譲位
朝廷編は私の妄想の産物と思ってお読みください。
その後俺は様々な伝手で織田家や朝廷の内情を探り続けた。武田家に滞在している貴族たちを伝手としたり、足利義昭の知り合いを経由したり、千代女ら武田忍びを送り込んだり。
その結果、一つの噂の存在が明らかになった。どうも正親町天皇は譲位の意向を示していたが、信長がそれを阻止しているというのである。信長が権力のために無理やり譲位を迫り傀儡にしやすい天皇を即位させるというのならまだ分かるが、譲位を拒むというのはどういうことだろうか。
そんな調査をしている数日後、岐阜城に千代女が現れた。普段敵陣や敵の城に乗り込んでも平然とした顔で帰ってくる千代女だったが、今回は珍しく憔悴しきっていた。
「どうした? らしくないが」
「いえ……公家衆というのはどうして誰も彼も回りくどい話し方をするのかと。忍び込んで会話の内容を一言一句記憶しているのに意味が分からないということが多々ありまして。しかもそもそも京言葉というのも分かりづらいですし」
千代女にしては珍しく愚痴のようなことを言う。それも彼らなりの処世術なのだろう。
「それでどうなんだ?」
「はい、これはあくまで推測なのですが、当初信長としては正親町天皇の譲位を望んでいたようでございます。皇太子である誠仁親王は信長の庇護を受けて元服し、現在も強い影響下にある方。親王が即位した方が信長にとって色々と都合がいいでしょう」
ちなみに、正親町天皇は必ずしも親信長という訳ではなかった。
「しかし正親町天皇が近年、いざ譲位を行おうとすると信長はそれをおそらくですが拒否しております。この譲位の理由については信長との駆け引きによる心労や年齢による病弱などがあるようです。実際、正親町天皇はこのところ何度か病に倒れているようです。譲位のためには新たな御所が必要となるのですが、なぜか信長はそれを拒否しているのです。正確には拒否していないのですが、理由をつけて先延ばしにしております。此度で言えば我らが理由になったようですが。そのため譲位自体も行えないまま時期が経過しているのです」
「なるほど。しかしそれを聞いてもやはり不可解だな」
それこそ親王を即位させて朝廷を意のままに操る好機なのではないか。
「はい。ここからは推測なのですが、おそらく信長は何かの要求が通らない限り譲位をさせまいとしているのでしょう。左大臣就任も駆け引きの一環のようです」
「その要求とは?」
「それがはっきりとは分かりませんでした」
千代女がうなだれる。
「ただ、公家衆はしきりに足利義満の名を出しておりました」
足利義満と言えば、武家では過去最高の権力を持っていた男である。確かに今の信長と近いと言えるかもしれない。しかしそれは義満と同じことを狙っているということか?
そこで俺は一つの可能性に思い至った。この国ではどんなに権力があっても適切な血筋でなければ天皇になることは出来ない。
しかしどうしてもそれに近い存在になろうとすれば、「太上天皇」という裏技(?)がある。義満は皇后の死を契機に正妻を天皇の准母としてそれを狙った。本来は譲位後の天皇に与えられる称号であったが、義満はそれを得ようとした。ただ、義満は結果的にそれを果たせぬまま死んでいったため先例はまだない。
「例えば、信長が一族の者を皇室に入れることを考えていたとすれば?」
「……その可能性はあるかもしれません。また、三職という言葉も出ましたが、これも出どころは不明です」
三職推任と言えば、朝廷が信長に征夷大将軍、摂政、関白のどれかに就かないかを打診した件である。ということは朝廷は織田一族の皇族入りを避けるためにそれを提案したのか、信長が三職を得るために掛けひきとして難題を持ち掛けたか。三職推任は研究者の間でも説が分かれているが、同時代に来ても真相が分からないとは。もっとも、この世界はすでに俺の行動で歴史が変わっているので同じ真相とは限らないが。
「いずれにせよ、公家の言葉では徹底的に主語がぼかされており、これ以上の内容は分かりませんでした」
「なるほどな。だが、それだけでもかなりありがたいことだ」
「いえ、力不足で申し訳ありません」
千代女が退出すると俺は代わりに足利義昭を呼んだ。義昭も勅命の件は知っており、緊張の面持ちでやってくる。
「何か妙手を思いつかれましたか?」
「ああ、俺が正親町天皇の譲位後の御所の建設費を負担する。だから代わりに勅命を取り消してもらいたい」
「しかし朝廷としてはそれでは自らの首を絞めることになるのでは?」
「だが、信長は朝廷に対して御所建設という駆け引き材料を失うことになる。それに朝廷とて本音では信長を利するような勅命は出したくないだろう」
信長が本当にそのようなことを企んでいるのなら、だが。
「なるほど、それでは一応手を尽くしてみるわ。ただ、御所建設費用以外にも膨大な金はかかると思う」
「それはこの際仕方ないだろう」
こうして勅命取り消し工作が始まったのだが、それは思わぬ方向へ向かうこととなる。




