斎藤利三
五月八日 岐阜城
「は? 信長が死んだ?」
タイミングがずれた本能寺の変の勃発を受けて俺はさすがに驚いた。
元々信長は天皇家への一族輿入れを狙っていたが、武田家への勅命問題から俺がそのことを探り当て、そのせいで明智光秀がそのことを知り、それによって変が早まったということか。
「はい、昨日五月七日、明智光秀は手勢を率いて本能寺に向かい、信長を襲いました。一万以上の軍勢に包囲された信長はなすすべもなく討死したとのことです」
千代女は淡々と報告する。京で信長や光秀の動きを探っていた千代女には予感のようなものがあったのかもしれない。
「そうか」
「では引き続き織田家の情勢把握があるため、御免」
そう言って千代女は俺の元から姿を消した。
「これは大変なことになったな……とりあえず主だった者を全員呼び寄せよ!」
すぐに俺は家臣たちを集める。幸い、兵農分離が済んでいる武田軍主力は現在も岐阜城に駐留しているため、今すぐ兵を動かすことが出来る。
ただ、今後もし史実のように織田家内部の主導権争いが起こるのならばそれを見守った方がいいかもしれない。下手に俺が兵を動かせば、残った武将たちが団結する可能性があるからだ。
「御屋形様、明智光秀からの使者と申す者が参りました!」
そこへ門番の兵士がやってくる。確かに史実では本能寺の変のときは武田は滅亡していたが、現存している以上使者が来ない訳はないか。
「通せ」
すぐに光秀からの使者がやってくる。門番が使者と言うのでてっきりただの使いの兵士かと思いきや、面構えのしっかりした歴戦の武士であった。俺と対面しても臆することなく鋭い眼光をこちらに向けてくる。
「それがし、明智光秀の使いで参りました、斎藤利三と申します」
「斎藤利三……殿か。俺が武田勝頼だ」
思ったよりも大物だったので思わず声を上げそうになったが、どうにか平静を装って会話を続ける。斎藤利三と言えば明智光秀が最も信頼する家臣の一人ではないか。利三は俺に対して一大決戦に臨むような真剣な表情で語りかけてくる。
「今回参りましたのは他でもありません、昨日未明、我が殿明智光秀は信長を討ち果たしました。理由については武田殿の方が詳しいでしょう」
「輿入れの件か」
口に出すのもはばかられるので主語と目的語をぼかして言う。
「御意。そのことを知った殿は当然上様をいさめるべく、急ぎ上洛いたしました。しかし上様は殿の諫言を退けました。殿は上様の天才性や開明性に惹かれましたが、幕府のみならず朝廷まで軽んじるその姿にはついていけず、朝廷を守るためにやむを得ず挙に及びました」
詳しい情報がない今の状況では、利三が言っていることの真偽はよく分からない。
「一万の兵を率いて諫言に向かったのか」
「織田家において、上様に物申すということはそれぐらいの覚悟を伴うことですゆえ」
利三の表情からは真意は読み取れなかった。信長は逆らう者に容赦がないという話は有名である。光秀に諫言の意志があったのか、最初から信長を討つつもりであったのかは分からないし、それに俺にとってはどちらでもいいことである。
まあ、一人の歴史オタクとしては光秀の真意に興味はあるが。
「それで俺にどうしろと言うのだ」
「先だって武田殿は足利義昭殿を迎え、上様……いえ信長の朝廷簒奪の意を明らかにしました」
「俺もまさかここまで深刻なことになっているとは思わなかったがな」
「はい、我が殿はそれを正すために行動しました。そのため武田殿とは友好関係を築きたいと思っております」
確かにこの状況であれば光秀が俺と結ぼうと考えても不思議ではない。しかし俺と結んで光秀はどうする気なのか?
「明智殿は今後どうするつもりなのか?」
「はい、幸い羽柴殿は事前に殿の企てに賛意を表しておりました。そのため、二人で新たな織田家の主を立て、新たな体制を築こうとされています」
「なるほど」
確かに新生織田家が誕生すれば、俺たちは戦う理由がなくなる。元々は信玄と家康の戦いに信長が加わったことが原因だが、すでに信玄も信長も亡く、家康はこちらについている。もっとも、俺が天下を目指すならば常に戦う理由はあるが。
しかし今回は史実と違って秀吉も賛同しているのか。それなら一応様子を見た方がいいのか? もし後継者争いが紛糾すれば、光秀や秀吉に反対する者を味方につけられるかもしれない。
「殿としては信長が世を去れば、武田家や佐久間殿と争う理由もなくなると考えております。そうすれば徳川殿ともよりを戻すことが出来るでしょう。羽柴殿も、その折には毛利や本願寺と和睦することが出来るかもしれません。織田・武田・毛利が手を結べばもはや乱世は終わったも同然でしょう」
確かにそれはその通りである。まだ四国・九州・奥羽では戦国時代は続いているが、平定は時間の問題だろう。
「だが、大勢力がいくつも並立するような天下の在り方は可能なのか?」
「はい、殿は織田家のうち、どなたかを実権を持たない将軍位につけ、大名が共同でそれを補佐するという体制を考えております」
要は室町幕府のような感じで、羽柴・明智・武田で管領の代わりになるということか。これが史実の光秀が考えていたことと同じなのかは分からない。
「なるほど、おおむね言いたいことは分かった。協議の上、返答しよう」
「ありがとうございます。最後に一つだけ質問なのですが、武田殿は天下を望まれますか?」
話がまとまった……と思わせて利三は最後に、おそらく本命と思われる質問を投げかけてきた。俺はとっさに答えられなかった。そう、最初は俺の命を守るために信長を打倒するというだけだった。しかし岐阜城を落とし、足利義昭を迎えた辺りで俺の心に欲が芽生えていた。
しかしこの状況で答えられなかったのは、肯定を意味する。
「なるほど、承知いたしました。では良い返事を期待しております」
そう言って利三は退出した。期待しておりますと言いつつ、利三の目には一種の諦観のようなものがあった。光秀には武田は天下を目指す可能性が高い、と報告するのだろう。
「しかしこれは厄介だな。光秀がこの構想を信盛や家康にも告げれば、彼らはどうなるのか分からんな」
信盛は信長の勘気を恐れて謀叛に踏み切った。家康は俺の勢力の大きさを恐れて寝返ったところはあるが、織田家の徳川家への扱いに嫌気が差していたというところもある。
また、もし俺が行動を起こすとすれば美濃の織田軍主力がいる大垣城攻めになるが、大垣城の滝川一益らが光秀につくのかつかないのかも謎であった。
どの道光秀の行動についても情報を集めなければならないし、大垣城を攻める前に一度彼らの真意を確認することに決めた。




