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1 蜃気楼

 以前ピクシブ文芸に載せたものの転載となります。また、百合(女性同士恋愛)要素を取り扱っておりますので苦手な方はご注意ください。

 藤沢蜃気楼(ふじさわ しんきろう)という名前の女の子はもちろん名前からしてぎょっとする相手ではあるけれど、クラスの皆は名前以外の理由で最初から少し距離を置いていた。その理由の半分は年齢で、蜃気楼は皆より一つ年上の十五歳だった。


 もともとは一学年上だったはずの彼女が春から年下の学年――二年生のクラス――に入ったその日に、わたしは彼女と友達になった。それはとても自然なことのように思われた。理由なんて言い出したらきりがないけど、とても自然な。自然で素敵で無残な。


「藤沢蜃気楼です。今はとても健康です」


 というのが彼女の自己紹介だった。確かに彼女は健康そうに見えた。嫌味なくらいきれいな肌も、つるりとした柔らかな頬も、肩までのセミロングの、流れる夜空みたいな黒髪も、少しだけ高い背も長い脚も、わずかな赤みが隠れた深い色の大きな瞳も、健康そのものに見えた。それにとびきり美しかった。

 彼女の席は私の隣だった。それもまたあらかじめ決められていたかのように思われた。蜃気楼が小さな衣擦れの音だけを立ててそっと隣に着席する頃には既にわたしは彼女に見入っていた。

 見入っているところに、ひょいと蜃気楼が振り向いて目が合った。


「あ、えーと、その、よろしく。わたしは――」


 じっと見つめていたことを誤魔化すために名乗ろうとすると、蜃気楼はきゅっと目元と頬を可愛らしく笑みの形に変えて口を開いた。


「唯。村雲唯(むらくも ゆい)。知ってるよ。よろしくね」


 なんとなくだが。

 蜃気楼の麗しい唇から自分の名前が音として出てくることがとんでもない間違いか、あるいは奇跡のように思えた。なにかの間違いも奇跡も、たぶん同じことの別の名なのだろうな、と思いつつ、わたしは笑顔を返したのだった。

 わたしに蜃気楼の何が分かるわけでもなかったし、それはクラスの皆も同様だった。誰も彼女を理解するなんてことはできなかった。めそめそした感情的な話ではなく、もっとどうしようもない理由で。


 それでもわたしはその日から、蜃気楼に手を伸ばすようになったのだ。


   *


 一学期の間にわたしと蜃気楼はがっつり仲良くなり、夏休みには頻繁に二人で出かけたりして、春の出会いから半年近くたった二学期の始まりには動かしがたい固く巨大な関係性が形成されていた。


「唯、今日も部活?」


 と、席替えで私の後ろになった蜃気楼が両腕を伸ばして背後から私の首に絡める。


「んー、や、今日は大丈夫かな。特別やることないし」


 答えながらちらとわたしは教室の壁に下げられた時計を見る。時刻は三時半ほど。すべての授業が終わり、弛緩した空気とばらばらな雑音とクラスメイト達の好き好きなおしゃべりの声が教室には満ちていた。

 首元に回された蜃気楼の白い腕をつかんでわたしが振り返ると、彼女は何か期待するように目を輝かせてこちらを見ていた。揺れる紐や転がるボールを目にしてとびかかろうとしている猫みたいな目だな、と私は感じた。

 蜃気楼の大きな瞳には私の姿がはっきりと映っていた。おでこを出して左右に分けた髪の長さは蜃気楼と同じくらい。だけど後はどこもそんなに似てはいない。まだ子供っぽさの抜けきらないラインがあちこちに隠れる顔かたち。害のない草食動物ですって感じの丸い瞳。


「じゃ帰りそぞろ歩こうよ」

「また書店巡り?」

「それもある。ストック読み切っちゃったし。でも本命は別で、薬局横にできた串カツ屋」

「相変わらず食べ物の好みがおっさん臭いなぁ。ていうかそんなにお金あるかな」

「大丈夫大丈夫、めちゃ安なんだってあそこ」


 すらすらと、暗記していたらしいメニューと値段を暗唱する蜃気楼に、わたしはけらけら笑った。蜃気楼は記憶力が割ととんでもなく良い。それにしたって、中学生女子が帰り道に串カツって。


 しばらくそのままあーだこーだと私たちはその場で話し込んでいた。だらけた時間は楽しく、貴重だった。授業から解放されたばかりの時間帯の教室は賑やかで、あまり皆他人を気にしない。蜃気楼と私も注目されない。

 やがて、部活や帰宅で人の数が減ると、少しずつ視線がこちらを向くのが分かった。


 私も蜃気楼もクラスの中では特別嫌われても好かれてもいない平凡な立ち位置にあった。必要十分に誰とでもコミュニケーションは取っていたし、問題も起こしてはいない。ただ、皆と私たちの間には、うすぅーい膜のような、ちょっとした距離感があった。ちょっかいを出そうか、出すまいか。好奇心と異物感の入り混じった意識が、あちこちにある。


「よし、行こっか」


 周囲の様子に反応してか、蜃気楼が立ち上がった。座ったままの私に手を差し出して、ふざけた口調で「さあ、お手を」なんて言ってくるのでわたしは「ありがとう、串カツ王子」なんて返してへらへら笑いながら手を繋いで立ち上がる。

 手を繋ぐのはさして特別なことでもなく、いつものことだった。なのにわたしは毎回微かな恐れと喜びを覚える。蜃気楼の指先。人間の指には鋭敏で繊細な触覚が存在する。わたしの指先を蜃気楼の指先が掴み、その刺激がそこに生じているのだ。


 刺激。どこに向かいどこで処理されどこで感じられるものか。


「村雲さんちょい待ち」


 と、教室の戸口まで歩いたところで呼び止められる。二人で振り返ると、後ろに一人の同級生男子生徒が立っていた。温和だけどどこかへらっとした印象を放つ、細身の男の子だ。



「しょーちゃん。どかしたの?」


 私が首をかしげると、しょーちゃん――川岸翔己かわぎし しょうきは律儀にも「ごめん帰りがけに呼び止めて」と一言おいてから、用事を口にする。


「こないだ頼んだあれ、書けそう?」

「ああ――うん、大丈夫。多分数日で書けるよ。出来たら渡す」

「さすが。待ってるよ」

「はいよ。あ、そだ、今日部活なしでいいんだよね?」

「いいよ。まだ文化祭遠いし。ていうかいい加減、その呼び方止めてよ」

「えー、だってもう慣れちゃったしなぁ」


 ひょいひょいっと軽く言葉を交わして、じゃあね、と私は彼に手を降って教室を出る。

 しょーちゃんこと川岸翔己は、私の所属する文芸部の部長だった。文芸部といってもさしてやる気のある部でもなく、年に一度か二度、部誌として部員の小説やらなにやらの文筆作品をまとめて発表しているだけの集まりだった。


「何か頼まれてたの?」


 廊下を歩きながら蜃気楼が尋ねる。


「うん。なんていうか、ちょっとした短編小説をね、書いてって言われてて」

「へぇ。文化祭で配布する部誌で載っけるやつ?」

「ううん。それとは別。なんか、あいつが個人的に、わたしに書いて欲しがってるやつ」

「なにそれ、個人的?」

「そ。あいつわたしのファンだから」

「ファン!」


 小説作品のね、と付け加える私を半ば無視して、蜃気楼はきゅっとつないだ手の平に力を籠める。


「えー唯のファンかよーあいつ。掴んで投げ千切りたーい」

「物騒なこと言わないの。まあ悪い奴じゃないよ。口が軽いのが玉に瑕だけど」

「いやでもだって、個人的にってさー。好みの作品書いてやるってことでしょ。ずるいぜ」

「なにもう、嫉妬かよ」

「へへへー、嫉妬だよ」


 言葉と裏腹に嬉しそうに言ってこっちに寄りかかってくる蜃気楼をわたしはぐいと肩で押し返す。背が高くてすらりとして、大人っぽい容姿のくせに蜃気楼の体は体温が子供じみて高く、触れ合う肌がほのかに暖かい。

 にやにやしながら蜃気楼は顔をわたしの耳に寄せて、声のボリュームを落としてささやく。


「やっぱ嫉妬の一つもしといたほうが雰囲気出るかなって。だってさ、わたしたちさぁ、親密な関係じゃん」

「親密ねぇ」

「もっとはっきり言ったほうがいい?」

「いや、いいよ。公衆の面前だ」


 過度のいちゃつきは身を滅ぼすぞ串カツ王子よ、と続けると、蜃気楼はよいではないかよいではないかとさらに寄りかかってくるので、わたしは歩を速めて彼女の手を引いた。


「ほら、早く行くよ。いつまでもだらだらしてると寄り道の時間なくなるから」


 笑いながらそだね、と答える蜃気楼とともに、昇降口に向かう。

 きゃいきゃいと会話しながら、笑いあいながら。

 同時にひっそりと、わたしは胸中で先ほどの蜃気楼の言葉をつぶやく。


 わたしたち、親密な関係じゃん。

 親密、ねと内心で私は呟く。


 言葉通り。私と蜃気楼は、とても親密な関係にあった。親密というか、要するに、社会一般には特別な関係とされる、アレだ。

 そのことを意識すると、わたしは喜ばしく暖かな気分を覚える。

 同時に、針で刺されたような、小さく鋭い痛みのような不安も。何度も味わってきた、いつもの痛みだ。

 親密な関係。でも、わたしはこれ以上彼女と親密になれるのだろうか。いや、そもそも――


 関係、なんてものを存在させることが、本当にできているんだろうか?


 足の長さの差でもってして私を追い抜いた蜃気楼の背中を見つめながら、わたしはそんなことを考えていた。


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