第7話 入り乱れる思惑
「だって。昨日話しかけた時、もう既にアタシはお昼を食べ終わっていた」
――全てが、崩れ去っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――それで、なんでここに来たの?」
急遽学校に引き返した俺と翡翠は、ある小部屋の中で一人の男を囲っていた。
プレハブの片隅に構えた部室の入り口には、『ミステリー研究会』の文字が彫られた看板が立っている。
パイプ椅子に腰掛けて膝に本を置いた枯旗三影は、どんよりとだるそうに、それでも話を聞く姿勢を少しだけ見せながら。
俺らの話を、半ば冗談のように受け止めていた。
「あーっと、それで、問題は解決したんじゃないの?」
へらへらと、細すぎる手をくねくねと無意味に動かしながら、三影は俺らからさりげなく目を逸らした。
一方、ぴたり揃って三影の目の前に立つ俺と翡翠は、この入り乱れる情緒の整理を何とか三影に頼もうとしていた。
「違うんです。私とこの人の間で、記憶に少しズレがあるっていうか」
「そ、そうなんです…………こ、この人…………が言うには、昨日は俺に説教を垂れたとのことで」
「うーん、僕も翡翠ちゃんからそう聞いてたけどね。秋吉くんの性格にあーだこーだ文句をつけて、挙句の果てに少し怒らせてしまったとかなんとか」
俺は俯いて、翡翠はじいっと疑心暗鬼な目を向けて、お互いの思惑を探っていた。
でも、当たり前だ。俺は全く身に覚えのない話をされている。
しかし、翡翠の側も同じように思っているのだろう。
俺の昨日の記憶はこうだ。
三号館の屋上で、昼ご飯を摘まんでいた俺はいきなり見知らぬ女に話しかけられた。
『ご飯、一緒に食べない?』
それは驚いたさ。まるで友達であるかのように、ごく平然と話しかけられて。
でも断る理由もいまいち見つからなかったし、何となく会話を交わしながらその場をやり過ごした。
それ以上も、それ以下もない。
一方、翡翠が言うにはこうだ。
同じく三号館の屋上で、ベンチで一人寂しく弁当を食べていた俺に話しかけた。
『――めんどくさ』
何度も自分のことを忘れられた鬱憤から吐いた一言らしいが、理不尽極まりない。
結果的に不機嫌になった俺が翡翠を追い払い、その場はとりあえず終わったらしい。
「――おかしい」
俺がため息交じりにそう呟くと、翡翠はあからさまな反撃態勢を見せた。
それに気付いた三影が『ちょっと待って』と翡翠をなだめると、一旦事態の収拾を図った。
「ま、まあさ。変なことが続いてるから、お互いの主張を理解すべきだよ。どちらが正しいというものでもない」
「でも…………」
「翡翠ちゃん。すぐカッとしちゃいけないさ」
仕方なく、といったように肩をすくめた翡翠の目は明らかに納得がいっていない。
口をすぼめて首を傾げる彼女の様子は、まるで事件に翻弄される新人刑事のようだ。
ただ、この後三影が言うであろうことは、さすがの俺でもなんとなく予想できた。
「ただ、事実として翡翠ちゃんは秋吉くんに会う度会う度忘れられていたわけだ。実に二十三回も。これは事実として認めるんだよね?」
ぐうの音も出ない。まさにそんな状況だった。
昨日の話に関しては、お互いの記憶違いで簡単に済むことなのかもしれない。本来は。
けれど、俺が翡翠に関する記憶を毎度不自然に抹消していたことが、昨日の記憶を問題化させる。
解決しなければいけない表題なのだ。それでいて、間違っているのは俺である可能性が限りなく高いといえる。実に窮地に立たされている。
「み、認めますよ。だって、全部思い出したんですもん」
「全部…………というのは、新入生を勧誘していた時期からのこと全部?」
「さすがに、途中の会話の内容とか、結構忘れちゃってますけど。でも、春にこのサークルから勧誘を受けたのも覚えていますし、こ、この人の名前だって」
「…………」
無言の圧。こわすぎ。
隣から向けられる無数の目線――今はナイフにも感じられるそれが、俺の心身を蝕む。
し、仕方ないか…………。よ、呼ばれたいってことだよな。
「あ、朝露さん」
「翡翠でいいわ」
「えっと…………はい。翡翠、さん」
何故か不満そうな翡翠を尻目に、俺はぐったりと疲れを見せる。
ぷくくと笑いをこらえる三影は何か面白いものを見つけたという様子で、しかし『ふう』と息づいてからスッと目線をこちらに向けた。
「では、自分が翡翠ちゃんの記憶をいつも消していた事実も、認識できるということ?」
ずばり直球に、それでいて核心を突く台詞だった。
「は、はい。でも――」
三影の聞きたいことは手に取るように分かる。それほど不可思議な現象を体現した俺が、現象自体をようやく自覚した今、その仕組みまで分かってしまったのではないかということだろう。
しかし、答えはNOだ。
「分からないんです。なんというか、翡翠さんに会って、それから離れる時に翡翠さんのことを忘れて…………という事実は認識できます。しかし、それは俺が今翡翠さんとの記憶を取り戻して、過去の事実として、の、話、というか。忘れてしまう瞬間の感覚までは、思い出せないんです」
言語化できない自分にもどかしさを覚えた。
というより、言語としてこの現象を表すことは不可能に近い気がする。
現実問題としてありえないし、嘘をついていたわけではないというのが当事者だからこそ分かる。
でも、これから俺がまた翡翠の記憶を失くしてしまわないか――という不安だってある。
自分のことが、分かっているのか、分からなくなっているのか。
なんだか、混乱してきた。
「しっかりしなさい」
釘を刺す。いや、鼓舞したのか。
翡翠は直立不動の貫禄で、見上げるように、それでも俺より背が大きいぐらい堂々としていて。
あなたのことを、今更信頼しないわけがない。背中を押された、そんな気でいた。
この女こそ何を考えているのか分からないが、しかし彼女らにとっては俺の方が明らかに異端な存在のはずである。
なのに翡翠は、俺の発言一つ一つをあくまで信じて疑わない。
「だ、だって。俺、訳分かんないでしょ」
「…………訳分からないから、私はあなたに興味を持っている」
三影が、『おっ』と驚いた表情を見せた。
「いいねー、翡翠ちゃん」
『それを言ったな』みたいな、何だか自分の手柄にしてるみたいで嫌だったけど。
この人らは、案外真剣にミステリーに向き合っているのかもしれない。
「…………俺自体が、ミステリーみたいなことですか」
「そうね。実際、あなたがバス停のところで記憶を取り戻したトリガーもいまいち究明できていないんだから。まだまだ謎が多い。面白いじゃないの」
『そうそう』と言わんばかりに三影が頷く。
その動作の途中で肘が滑って椅子から転げ落ちそうになっていたけれど。
俺は自分がミステリーの対象になったことを、いまいち喜ばしくは思っていなかった。
「トリガー…………あっ、と」
思い出すようにかばんのポケットに手を入れた俺は、おもむろに真っ黒な表紙を取り出した。
汗ばんだ両手でそれの三ページ目を慌てて開くと、やはりそこには例の文字があった。
「あさ、つゆ」
「おお、それがさっき言ってたメモ帳ね。どれどれ、見せてごらんよ」
幽霊が取る『うらめしや』のポーズで、三影はよいよいとそれを引き寄せた。
そのページをまじまじと見つめながら、うーんと顎に手を当て。
少しニヤッとしたかと思うと、ある程度の解は導けたような顔で、しかし間を楽しみながら翡翠にメモ帳を投げた。
「わっ」
「翡翠ちゃん、前に自分の名前を秋吉くんに書かせたと言っていたね」
「そうですけど。だからこそ不思議じゃないですか、今回は書いた跡が残ってる」
俺は耳を疑った。
前に会ったときに、書かせた?翡翠の名前を、俺が?
しかもそれが消えているって?そんな話、まるでファンタジーの世界じゃないか。
「ほら、見てごらんよ秋吉くんの様子。覚えてなさそうだね、その時のこと」
「お、覚えてないですよ。そんな話ありえない」
「書かせたわよ。アタシの名前難しいけど、ちゃんと教えてフルネームでね」
「な…………」
メモ帳のページを急いでぱらぱらとめくる。
その風に煽られ前髪を浮かせる俺の眼前に、『朝露翡翠』の四文字はない。
記憶を取り戻したときに、『朝露』の二文字をメモした今日の昼休みのことを思い出した。
それで、忘れている欠陥記憶は昨日のことだけだと思っていたが。
他にも、忘れていることがあるとしたら。
それはまるで、俺が世界に操られているみたいじゃないか。
「…………どこにもない」
「でしょ?変よね」
困った困ったと頭を抱える翡翠をじいっと見つめて、下から覗き込むように三影が話しかける。
「ね、翡翠ちゃん」
「…………なんですか」
「これ、何が違うと思う?」
「何がって」
「『朝露』と『朝露翡翠』」
「…………んー、字数かな」
三影は何かヒントを得ている様子だった。
見つけたのだろう。字数以外の違いを。
俺も巡り巡る思考を止めず、ただひたすらに考え続けていた。
書き方か。この『朝露』の方はずいぶんと殴り書きだし。
…………いやはや、それではフルネームの方と比較しようがないか、消えているのだし。
では、何が。
「…………僕が思うにねぇ、これ」
ハッと気づいた俺は三影の方を見た。
掴んだ気でいた。三影の考えに、近づいた気で。
何か言いたげに、今にも喉から出かかっている言葉をぐっと飲み込んだとき、三影は『どうぞ』と俺に発言権を譲った。
俺は声を震わせながら、答えではない何かに辿り着いたような様相で、
「…………『朝露』は、名前じゃない」
三影が笑った。
なんだか難しい話になってるけど、僕が一番分からないよ!!!