将軍
信忠討ち死にの噂は瞬く間に戦場を駆け巡った。千代女が忍びを必死で駆使して流してやっとのこと広まった噂だったが、事実になるとその数倍の速度で戦場を拡散した。
また、ほぼ同時に信長が退却したことも明らかになり、織田軍の士気は崩壊して総崩れになった。比較的戦場の隅にいて無事だった滝川一益が殿軍を務め、何とか退いていったという様相であった。こうして俺たちは勝利を収めたのである。
が、俺にとって重要なのは逃げていく織田軍を追うことではなかった。目の前にそびえたつ岐阜城である。斎藤道三が築き上げた難攻不落の稲葉山城をさらに整備した岐阜城は東国でも小田原城や春日山城に次ぐ堅城ではないか。しかし今こちらには五万の兵がいる。俺はすぐに城攻めを開始した。
広大な城郭を持つ岐阜城であったが、籠る兵力が三千では隅々まで守ることは出来ない。すぐに山麓の郭などは相次いで落ちていった。が、寄せ手が山の中腹辺りまで攻め上がると途端に抵抗が激しくなり、進撃はぴたりと止まる。
やはりこれ以上はすぐに落とすのは厳しいか、攻城兵器でも作らせるか、などと考えていると。寄せてが攻めあぐねる中一つだけ山の上へ上へと進んでいく部隊がいた。旗指物を見ると佐久間信盛である。
「ほう、佐久間か」
信盛が城攻めが得意であるという印象は全くなかったので少し驚く。
「どうも城内に籠る美濃衆に、佐久間殿の恩を受けた方がいたようです」
いつの間に俺の側に現れていた千代女が小声で報告する。古参の家老である信盛ならそういう者が多くても不思議ではない。俺たちが五万の兵で攻撃を続けても城が落ちたかは何とも言えない。ある意味武力よりも人の縁というものは重要なのかもしれないな、と思った。
その日の夜、内通者が出てはさすがに守り切れなかった斎藤利治は城に火を放って切腹した。信長が築き上げた天守に武田軍が土足で入ることが耐えられなかったのかもしれない。俺が城に入ったときにはすでに天守は焼け落ちていた。
岐阜城の戦いの後、佐久間軍と徳川軍はそれぞれ尾張侵攻のために岐阜城を離れた。敗走した織田軍であったが、美濃大垣城に集結して次なる武田の侵攻に備えていた。
三月一日 岐阜城
岐阜攻めから数日後、焼け落ちた城の修繕や恩賞の手配などを行っている俺の元へ一人の人物が現れた。足利将軍家の一色昭秀である。
そもそもこのころ足利将軍家がどうなっていたか。元亀四(1573)年、信玄の上洛に応じて挙兵した足利義昭は信玄の死により窮地を脱した信長により京都を追われた。その後いくつかの城を転々とした義昭は毛利輝元を頼り、備後国鞆という地で相も変わらず信長包囲網を画策していた。
実は俺が転生する前の勝頼も足利義昭の斡旋で上杉と和睦するなどしていた。その一方毛利家に上洛をけしかけたり本願寺を煽ったりしていたが、あまり芳しい成果はなかった。そんな足利家の使者が一体何の用だろうか。
「まずはこのたびの大勝、心からお祝い申し上げます」
岐阜城の謁見の間に通されたのか一色昭秀はうやうやしく頭を下げた。各所でこのようなことをしているのか、その仕草はかなりこなれていた。これが力を失った将軍家の悲哀か。
「ありがたく受け取っておく」
特に謙遜する理由もなかったので俺は素直に答える。
「武田殿の大勝には公方様もお喜び申し上げております。備後国に流れ着いたときは消沈されていた公方様もこのごろは武田殿の動向を聞くたびに一喜一憂され、武田殿が勝利すると聞くとわがことのようにお喜びでした」
「そうか」
話が長いな、と思いながら適当に相槌を打つ。将軍も贔屓のプロ野球チームが調子がいいときのファンみたいだな、と思うと少し滑稽であった。
さらにその後も昭秀の中身のない話は続いていく。
「……という訳で公方様は是非武田殿の元に身を寄せたいと考えております。武田殿も由緒正しい清和源氏の流れ。公方様を奉じるのにこれ以上の適任がいるでしょうか」
とりあえずこいつは今すぐ毛利輝元に謝るべきではないか、というのはさておき。足利義昭。すっかり忘れていた存在である。実際史実の日本史では特に活躍らしい活躍もなくフェードアウトしていく存在であった。
しかしもし俺が織田家を打倒して上洛するのであれば、有効なカードとなるかもしれない存在である。
「いかがでしょう、もし織田家を討伐した際には公方様は同じ源氏である武田殿に政治を任せても良いと仰せです」
俺が考えていると昭秀は俺に将軍位を譲ることまでちらつかせてきた。幕臣とはいえほぼ何の権力もない彼の言葉なのであてにするのは良くないだろうが、特に源氏でもない信長ですら本能寺の変の直前には将軍位を提案されたという。だから俺が信長を倒した後将軍になってもおかしくはないのだろうが……。特に足利幕府を継ぐ形での将軍にはそこまでなりたくない。
「なるほど、しかし公方様を迎えるとすればこちらもそれ相応の準備がいる。返答は少し待ってもらいたい」
俺はいったん保留にすることにした。
「もちろんでございます」
そう言って一色昭秀は退出した。転生して以来、織田家に滅ぼされたくない一心でここまでやってきたが、ここまで来れば滅ぼされることはないだろう。今なら和睦を持ちかければ信長も応じるかもしれない。だとすれば俺はその先を目指すべきだろうか。俺はそんなことを考えた。
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