穴山信君
さて、久しぶりに甲斐に戻った俺は跡部勝資から大量の決裁事項を渡されてげんなりした。せっかく戻ったのだからしばらくはゆっくりさせて欲しいと思う。しかも仕事が一段落したところで今度は俺の方から話題を勝資に振らなければならなくなった。
「ところで勝資は穴山信君のことをどう思う」
俺の言葉に勝資は渋い顔をした。
「このところ、あまり沙汰がありません。最初は駿河の状況など報告があったのですが、最近はそもそも連絡自体があまり……」
「そうか」
穴山信君は元々駿河一国を統率する権限を与えられていた。俺や、俺が転生する前の勝頼は上野に出陣したり越後に出陣したりで忙しく、信君は駿河衆を率いて独立勢力のように徳川家康との戦いを繰り広げていた。信君はそれを可もなく不可もなく成し遂げていたため、俺も忙しい中敢えて触れることもしなかった。
その結果、どんどん信君は駿河における権力を確立し、不干渉地帯のようなものを作り上げた。そして勝資が言うように、ブラックボックスのような空間が出来てしまったのである。そして徳川との和議が成った今、駿河に常駐している軍団は不要となる。
本音を言えば信君を駿河統治から切り離したかったが、特に大きな落ち度もなかったのに駿河支配権を取り上げるのは聞こえが悪い。
「何にせよ、呼び出してくるか」
最近会ってなかったので久しぶりに話したいと信君に使者を送ると、同時に千代女を呼び出した。
「徳川への間者を減らして、駿河と織田に振り分けて欲しい」
「織田は当然として、駿河ですか……」
千代女はかすかに眉を動かした。
「穴山信君の素行が気になってな。信長と決戦する折りに駿河衆が不参戦では話にならない」
「分かりました」
千代女は一礼して去っていった。
三日後
再び千代女は俺の前に現れた。今日は呼び出した穴山信君が午後に到着するため、いったん午前中に呼び出したのである。
「穴山殿の件ですが、まだざっと調べただけですがあまり良くない評判があります。穴山殿は岡部正信殿、依田信蕃殿に兵を出させ、自らは兵をあまり出しておらず、余った資金で私腹を肥やしていると」
「事実のようなのかだけでも分かるか?」
「確実でないことは申せません、としか」
三日の調査だけでは分からないだろうな。しかも駿河と甲斐を往復する日数を含めれば調査時間はほぼなかっただろう。千代女の中に予感のようなものはあるのだろうが、忍びとして憶測は口にしたくない、という意識が感じられた。俺としても信ずるに足る証拠がないのならば無理に聞きたくはない。
「ありがたい。今後もよろしく頼む」
「殿、穴山殿が参られました」
千代女が消えるのと入れ替わりに信君来訪の使者がやってくる。
信君は幼いころ疱瘡を患ったらしく、顔には今でもおおきなただれのようなものが残っている。長篠の戦いではろくに戦わずに戦線を離脱したこともある。良くも悪くも掴みどころのない人物である。
「これは御屋形様、お久しぶりでございます」
信君は部屋に入って来るなり人懐っこい笑みを浮かべる。
「そうだな。駿河での戦いご苦労であった」
「いえいえ、このたびの和議、祝着でございます」
「徳川との和議がなった以上、もうすぐ信長が大軍を興してくるだろう。是非その際は力を借りたい」
「もちろんでございます」
信君は微塵も渋る様子を見せなかった。少し意外だな、やはり悪い噂は噂に過ぎなかったのか、と思い直す。
「ちなみにどれくらいの兵力を出せそうか?」
「駿河衆から三千ほどは大丈夫でしょう」
「少なくはないか?」
常に信君は五千~七千ほどは出していた印象だが。俺の中で再び疑念が大きくなる。
「ですが駿河の石高はおそらく十万石と少々。となれば三千が適正かと。ここまで徳川の侵攻に対しては緊急時ゆえ大量の兵を集めましたが」
十万石か。駿河一国で三十万石ぐらいあるイメージだったが、意外と少ないな。しかし具体的な数字を出されると、「嘘だ」とも言えない。ちなみに軍役として一万石につき三百人というのは、適切かやや多い人数と思われる。
「そうか、それなら仕方あるまい」
その後、俺たちはお互いの近況報告などを兼ねて雑談しながら酒を飲み交わした。さらに、駿河での信君の戦いぶりを聞きたいなどと理由をつけて俺は信君の甲斐滞在を引き延ばした。信君曰く、駿河は常に徳川勢との戦いを強いられており、国としては非常に疲弊しているという。それでも、織田との戦いであればはせ参じます、と信君は目を潤ませて言っていた。やはり大名として家臣が言っていることの真偽を判断出来ないというのは困りものだな、と思った。
さらに三日後、千代女が再び報告に現れた。その表情は前回よりも深刻である。
「どうだった?」
「まず、駿河の石高ですが穴山殿の申告はおそらく間違っておりません。前任の山県殿の時もそんなものでした。ただ、遠江の武田領が減ったため、動員兵力が減ったところはあるかと。ただ、穴山殿は駿河に加えて甲斐における自領を持っており、そこからさらに四万石前後、さらに石高にはカウントされていませんが駿河には安倍金山があります。そこからの金の収入などがあったため、穴山殿はさらに多くの兵を動かすことが出来ると思われます」
「やはりそうか」
いくら何でも駿河での三千は少ないと思っていた。千代女の報告を待つため信君を躑躅ヶ崎館に留めていて良かった。
「駿河の民が疲弊しているというのは?」
「それは本当でしょう。甲信に敵軍が侵入してくることはありませんが、駿河は常に小競り合いが起こっておりました」
「うーむ」
報告を聞いて俺は唸る。動員兵力は少ないが、民が疲弊しているからと言われればそれまでである。
「ただ、それが不当かどうかは別として、穴山殿は江尻城に大量の金銀をため込んでいるようでございます。具体的な量までは分かりませんが」
「なるほど、状況的には限りなく怪しいが、足がつくようなことはしていないということか。厄介だな」
俺は唸った。一門衆の筆頭であり、功績も挙げている信君を安易に処分することは出来ない。信君の面子を潰さずに釘を刺せ、さらに戦いまでに戦力にする方法があるだろうか。




