2 哲学的ゾンビ
藤沢蜃気楼は、中学二年に上がって間もないころに、ゾンビになった。
ゾンビといっても、うーあー呻きながら酔っ払い歩きする腐った死体ではない。哲学的ゾンビと呼ばれるものだ。
原因となったのはバス事故で、だいぶ大きな事故だった。その日蜃気楼のクラスを含む当時の二年生は丸ごと、学校からさほど遠くない位置に新設された美術館へと向かっていた。ちょっとした校外学習――というほどでもない、まあ小学生の遠足と半々みたいなイベントだ。
半日をかけてよくわからない地元芸術家の作品なんかを鑑賞して、その帰り道、幅の広い幹線道路のカーブに差し掛かったところで、対向車線を走っていたトラックに衝突された。センターラインを越えてバスの横っ腹に突っ込んだトラックの運転手は居眠り運転で、事故現場にトラック側のブレーキ痕は見つからなかった。
バスの丁度中ほどに衝突したトラックはそのままバスを車線端に追いやり、バスはガードレールを押し倒し歩道に乗り上げ電信柱にぶつかってようやく止まった。あたりまえだけど衝撃は並大抵のものではなかったらしく、バスは車体がくの字に曲がったぼろぼろの状態になっていた。
蜃気楼はトラックがぶつかった場所にもっとも近い座席にいた。バスはよくある二人掛けの座席が中央の通路を挟んで車体の左右に並んでるタイプで、蜃気楼はその右端に座っていたのだ。急激な横合いからの衝突に多くの生徒が席から投げ出されていたけれど、蜃気楼は特に派手に放り出された。冗談みたいにひしゃげて破壊された座席に挟まれたり刺されたりしなかったのは運が良かったけれど、代わりに蜃気楼は車内で荒々しくパチンコ玉みたいにかき回された。
幸いなことに死者は出なかった。軽症者多数、骨折なんかのちょっとした重傷者がいくらか出たくらいで。蜃気楼はそんな中で例外的に非常に重いダメージを受けた一人だった。彼女は骨も内臓もそんなに傷ついていなかった。ただ、頭の中身が問題だった。
とてつもない勢いで振り回され、天井と壁に強く打ちつけられた蜃気楼の頭蓋骨の中身は、子供がふざけて未開封のまま振り回したプリンかヨーグルトみたいになってしまったのだ。
無事な部分と、シェイクされて傷ついた部分。二つの部位を塗り分けすると、蜃気楼の脳みそは複雑なマーブル模様を描くことになる。事故後半年以上が経ってから知ったことだけれど、彼女が受けた脳損傷は大きく、寝たきりの植物状態になる可能性がかなり高かった。
前頭連合野の数か所、角回や前部帯状皮質や内側部前部、それに側頭葉後部の感覚性言語にかかわるウェルニッケ野。損傷部位を並べていくと、舌を噛みそうな早口言葉めいた呪文が完成してしまう。
特にひどくダメージを受けたのがウェルニッケ野をはじめとする、言語の意味理解に関する部位だった。前頭連合野の損傷と合わせて、蜃気楼は高度な思考や意思決定機能が大きく破壊され、さらに、重篤な失語、ほとんど壊滅的な言語機能の喪失が予想されていたという。
ところが。
たった数か月で蜃気楼は普通にむっくり起き上がり、あっさり喋り、あっはっはと大口開けて笑った。
蜃気楼の両親はそれを喜びつつもあまりの回復ぶりに逆に医師の見立てに疑いを持ったりしたし、医師は医師であまりにも無茶苦茶な奇跡的な出来事にひたすら驚嘆していたという。結局蜃気楼は一年の休学ののち、一つ下の学年に編入して復学することとなった。
後々のいろんな検査で、いくらかその回復ぶりの謎について明らかになった――というか仮説くらいは立てられるようになったと言うべきか。
賢い大人たちの見立てでは、もともととてつもなく良かった蜃気楼の記憶力が鍵になっているらしかった。脳が損傷を受けた場合に、失われた機能に応じるように他の脳部位における神経回路が変化し再編されいくらか元の機能を補うことはよく知られている。脳の可塑性だとかなんだとか。蜃気楼の場合は、もともととても優れていた自前の能力が軸となって、非常にドラスティックにそうした変化が起こった、と考えられている。
「村雲さんは、手続き記憶ってわかるかな。自転車の乗り方とか、箸の使い方とか、楽器の弾き方とか、そういうわざわざ意識しない、体で覚える種類の記憶なんだけどね。これがね、かなり大きく働いている可能性があるんだ」
と、わたしは医師から聞かされたことがある。
蜃気楼の場合、そもそも短・長期記憶や意味・エピソード記憶といった各種分類に属する記憶関連の機能が非常に優れている上に、記憶能力全体での連携のメカニズムも特異なものがあったらしい。
特に、小脳において働くとされる手続き記憶――非陳述記憶とも言われる、『意識されない』記憶が、蜃気楼の頭の中ではちょっとあり得ないくらいに活躍していた。
要するに。
事故後の蜃気楼は、ある特定の状況において無意識に、自転車に乗る時の体の動かし方のように、それと意識せずに反射で対応することに優れた状態となっていた。彼女は事故以前と同じようにしゃべる。誰とでも普通に会話が成立する。感覚的に言語を理解する脳部位が破壊されているにもかかわらず。情動や意識形成についても同じだ。
蜃気楼は、手続き記憶で生きている。入ってきた言葉に適切な言葉を返すという、通常高度な言語理解と思考と意思決定が必要なはずの行為を、自転車に乗ったり箸を使ったり呼吸したりするのと同じ無意識的な条件反射で行う。無意識に・自動的に、高度かつ複雑なコミュニケーションや計算すらこなすのだ。
クオリア、という言葉がある。感覚質とも呼ばれるもので、わたしたちが感じるあれこれの、その『感じ』そのもののことを指す言葉だ。赤い色の「赤いという感じ」であり、高い音の「高い音だという感じ」そのもの、そういうものを指す言葉。
蜃気楼には言語が意味理解として存在しない。意識が存在しない。何かを感じる、その「感じ」自体がない。クオリアが存在せず、無意識反射だけがある。
さすがに嘘でしょ、とわたしも最初はそう言ったものだけど、専門的知識を持った大人たちは困った顔をするだけだった。各種細かな検査の結果どうやらそうである、と推測するしかないのだと、後で知らされた。
説明を受けて、蜃気楼の両親をはじめ多くの人々が考えた。手続き記憶、非陳述記憶、非宣言的記憶によって生きるとはどういうことか。感覚的に言語を所有できず、意味理解を伴わず、反射で生きるとはどういうことなのか。
つまり――なんと言うか――
そこに、意識は存在するのか?
ということを。
言葉は、世界からあらゆるものを切り分ける。世界という一つの塊から、自分、他人、あれ、これ、と一つ一つの意味を切り出す。それが存在しない世界とはどういうものか。幼児の時分、言語を所有せず世界と混然一体となっていた頃、人は自己意識なんてものを持っていただろうか。
哲学的ゾンビという単語を、そこで私は知ることとなった。
哲学的ゾンビというのは、内的質感、感覚的質感、意識をもたない人間を指す言葉だ。普通の人と同じように話し、笑い、複雑な計算も仕事もこなす。普通の人間と区別などつかない存在でありながら、意識の欠けた存在を言う。哲学分野なんかで仮定される存在で、心や意識と呼ばれるものを持たずとも人間という機構が可能ではないかという考えのもとに考えられ、人の意識という問題を扱う上でちょくちょく引き合いに出される、らしい。
正確にいうのであれば、正しい哲学的ゾンビというのは普通の人とまったく見分けのつかない、しかし意識を持たない存在であるから、蜃気楼はこれとは少し区別した行動的ゾンビという単語を使うべきらしいけど、わかりづらいのでそこは省略するとして。
とにかく、蜃気楼は、いつの間にかゾンビ化していたらしいのだ。
医師を含めた色々な人がかなり言葉を濁し、誤魔化そうとはしつつも、追及すればそれを認めた。藤沢蜃気楼は意識を形成する要素――言語を失い、意思決定や思考をつかさどる機能も損壊している。彼女はただ、意識されない反射――電卓の「1」のボタンを押せば液晶に「1」と映るような単純な反射現象だけの存在なのだと。
「唯。村雲唯。知ってるよ。よろしくね」
美しい顔が笑い、口元が美しくうごめき、瞳が輝きを持ってわたしを見つめる。
しかしそこに、意識は存在しない。クラスの皆が、そのことを朧気ながら噂話として伝達されて知っている。
蜃気楼は何も感じず、意識しない。路傍に転がる石ころが、雨風に揺れて濡れる木立が、焼けてふやけたアスファルト舗装が、ちぎれた雲の端切れがそうであるように。