と書かれた看板が直ぐに見つかった。
タクシー乗り場に並んでいる人はおらず、10台程度のタクシーが、客待ちをしていた。
古い白いコロナのタクシーが、先頭に並んでいる。
今日の旅の成否は、タクシードライバーにかかっているのだと得心したことを思い出した。
車両の横には、『ヒイラギタクシー(個人)』と書かれている。
少し迷っていると、ゆっくり後部座席のドアが開いた。
「どうぞ!」
老齢のドライバーが、運転席から、こちらを振り向き、にっこり微笑んでいた。
僕は、覚悟を決め、後部座席に乗り込んだ。
そのドライバーは、昔ながらの帽子を被り、糊の効いたシャツを着、白い手袋をしている。
それにしてもかなりの年齢であることは、直ぐに分かった。
「どちらに行かれますか?」
丁寧な言葉遣いに、何だかホッとした。
「まずは、倉山武道館に行って欲しい。その後も何ヵ所か回って欲しい所がある。そうそう、最初に話しておきたいんだけど、18:30倉敷発の電車に乗らなきゃならない。それに、最後は美観地区を歩いてセンター街を通り倉敷駅に行きたいんだ。その時間も確保して欲しい」
「そりゃまたお忙しいですなぁ、了解致しました。では、18:15に美観地区到着するように移動しましょう。
それにしても…何かの視察ですかな?不動産とかの…」
そう話しかけながら、そのドライバーは、タクシー乗り場をゆっくり出発した。
「あぁ、確かに不動産がらみの仕事はしているが、いや、今日は全くプライベートなんだ」
僕は、この旅の目的までこのドライバーに話す必要があるのか少し悩んだ。
おそらく、あちこち、意味の分からない場所に行き、うろうろしながら、また次の場所に移動、それを繰り返すことになる。
端から見れば、かなりおかしな客に見えるに違いない。
「実はね、僕は、倉敷で生まれ育ったんだけど、親の都合で、中学卒業と共に千葉に移り住んでね。それ以来倉敷には来てなかったんですよ。それでね、今回、たまたま姫路まで出張の仕事があってね。それで23年振りに倉敷の地を訪れることにしたんですよ。それで、懐かしい場所を回って見ようかと思ってね」
「そうですか。そりゃぁ、素晴らしい。故郷に錦を飾るわけですな。中々出来そうでできんもんですわ。そう言うお客さんにこんなタイミングでお会いできるなんて、わしも幸せですわ」
「ん?こんなタイミングとは、どういう意味なのかな?」
倉山武道館に向かう車中で、僕は、ドライバーのヒイラギさんに尋ねた。時計に目をやると、16:55を回っていた。
「いえね、お客さんには、全く関係のないことなんじゃけど…あっお客さん、元倉敷の方だから倉敷弁混じっても構わんかのぅ?」
「あぁ、構わんよ気にせんで話してくれ」
「有り難う御座います。いえね、実は、今日はワシの70の誕生日なんじゃ」
「ほう、それはめでたいね」
「有り難う御座います。ほんでね、もうこのコロナもくたびれちまって修理代もかさんできたし、ワシも腰にきとるけぇ、長いこと走れんのですわ」
「今は大丈夫なんですか?」
僕は、思わず心配になり、つい口に出してしまった。
この旅の成否は、このタクシードライバーにかかっているのだ。
「あはは、大丈夫ですよ。今日も営業開始は昼からじゃけぇね。そんでね、よくよく考えてね、息子と娘も一人立ちして結婚して孫も出来た。この辺が、潮時じゃろぉ思うてね、カミさんとも相談して、今日で引退することにしたんですわ。そんでね、今夜うちには息子、娘、孫も来てお祝いしてくれるゆうてねぇ」
「そりゃ、いいね。何だか素晴らしい日に乗り合わせたものだ」
僕は、(苦笑)した。僅か1時間と少しの短い旅の主役を、今日で引退の花道を飾ろうと言う老齢のドライバーに取られそうな気がした。
「そんでね、午後5時の時点でお客さんが乗っとったら、そのお客さんが降りた時点で閉店する事にしたんですわ。つまり、お客さんが創業40年のヒイラギタクシー最後のお客様になるんですなぁ。」
僕は、腕時計に目をやった。確かに時計は今まさに午後5時を回ろうとしていた。
「じゃけぇね、お客さん、もう今日は、ワシの40年のドライバー人生の集大成や思うて、ご案内致します。どうぞお任せ下さい」
「有り難う御座います」
僕は、最後の言葉を聞き少しホッとした」
「あっ、もうすぐ、倉山武道館に到着しますよ。思い出の場所、ですかな」
「小中とここで柔道をしていたんだ。懐かしい。中を見学して来るので、少し待っていてもらえますか」
「えぇ、えぇ、どうぞどうぞ、ゆっくり見学なさってきて下さい」
そう、にっこり微笑むドライバーをタクシーに残し、武道館の前に降り立った。