変
四月中旬 岐阜城
「御屋形様、このごろ朝廷工作を行っているとしばしば明智光秀の手の者を見かけます」
相変わらず朝廷工作を行っていた千代女から報告が来る。
現在武田家の必死の工作により、朝廷から出た織田家と武田家の和睦は宙に浮いていた。一度出た勅命を取り消すことは出来ないが、公家たちから返答期限を延ばすべきではないかという声が出始めたのである。とはいえ事態は依然として予断を許さなかった。
しかし今回の勅命は信長の働きかけによるもので、光秀が関わっているという話は聞いたことがなかった。当然これまでも光秀の手の者を見かけることはなく、違和感を覚えた千代女は報告に来たのだろう。
「光秀の意図は分かるか」
「どうも、独自にこちらの意図を探っているように思います」
確かに公家とも親交のある光秀のことだからこちらの朝廷政策が気になっているのかもしれない。
しかし考えてみれば今は天正九年。本能寺の変の前年である。もしや本能寺の変というのは光秀が信長の朝廷政策を何らかの理由で知ってしまい、それで起こったものではないか?
不意に俺はそんなことを思い出した。本能寺の変に黒幕はいないとされているが、朝廷の意向とは関係なく、純粋に義憤に駆られた光秀が単独行動に及んだ可能性もある。
「試しに、光秀の手の者に一人二人捕まってみて欲しい」
「はい?」
千代女は俺の意図が分からずに首をかしげる。
「信長はおそらく朝廷に身内を嫁がせようとしている。そのことを試しに光秀に教えてやろう」
「そもそも明智光秀はそのことを知らないのでしょうか?」
千代女の反応は自然である。織田家で一番朝廷に近い立場である光秀が信長の朝廷政策を知らないとは思えない。
「分からぬ。ただ、知っているとしたらもう一度教えてしまっても問題ではないはずだ。仮に知らないとすれば、おそらく信長は光秀が知れば反対すると思っているから伏せているのだろうな」
「なるほど。やってみます」
数日後 近江坂本城
「何!? 上様が一族を天皇家に?」
自分で探らせておいて光秀は困惑した。てっきり公家衆がつまらぬ欲をかいて武田に味方しているのかと思いきや事は重大だった。もし事実とすれば光秀も家臣として看過することは出来ない。
「分かりません、もしかすると武田の謀略かもしれません」
光秀の忍びも困惑した。確かに武田家が信長を貶めるために流した噂と言われても納得いく内容である。しかしそれにしては公家衆の反応は真に迫っていた。噂に過ぎないのならば、公家衆がわざわざ武田の味方をする理由が思いつかない。
「羽柴殿に相談してみよう。あの方なら何か知っているかもしれぬ」
佐久間信盛の謀叛後、織田家の筆頭家老は柴田勝家であった。しかし勝家が朝廷事情に明るいとは思えず、仮に知っていたとしてもその重大さにまで意識が及んでいるのかは不明だった。
一方の秀吉は生まれが低いからか、比較的朝廷や官位にもありがたみを覚えているという印象があった。「筑前守」に任官されたときも、光秀が「日向守」になったときに形式的な喜びを表明したのとは対照的に無邪気に喜んでいたと聞く。
また、信長の覚えめでたいので何かの拍子に信長の意図を聞いている可能性もないではなかった。
数日後、秀吉が本願寺対策で天王寺砦まで来たところで光秀は密かに密会に向かった。そこでどのような話し合いが行われたのかはこの二人以外知る者はいない。そもそも、この二人の密会があったこと自体が発覚したのがだいぶ後年のことであった。
五月六日 坂本城
『佐久間信盛の包囲を受けている尾張清洲城の救援に赴くように』
光秀の元に信長から一通の書状が届いた。
実際のところ、秀吉が西国に、勝家が北陸にくぎ付けになっており、尾張・美濃衆が大垣城にて武田を警戒している以上尾張に救援に向かえる人物は光秀しかいない。だから書状の内容自体は不自然ではないが、強いて言えば光秀は時期が気になった。清州城は岐阜の戦いで信長が負けて以来ずっと危機に瀕していた。
「もしや朝廷を嗅ぎまわっていたのがばれたのではないか?」
光秀は少し疑問に思ったものの、命令は命令である。すぐに尾張救援のためと称して一万三千の兵を集めた。そして坂本城を出ると東海道を逆に西へ向かって移動した。この時兵士たちには“武田家に内通した公家を討ちにいく”という説明がなされたが、信じた者はあまりいなかったという。
翌日、京都に到着した光秀は信長が宿所にいる本能寺に向かった。兵士たちは最初は狭い京都の中にばらばらに布陣していたが、何人かが光秀を護衛する形で本能寺付近に向かった。そこで彼らは光秀と京都所司代の村井貞勝が何事かを話し合うのが見えたが、やがて貞勝はその場を離れたという。その後さらに光秀が数十名の家臣を連れて中に入っていくなどの出来事があった後、光秀は全軍を集めて本能寺を包囲した。
「たった今、上様を討つことになった。朝廷を蔑ろにし、権力を恣にする信長を討つべし!」
そこでようやく兵士たちは誰を討つのかを知った。まさか信長を討つことになるとは思わなかったが、戦国時代である以上主を討つことはあり得ることである。朝廷を蔑ろにしたというのが何を指すのかも明らかにされなかったが、下剋上の際の大義名分に過ぎないだろうとというぐらいに兵士たちは理解した。そして命令に従って本能寺へと突入した。
本能寺は土塁など本格的な城郭構造を備えていたとされるが、所詮は多勢に無勢、すぐに寺は制圧され、火の手が上がった。
武田家に負けたとはいえ天下人に一番近い存在であった信長の突然の死は諸国に大きな衝撃とともにもたらされた。




