勅命
「それを聞いた私は信長を排斥するべく運動を始めた。あのときはまさか信長があそこまで強いとは思わなかったけれど。浅井朝倉にはほとんど期待していなかったけど信玄殿が死んだときはさすがに焦ったわ」
義昭が追い出されたのは信玄が三河から撤退した直後だったような気がする。
「でもそれなら信長が朝廷を害そうとしているということを天下に述べて同盟を募るべきだったのでは?」
「それは考えた。しかし私がそれを知ったのは信長がふとその意志を漏らしたからというだけのことで、何か証拠が残っている訳ではない。それに毛利家は最初のころ、信長との全面対決を恐れていたから取り合ってはもらえなかったわ」
確かにそれは信長の内面に関わることで、証拠はない。流浪の将軍である足利義昭がそんなことを言いふらしても出まかせと思われるのが落ちであろう。
「もし信長の野望を挫くことが出来たらその後はどうする?」
「逆にどうされたい? 武田殿に将軍を譲っても構わないけれど」
義昭は本当に将軍職への未練はなさそうだった。元々三好や松永の非道が許せなかったから立ち上がっただけで権力への欲求はそんなになかったのかもしれない。
「そうだな……どちらかというと、将軍職を一度返上して欲しいと思う」
「なるほど。確かにそうするべきかもしれないわ。もうなくなったものをいつまでも続ける訳にはいかない」
義昭はほっと息を吐いた。
「では早速だが、諸国の大名に御内書を出してもらってもいいだろうか。今回は信長が朝廷を簒奪しようとしていることも含めてな」
「分かった。御内書を書くのは得意だから」
そう言って義昭は自嘲気味に笑う。笑うところかもしれないが、俺は笑えなかった。
こうしてその日のうちに足利義昭の名の元から『信長の追討』の御内書が全国に出された。主な対象は伊達輝宗、蘆名盛隆、佐竹義重、北条氏政、上杉景虎、俺、徳川家康、佐久間信盛、雑賀衆、三好康長、長宗我部元親、毛利輝元、大友宗麟、竜造寺隆信、島津義久らである。さらに羽柴秀吉、柴田勝家、明智光秀、滝川一益ら主要な織田家臣にも出された。
すでに何度か御内書を受け取ったことがある者たちも今回は朝廷簒奪という内容が加わったことに顔色を変えた。とはいえよく読めば証拠がある訳でもなく、そもそも信長がそんなに簡単に討てるならば苦労しない。御内書が出たからといってすぐに情勢が変化する訳ではなかった。そういう意味では義昭の予想は大体当たっていたと言える。
さて、御内書を受け取って一番動揺していたのは毛利や長宗我部ではなく、実は明智光秀であった。
旧幕府家臣を家臣とし、細川藤孝とも姻戚関係にある光秀だったが、すでになくなった室町幕府への忠誠心という物は持ち合わせていなかった。仮に幕府を再興したところで、折れた骨を釘で打ち付けてつなぎとめるほどの意味しかないと感じていた。
しかし信長の朝廷簒奪の意志については光秀としても心当たりがあった。この年信長は左大臣に推薦されているが、武田征伐を理由に返答を保留している。これまでも信長は右近衛大将になるまでは無官でいた時期が長かった。これは官位という朝廷の権威の下につくことへの反発ではないか。
また、年初には朝廷へ圧力をかけるかのような馬ぞろえ、天下人の象徴とされる蘭奢待の切り取りなどの思わせぶりな行動を繰り返している。これまではそれを深く気にしていなかった光秀だったが、御内書を読んで不安が頭をもたげた。
「とはいえ、この状況で上様もあえて朝廷と事を荒立てることはしないはずだ。上様が左大臣を受ければ足利義昭が何を言っても無駄だろう」
そう考えた光秀は京にいる信長の元に向かった。このとき、武田に敗北した信長は朝廷に対武田和睦工作を依頼していた。滝川一益ら伊勢衆や、池田恒興ら尾張衆らが大垣城や清州城を守り、柴田勝家は再び北陸戦線に戻っていた。もし信長と会話して良くない雰囲気を感じ取ったら。光秀がその可能性を考えなくはなかったかもしれない。が、結果として二人の会談はつつがなく終わった。
数日後、信長は左大臣に就任した。こうして織田家中においてはひとまず信長の朝廷簒奪に関する噂は根も葉もない物とされた。あるいは、過去にそう考えたとしても今はそうではないと思われた。
そしてそれと同時に武田家の元に織田家との講和を命じる勅命が届いた。
勅命を読んだ俺は息を呑んだ。武田家と織田家が現状の領地割で停戦することを合意するというのは別にいい。しかし和睦の対象には上杉、徳川、佐久間といった対織田家で連合している勢力は含まれていなかった。ということは和睦を飲めば俺が織田家と停戦している間に同盟勢力が滅ぼされるということである。当然そのような条件を飲める訳はない。
しかし義昭を担ぎ、信長が朝廷をないがしろにしているという内容を諸国に伝え、朝廷を擁護する姿勢を見せた以上、勅命に逆らうのは外聞が悪い。例え朝廷が信長の言いなりだったとしても。
勅命に従わない大義名分を探さなくては。俺は決意した。




