第1話 ズレていく
「――はっ、はっ」
目まぐるしく変わる視界の渦に、飲み込まれそうになった。
天井の白がやけにどんよりと、まるで白には見えない様相で。
乱れた呼吸が空気の中に溶け込んでいく。その感覚は動悸の音に重ねて大きくなっていった。
ああ、
――今日も、生きながらえてしまった。
カーテンの隙間から少しだけ差し込む光を見て、太陽が出ていることを認識した。
昨日見た予報では確か雨の装いと言っていた。どうやら、嘘をつかれたらしい。
今日は木曜日か。木曜は何限から始まるんだっけ。
あれ、もう六月だよな。時間割まだ覚えてないのか。
いや、まだ五月だ。それにしても時間割を覚えていないのはまずいが。
ああ、そうだ、時間割……。今日は二限に文化社会学の講義があった。じゃあ今日は、二限からか。
……。
「…………なんで、生きてるんだろ」
◇ ◇ ◇
前髪は伸び切っている。眉より少し、目の方にかかるぐらい。
整えていないから、なるほど鏡を見るたびに失望する。こんなにだらしのない人間が、のうのうと街を歩いていいのか。
みな、ルックスをよく見せる「何か」を入念に施している。
でもそれはきっと当たり前で、彼らにとっては俺の方こそ異端なのだ。
なぜ当然のことができていないのだろうと、疑心的な目を向けているのだ。
痛い。その目が、痛い。頼むから、見ないでくれ。
そうやって周囲の視線を必要以上に感じながら、俺はいつの間にか大学の正門前に着いていた。
「今、何時」
右のポケットからスマートフォンを取り出す。
ブルーライトをなぞる指は、じんわり汗ばみながら小刻みに震えている。
「十時、二十五分」
漏れる声は、楽しげに横切る人の群れにかき消されていく。
あと五分で始まる。場所は三号館の二階教室。
……ふと思い出した。
あそこの教室はやけに広くて、前の方に座っている生徒はガリ勉だとヤジられる風潮がある。
本当は、目が悪いから前に座りたい。でも、ガリ勉だと思われるのが嫌だから後ろの方に座ろうか。
けど、教授の板書が見えないのでは、講義に出る間の九十分を無碍に過ごすことに――
――キーンコーン。
「あ」
◇ ◇ ◇
「いつもこうだ……」
二限を終え、三号館の屋上に出てきた俺はベンチに腰掛けていた。
コンビニ弁当の蓋についたソースを見つめながら、隅のポテトサラダを箸で避ける。
心なしか、朝よりも雲が多くなった気がする。
これから、雨が降りそうだ。昨日の予報は、別に嘘をついていたわけではないのかもしれない。
――昔から、物事を深刻に考えすぎる癖がある。
深刻というのは、些か表現として適しているのか分からない。
ただ、予測されうる最悪の事態を常に想定してしまうのだ。
横断歩道を歩いている途中に信号が点滅すれば、車に轢かれるかもしれないと全力で走る。
人とぶつかれば、その相手に訴えられて刑務所に入るのではないかと立ちすくむ。
大雨が降れば、帰路で洪水に遭って溺れ死んでしまうと頭を抱える。
随分、生きづらい考え方をしている。
「…………はぁ」
おかげで大学に入ってから友達の一人もできたことがない。もう三年生になるのに。
けど、できなくていい。
俺が一番に恐れているのは、この面倒な思想が他に伝染してしまうことだ。
他の人生に、悪影響を与えたくない。
もういいんだ。俺は、自分のせいで堕ちた人間を知っている。どうせ目の前から消えるなら、ハナから関わらない方が良いってもんだろう。
だから、だからさ。もう許してくれよ。勘弁してくれ。解放してくれ。俺さ、一人でさ、細々と、誰の迷惑にもならないように――
「――めんどくさ」
心の中の自分が呆れたのか。
違う。それにしては、外から耳に入ってくる感覚があった。
突き刺すような声だった。何の迷いもない、鋭い声。
「あ、えっ」
「めんどくさいって言ってんの。聞こえる?」
確かに、聞こえる。甲高い、それでいて威圧感のある攻撃的な声。女か?
姿はまだ見えないのに、堂々とした風貌をしていそうで。空気感というか、雰囲気がまるで獲物を狙い一目散に飛び回る鳥のようで。ああ、委縮してしまう。
右耳の方で声を感知したということは、右隣りだ。首を少し向ければそこには話しかけてきたそいつがいる。座ってきたことにすら気付かなかった。気配を潜めていたのか。
嫌だ、目を合わせたくない。いきなり、しかもこんな至近距離で、強い口調で、俺の目をじっと見つめながら話しかけてくる奴なんて。到底馬が合わないに決まってる。
逃げてしまおうか。今なら気付かなかったフリを決め込むこともできる。ギリギリ。あ、いや、できないかも…………。
…………何を考えてるんだ、逃げるぞ。この時間はどこも超満員だが、普段から一人で過ごしている俺は知っている。三号館の屋上が駄目なら、七号館の地下にあるフリースペースが――
――あれ、でも、待って。
「……………………何が?」
つい、首を右に向けてしまった。
目線は落としたままに、声もこわばり震え、ほとんど出ていない。
けれど、確かな言葉を、伝えてしまった。
だって、この女は一言も俺と会話を交わしていないのに、俺に対して面倒だと言い放った。それが、理解できなかった。強い疑問に、自然と問うていた。
何故なら、視界に入った俺という存在が面倒だったという可能性以外、彼女にとって俺が面倒である要素は何一つないから。
では、なぜ彼女は俺の隣に座ってきてわざわざ面倒だと言ったのか。何が面倒だったのか。どうして面倒だという感情を抱けたのか。
それともまさか、心の中でも読めるのか。俺の考えていることが、この女には全て筒抜けだったのか。ネガティブなイメージが彼女の中にも流れ込んできて、それで面倒だと突き放しに来たのか。
ひょんな好奇心が、殊珍しく俺の口を動かしていた。
僅かな静寂。湿気交じりの弱い風が、肌をなぞるように通り過ぎていく。
しかし、当の俺は風など気にも留めていられないほどに慌てふためいていた。
止まらない汗。視界はぐるぐると回り、震える手をいなすように念じるほど手は震えていく。
言葉を返してしまった。何と言われるだろうか。挙動不審で怖いよ、落ち着いて……だろうか。落ち着けるもんだったらとっくのとうに落ち着いている。落ち着けないからパニックなんだ。
ああ、やはり俺はどうしようもないバカだった。早く逃げればよかったものの、ほんの興味で会話を続けてしまった。
時間が一時間にも二時間にも感じるほど遅く流れていく。女は少し袖を落とした。回り続ける視界の渦に、白く小さな手が一つ。軽く拳を握って、こちらの方に向けている。
どれだけ頭の中が混沌としていても、女がやっと何か口を開いたのにはすぐ気付いた。
女はゆっくりと顔を近付け、眼前でこう呟く。
「……………………全部」
俺、今日が命日かもしれない――。
はじめまして、國枝あきらです。
普段考えている何気ないワンフレーズを詰め込んだような作品ですが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。