光秀の苦悩
四月上旬 京都一条家屋敷
「入るが良い」
時の左大臣、一条内基が告げると数秒後、屋敷の縁側からすっと一人の男が現れた。そして一枚の書状を置いて来た時と同じようにすっと消えていく。一条内基は周囲をきょろきょろと見回しながら縁側に出ると、置かれていった紙を拾おうとする。そのときだった。
突然、屋敷の表の方で物音がする。かすかにではあるが「お待ちください」「火急の用だ」と言い争う声が聞こえてくる。本来左大臣の家に押し入ってくることなど許されないことだが、織田信長の上洛以来公家の権威は下がりっぱなしであった。もっとも、元から低かったとも言えるが。
そんなことを考えている間に足音はだんだん大きくなってくる。内基は舌打ちして紙をしまう。そして何食わぬ顔で招かれざる客を出迎える。そこに現れたのは明智光秀だった。旧幕府家臣と親しく、公家衆とも親交のある人物で、普段はこのような無礼な訪問をする人物ではない。
「これはこれは、いらっしゃるのであれば事前にお知らせくださればお出迎えしましたものを」
勝手に入ってくるな、という意図をこめて内基は述べる。が、光秀はそんな皮肉を無視して言う。
「このごろ公家の家に武田忍びが出入りしているとのことだったが、たった今この家にも胡乱なものが忍び込んだとの報告がございました」
勝手に他人の家に入って来て何を言う、と思ったが内基はその言葉をぐっと飲みこむ。どうする、どこまで光秀は知っているのか。
「我が家には誰も来ておらぬが」
「そんなことはない。噂を聞いて主だった公家の家は我が手の者に張らせてありますゆえ」
光秀は恐ろしいことを端整な顔立ちのままさらりと述べる。内基の背筋に寒気が走る。さすがに今を時めく信長の一二を争う家臣だけあってぬかりはない。内基は少し考えたが、決めた。強きには逆らわない。これは公家の処世術である。
「誰も来てはおらぬが、このようなものが落ちていた。まだ読んでもないが」
そう言って内基は先ほどの紙を渡す。光秀はまだ封がされていることを確認するとそれを開いた。
『桃の費用の件、確かに承りました。天井修繕の件、よしなに取り計らいお願いいたします』
(注……桃=仙桃御所。正親町天皇が譲位した後の御所の費用は武田が負担するということ。天井=天上=勅命。天井修繕は勅命取り消しのこと)
「どういうことでしょう?」
おそらく何かの隠語なのだろうということは光秀も理解したが、さすがにその意味までは分からない。
光秀は内基に紙を見せるが、内基も素知らぬ顔で首をかしげた。
「ううむ、この暗号には心当たりはございませんな。おそらく届け先を間違えたのでしょう」
そんなことがあってたまるか、と光秀は内心毒づいたが内基がとぼけている以上これ以上の追及は出来ない。まさか公家を連行して尋問する訳にもいかない。仕方なく光秀は紙を懐に入れた。
「最近京に武田忍びが出入りしているため、今後も何かあればお知らせ願いたい」
「もちろんです」
内基はすました顔で答える。光秀はやむなく退出した。
明智京屋敷
「さすがに公家め、容易に尻尾を見せぬか……どういうことだ。この文章は。誰ぞ、分かる者はおらぬか」
光秀は宮中事情に詳しい者や忍びを片っ端から呼びつけて文面を見せた。誰もが首を捻ったが、一人の忍びが遠慮がちに口を開く。
「これは武田忍びがもたらしたものと考えて良いのでしょうか」
「十中八九、そうだろうな」
「でしたら分かるかもしれません。桃というのは正親町天皇の仙桃御所のことでしょう。上様(信長)は御所の費用を出し渋っておりますので。一方、天井は分かりませんが、武田家はこたびの勅命への対応に苦慮しております。織田家の朝廷簒奪を大義名分に掲げたばかりに勅命に表立って逆らうことが出来ませんので。そのため、勅命を取り消すということではないかと」
「なるほど」
光秀はその者の分析に素直に感心する。
「しかし、だとすると彼らはなぜ武田と交渉をしているのか?」
いくら信長が御所の費用を出し渋っているとはいえ、京を押さえている信長の意向に沿わないということはありえない。仮に武田が勝つと思ったとしても、公家衆が時の権力者に従うのは当然のことで、武田が勝ったからといってそこまでひどい目に遭うとは思えない。それよりは信長に盾つく危険の方があまりに大きい。
だとすればその危険を冒してまでのメリットを武田が提示したか、信長にどうしても味方出来ないという事情があることになる。
「……今後は武田忍びだけでなく上様と公家衆の関係も見張れ」
「上様もですか!?」
忍びは驚愕の声を上げた。織田家にあって信長は逆らってはならない象徴となっている。もし露見すれば忍びだけでなく光秀もどうなるか分かったものではない。
「そうだ。一体上様が何をすれば公家衆は敵対するのか」




