3)エステバン
あの日一座が旅立つ前、エステバンは一人、ライムンドに呼ばれた。
『母のことを色々考えるようになった』
ライムンドなりの気遣いだったのだろう。ライムンドの母フロレンティナとエステバンの過去を知るものは少ない。
ライムンドは揺りかごに眠る娘を見つめていた。
『母のことは覚えていない。娘が生まれて、母も私を愛してくれていたと信じられるようになった』
ふっくらとした可愛らしい赤子の頬を、ライムンドは大きな手でそっと優しく撫でていた。
武人の手だった。襟元からのぞく逞しい首と服に隠されたライムンドの厚い胸板に、エステバンは初めて気づいた。ライムンドが努力して手に入れたものだ。
エステバンは誰の父親にもならなかった。エステバンが愛した人の息子は父親になった。どこかにあった小さな胸のつかえに、心の中にあった小さな棘に、エステバンは吉報を素直に喜べなかった。一座の仲間だったコンスタンサが無事に母親となったというのに、心の底からは祝福してやれなかった。
今があるのは、あの時エステバンとエステバンが愛したかの人が別々の道を歩むと決断した結果だと思っていた。
だが、数多あった未来のなかから、今日を掴み取ったのはライムンドだ。苦難を生き延び、愛した人を追いかけて、互いに手を取り合う未来をコンスタンサに承知させたのはライムンドだ。
心の中のどこかに小さく引っかかっていた棘は、解けて消えた。
ライムンドはエステバンが羨んでいた幸せを手に入れるために努力した。今もそれを続けている。王国の外交では、声が出ない王弟を侮った各国の王侯貴族が辛酸を舐めさせられているという噂は随所で耳にする。
『また来て欲しい。大きくなったこの娘に会ってやって欲しい。妻も喜ぶ』
旅芸人という立場にどこかに気後れをしていたことも、小さな嫉妬を抱えていた後ろめたさも、エステバンの心の内を見透かしたようなライムンドの言葉だった。
あの言葉が、今日のエステバンの背を押してくれている気がする。今は王国に到着するのが楽しみだと思える。ライムンドとコンスタンサと子供たちに会う日が心の底から待ち遠しいことが、エステバンは嬉しかった。