1)風の吹くまま
荷馬車の御者台でエステバンは大あくびをした。心地よい木漏れ日が眠気を誘う。
「育ての祖父になった気持ちはいかが」
荷馬車から聞こえてきたトニアの言葉に、エステバンは苦笑した。
「そういうお前は育ての伯母やないか。どうや」
トニアたち女芸人の笑い声が楽しげに響く。暖かい時期の旅ならではの穏やかな時間が流れていく。
「もう二人目やん。感慨もなにも。可愛いやろうねぇ。王国に着くころには、大きくなってはるやろうし。楽しみやわぁ、とっても。フロレンティナ様もお姉様にならはるんやねぇ。前にお会いした時はまだ、首が座ったばっかりで、ちっちゃいお手々で可愛らしいて」
「そやな」
ライムンドに抱かれていた父親そっくりの幼かった姫君が、どのくらい大きくなられたかと想像するだけで、頬が緩む。
ライムンドは長女に母親と同じフロンレンティナと名をつけた。瓜二つの娘を抱いたライムンドは父親の顔をしていた。エステバンの愛おしい人の息子が父になった。皇国の黒真珠の君、エステバンが心を捧げた皇国の姫君フロレンティナも祖母になったと思うと感慨深い。二人目は噂では息子らしい。コンスタンサが無事に跡継ぎを産んだことは喜ばしい。素直に喜んでやれる自分にエステバンは安堵していた。かつて胸の内にうごめいたわだかまりが解けて消えてから久しい。
愛した人の息子と育ての娘と若い夫婦の子どもたちの幸せを、エステバンは大地母神に祈る。心の底から本当に幸せを願ってやれることが、今のエステバンの幸せだ。王国までは、まだまだ長い旅路が続く。
「どっちに似とるやろ。楽しみやね」
「そりゃまぁ、一人目があっちやったやん。二人目もそうなんとちゃうん」
「えー、そういうもんなん」
騒がしい女芸人たちの言葉に、エステバンは初めてライムンドとコンスタンサの娘フロレンティナに会った日のことを思いだしていた。
王宮を訪れた一座は、夏の暑い日差しを避けるかのような王宮の中庭に案内された。
「これはこれはライムンド殿下、しばらくお会いしない間に、随分とお小さくお可愛らしくなられましたね」
考えるより何より先に、エステバンの口から言葉が飛び出した。そう言いたくなるくらい、赤子の顔は父親ライムンドに本当によく似ていた。
沸き起こった笑いに、今は公の場やないから普通でえぇよというコンスタンサの言葉の意味を実感した。中庭とはいえ、王宮で王侯貴族が声を立てて笑うなど公ではありえない。
若い頃を過ごした皇宮で叩き込まれた常識が頭をよぎり、エステバンは育ての娘コンスタンサの気遣いに感謝した。エステバンはもうあの頃の堅苦しい生活には戻れない。一座の仲間だったコンスタンサは、旅の生活を捨てて、夫ライムンドと共に王宮で生きると決意した。日々の息苦しさは並大抵のものではないだろうに、コンスタンサは幸せそうだ。幼い頃のコンスタンサと同じ屈託のない笑顔に、あの少女が母になったのかと感慨がわいた。
瓜二つの娘を抱いていたライムンドも笑っていたが声は出ない。結局声は出ないままなのかと思うと、エステバンの胸が痛んだ。
「似とるでしょう。うちも自分のお腹からライが出てきてびっくりしたわ」
コンスタンサの言葉に、また笑い声がわいた。父親ライムンドの腕に抱かれたフロレンティナの小さな手は、コンスタンサの指をしっかりと握っている。
「子供は親に似るもんやけど、見事にライムンド殿下やねぇ。コンスタンサあんたやなくて、コンスタンサ殿下に似たところはあるん」
トニアの言葉に、全員がライムンドの腕の中の赤子を覗き込んだ。
「よくわからんけど、大きくなったら似てくるんちゃうか。娘はそうやったぞ」
娘も孫もいるクレトの言葉には妙な自信があった。
「姫様、初めましてお目もじ仕ります。クレトと申します。ご覧の通りの爺です」
ライムンドそっくりな群青の瞳が、髪の毛も髭も真っ白なクレトを不思議そうに見つめる。
「儂のような爺は初めてご覧になりますかな」
つぶらな瞳にクレトが微笑んだ。
「フロレンティナ、クレト爺ちゃんよ。もう少し大きくなったら一緒に遊んでもらいましょうね」
コンスタンサが王国語でフロレンティナに語りかける。
「楽しみですなぁ」
笑ったクレトが声を潜めた。
「儂はえぇけどな。お転婆に育つで。誰かさんみたいに」
クレトの囁きが聞こえた数名の肩が揺れた。
抱いてあやしていたフロレンティナをコンスタンサに預けたライムンドが、石板と石墨を手に持った。
『その方が良い。いつ何があるかまだわからない。常に一緒にいてやることは出来ないから。コンスタンサくらい元気な方が良い』
ライムンドの言葉に、エステバンは王国の政情を察した。皇国に比べたら小さく歴史も浅い国になってしまうが、決して小国ではない。歴史もある。歴史ある貴族もそれなりにいる。国王夫妻が内政を担い王弟夫妻が外交を一手に引き受け、若い四人が一枚岩となり国を治めているが、先祖代々血脈を繋いできた大貴族の重鎮というのは厄介だ。
『クレト。これはあくまで提案だが、もう一度王宮に勤める気はないか』
ライムンドの言葉に、クレトの顔が引き締まった。
『私が不在の間、妻と娘を守って欲しい。護衛はいるが、全員若く経験が少ない。経験豊富で信頼出来る騎士といえば、クレト、あなたが一番だ。指導者としてもあなたに勝る人はまずいない。若い護衛たちの指導もお願いしたい』
一座の仲間たちが、クレトとエステバンとライムンドを順繰りに見ていた。
のんびりするのは、大地母神様も御許に還ってからでえぇというのがクレトの口癖だ。だが、クレトは若くはない。いくら頑強な元騎士であっても、旅をいつまでも続けることは困難だ。隠居はつまらんというのがクレトの口癖だが、体がそれについていくとは、限らない。
『無理にとはいわない。一座のこともあるだろうから、エステバンや一座の仲間と話し合って決めてほしい。返事は今でなくても良い。次の旅でまた王宮に来てくれた時でも良い。クレト、これは提案だ。命令ではない。前向きに考えて欲しい』
幼いフロレンティナに引き継がれた、亡きエステバンの愛しい人と同じ群青の瞳が、沈黙を続けるクレトを捉えていた。
「クレト爺ちゃんは、一座の大事な用心棒やし。前に王宮勤めは性に合わんって辞めたことも知っとるし。隠居はつまらんってクレト爺ちゃんとハビエルお祖父様が話しとったのも聞いとるんやけど。人も経験も足りんの」
囁くようなコンスタンサの皇国語は、一座へのコンスタンサの正直な言葉なのだろう。
ライムンドが、コンスタンサから娘フロレンティナを受け取った。ライムンドは声が出ない。赤子を抱いて両手を塞ぎ、これ以上は言わないということを態度で周囲にも示したのだ。王弟の言葉は重い。命じるつもりはないというライムンドの言葉には、嘘偽りはない。
「これは私たちからの命令ではありません。無理強いするつもりもありません。クレト、かつてこの国に剣を捧げた騎士クレト、私たちはあなたの意思を尊重します」
王国語で宣言したコンスタンサが、いたずらっぽく笑った。
「あなたがどちらを選択したとしても、この子が大きくなったら、遊んでやってくださいね」
どちらでも好きな方を選択したら良いと、コンスタンサなりに伝えたかったのだろう。エステバンはクレトがどちらを選ぶか知っていた。
クレトが跪き、頭を垂れた。