3 中国語の部屋
わたしたちの住む町は、列島の中ほど、日本海側にある。大きくも小さくもない地方都市だ。市の中心部はそれなりに栄えているけれど、すこし周縁部に移動するときれいな田畑が並び、そのずっと向こうには北アルプスの壮麗な峰々が並んでいる。冬が近づくとびっくりするくらい冷えるし、雪の量も結構なものになる。でも九月の間はまだまだ暖かく、一方で残暑は適度に弱まりとても出歩きやすくなる。
私と蜃気楼はだから、二学期のはじめのこの時期、毎日のように一緒に下校し、その道中ふらふらと街を歩いたり、何か食べたり、懐が寂しくなればタダで入れる公共施設や安いファストフード店でひたすらお互いの存在を貪っていた。
「ね、唯、唯の作者ページってこれ?」
その日、世界一有名なバーガーチェーンの店舗内でシェイクをすすりながら蜃気楼は私にスマホの画面を向けた。画面には私のよく知るウェブ小説投稿サイトの、作者ページ(作者の作品や情報がまとまったページだ)の一つが映っていた。
画面に大きく表示されたペンネームには見覚えがあって、わたしは小さく悲鳴を上げた。これ、わたしじゃん!
「なんで知ってんの!?」
「えっへっへ。当たりか」
心から嬉しそうにおっさんみたいな笑い声を上げる蜃気楼のスマホを思わずわたしはもぎ取ろうとするが、ひょいと避けられてしまう。
「文芸部のメンバーに訊いて回ったんだよ。ウェブ上でのPNまで知ってる人はいなかったけどさ、何作か部誌に作品転用してるって話だったから、地道に作品名で検索かけまくりました」
「ましたじゃないよ、もう……なんでそんなの見つけてんのさ」
急激な恥ずかしさに、わたしはボックス席のテーブルに突っ伏す。
「えー、だって唯、見せてって言っても部誌以外の作品見せてくんないから」
「そりゃだって、ネットに上げてるのはほんと好き勝手描いたやつだし、顔見知りに見られるのは恥っずかしいのも多いしさ……」
「そう? いくつか読んだけど、わたし、好きだけどなあ」
ウェブノベルの執筆、というか小説の執筆は、わたしにとっては小さなころからの趣味だった。特にうまくもないのだけれど執筆速度だけはやたら早くて、色んなものを書いてはさてどうしたものかと完成作品の置き場、発表どころに困っていた。
小学生の中ごろから、ウェブ上ではそうした素人作家がものすごい数いて、小説投稿サイトなるものがいくつもあってそこで作品を見せ合っていることを知り、わたしもはじめたのだ。
つまりそこには、小学生時代からの作品がずらりとならんでいる。黒歴史の山だ。最近書いたものに限ったって、顔見知りには見せられないようなあまぁい恋愛ものやら背伸びして描いたSFやサスペンスやらが結構あって、リアルの知り合いに知られるのは結構精神にくるものがある。くそう、やっぱ部誌への作品転用は迂闊だった。というか部のやつらも情報漏らすんじゃないよ。大方口の緩いしょーちゃんあたりの仕業だな、と当たりをつけて、わたしは心の中で恨みの炎を燃やす。
「やっぱ唯、上手いよ。作品数膨大だし、なんか賞とか出せばいいのに。金になるかもよ」
「金目当てかよ」
「唯が富豪になれば私はヒモでいられるかもしれないじゃん」
肯定するなよその道を、と諫めて、そのページばらすなよ他の人に、と釘も刺しておく。
「でもさ、実際執筆量、すごいよね。これと、これとか、ほら、ひと月の間に何十万字書いてんの? これ、本にしたら二冊じゃすまないよね」
「それはまー、コツというか、変な特技があって」
ポテトをつまみながら、早くその画面切り替えてよ、と思いつつも説明する。
「単語とか、直前のシーンとか、人物とか、そういう手掛かりがあればさ、次にどういう場面をどう書けばいいのか、ぽんと浮かぶんだよ。浮かぶというか、別に考えなくても自動的に描けるというか。いつの間にか出来上がる感じ。何て言うのかな……蜃気楼、玉ねぎのみじん切りしたことある?」
「話飛ぶな。あるけど」
「あれみたいな感じ。一回包丁入れてさ、次にここに包丁入れるぞ、その次はここ、とか考えないでしょ。なんとなしにざーっと作業的にあんまり考えずに、勝手に手が動くに任せるでしょ」
「野菜切るのと小説書くのは違う気がするんだけど」
「私にとっては同じようなもんだよ」
「それで長編まで書けちゃうの? 一番新しいやつとか、結構込み入ったミステリーだけど」
「書けちゃうの。質は高くないけどね」
自嘲して、わたしはずぞぞとストローに口をつける。
しばらく、蜃気楼は目を丸くしてぱちぱちと瞬きをしていた。長ぁい睫毛を乗っけたクールな造形の瞳が子供みたいに見開かれているのが、なんとも可愛いな、などと考えていると、彼女は「それってさ、普通に凄くない?」とちょっと驚きをにじませた声で呟いた。
「別に、どうなんだろ。他人と比べたことないし」
「比べてみようよ。こんなポンポン書ける人いないよ。きっと業界でも重用されるって」
で、有名になったら私養ってよ、とまたヒモ路線を打ち出すので私は適当に冗談めかしたお説教を食らわせる。校長の物真似交じりに独立不羈の精神を語り、途中でおかしくなって二人で笑いあう。
「ねぇ」
と、笑いが一つ落ち着いたところで、蜃気楼がわたしをまっすぐに見つめる。
「唯はさ、こうやってたくさん物語、書いてるよね。いっぱい人物も出てきて、豊かにその内面が描かれてる」
数多くの物語。数多くのキャラクター、葛藤、克己、戦い、苦難、喜び、失意――そうしたものが、無数の作品に詰まっている。蜃気楼はスマホを指先で弄びながら、続きの一言をささやく。
「わたしには、その内面が存在しない」
ふっと冷たい吐息をこちらの喉奥に流し込むような言葉に、わたしは一瞬固まってしまう。
蜃気楼は柔らかくふにゃりと微笑んでいた。
「唯、ちょっと歩こうよ」
言って、蜃気楼が立ち上がる。
*
夕暮れ時の街はあちこちが美しかった。
夏の名残がそこかしこにあって、しかしそれらは刻一刻とばらばらになって消える最中にあった。田畑の色も山の影の濃さも川の匂いも、全てが滑り落ちるように変化する途中にある風景は、どこか惜しく感じるものだらけで、とても愛おしい。
そうした景色の中を、蜃気楼はあてもなくふらふらと歩く。目的のない散歩は蜃気楼の好きなことの一つだった。黄昏時の青暗さに何もかもが塗りつぶされる中、蜃気楼の姿もほの青く染め上げられて、ふと気が付くといつの間にかぞっとするほど幻想的な少女がそこにいる。
無意識の中に生きる少女。内面を持たない少女。意識されない反射の連続だけで構成された笑顔と言葉。
蜃気楼。私の恋人。
「唯はさ、『中国語の部屋』って知ってる?」
わたしの一歩先を歩きながら、蜃気楼が問いかける。わたしが首を小さく横に振ると、その動きを察してか、彼女は説明を加える。
「一つ小屋だか部屋だかがあってさ。その中には中国語を全く知らない英国人だかが入れられてるの。で、その小屋は外部と手紙でやり取りできる。小屋の中には、あらゆる中国語の文章に対応した、『どういう形の文字列が入ってきたらどういう文字列を返せばいいか』が書かれた超大ボリュームなマニュアルが置いてあるの。英国人の仕事はこのマニュアル通りに、外から入ってきた、理解できない記号の連なりでしかない中国語の手紙に対して、マニュアルに沿って『返事』を作成することなの」
「中の人、大変そうだねぇ」
「だね。で、小屋の外にいる中国人だかなんだかは、中国語を紙に書いて小屋に入れる。すると小屋からは自然な返答が書かれた紙が返ってくる。挨拶でも恋愛トークでも哲学議論でもなんでも、会話が成立する。マニュアルは完璧で、あらゆる会話に対応できるから。この時、外にいる中国語話者は、小屋の中にいる人が中国語を理解していると考える。自然に話せるから。でも、実際に小屋の中にいるのは、中国語の文字なんて意味不明な記号にしか見えない英国人でしかない」
実際にはそこに理解は存在しない。あるのは、マニュアルと、マニュアルに沿った単純作業と、それを行う何も理解していない英国人だけ。
これは、哲学や人工知能の問題に関して考える際によく引き合いに出される有名な思考実験なのだ、と蜃気楼は説明してくれた。
『中国語の部屋』はようするに単純なコンピューターのようなものなのだ。十分にコミュニケーションが成り立ち、知性や感情を感じられたとしても、小屋をばらしてしまえばそこにあるのは何も理解していない英国人と、ただのマニュアルがあるだけ。
何の話をしているのか、そこまで聞けば嫌でも分かる。
「唯は、この『部屋』そのものと友達になったり、『部屋』そのものを愛したり、できると思う?」
無意識の住人が、振り返って問いかける。
笑い、喜び、話す相手。日々を何の支障もなく、仲のいい友達として、暖かなパートナーとして過ごせる相手。でも、その頭蓋骨をばらしてしまえば、そこにあるのは意識を創出する機能を喪失した、記憶力と反射機能だけに特化した脳があるだけ。
「唯は――たまに、少し、怯えるね」
眉尻を小さく下げて、蜃気楼が呟く。暗くなった空の下、影のかかった顔がどんな表情をしているのか。わたしは怯える。見抜かれていた、という恐ろしさに身がすくむ。
確かに、わたしは怯えていた。恐れていた。
いつもの痛み。小さく鋭い痛みをまた覚える。
「話してるときとか。手を繋ぐときとか。一緒にいると、たまにさ、そんな風に見える時がある」
「それは――」
咄嗟に何か言おうとして、上手く言葉が出ずに吐息だけが乱れて涼しい空気に溶けていく。
歩く足を止めた蜃気楼がこちらに向き直り、じっと正面から見つめてくる。
いつの間にか私と蜃気楼は、周囲に田んぼの広がる、町の中心から外れた場所まで来ていた。近くには小さな川が流れ、その脇に立った背の高い木々の群れが色濃い影をわたしたちの頭上に落としている。
「好きだよ、唯」
出し抜けに、蜃気楼が告げる。木立の作る暗がりの中、姿かたちも心もそのまま暗さに呑まれそうな場所で。
「何、急に」
やや息を詰まらせながらも返すと、蜃気楼は表情から力を抜いて、ぽんとわたしの肩に手を置いた。
「好きだけどさ、でも、嫌になったら止めていいからね。わたしが喜ぼうが悲しもうが、そこにはそれを感じる内的質感なんてないんだから」
掠れた、小さな小さな声で、顔を寄せて蜃気楼は脱力した、笑みと呼ぶべきかなんと呼ぶべきか分からない表情をしていた。
いや、待って、何突然に。何言ってんのちょっと?
混乱したわたしが口半開きでフリーズしている間に、蜃気楼はくるりと爪先の向きを変えっる。
「じゃ、また明日ね、唯」
事も無げに、いつものような別れの挨拶をかまして、そのまま動き出す。木陰の暗がりに溶け込むようにすっといなくなる。