刈谷崩れ
十二月十七日 刈谷城周辺
「何、勝頼が全軍を率いてこちらに向かっている!?」
「はい、岡崎城周辺からは一人残らず撤兵しております」
「そんなことがある訳ない……」
知らせを聞いて織田信忠は頭を抱えた。刈谷城に籠る兵力は二千ほど。囲む兵力は一万以上。いつも城壁に肉薄するところまでは進め、時には城内に侵入するところまで行くのだが、なぜか城は落ちない。
そもそも一度鳴海城を落としておきながら信盛の刈谷城入りを許した時点で信忠はかなり焦っていた。そんな中にこの報告である。
「誤報では?」
側で聞いていた滝川一益も首を捻る。しかし信忠は力なく首を振る。
「だがこの者は我が軍に入って長い。敵の間者などではない」
「しかしいくら徳川が先の戦いで敗れたとはいえ、背中を晒せば追撃は不可避と思われますが」
一益が常識的な論を述べる。それを聞いて信忠は使者に問う。
「ならば徳川の様子はどうだ?」
「いえ……動きはありませんでした」
ちなみにこのとき勝頼を追撃するかどうかの軍議が行われていたのだが、さすがに一介の物見はそこまでは知らない。
「徳川が武田の動きに気づかないなどということがあるだろうか?」
「ありえないでしょう」
自分の領地にいる武田軍の情報を織田家よりも遅れて入手するなど普通はありえないだろう。つまり、必然的に知っていながら追撃を行わなかったということになる。
「徳川は単に敗戦の痛手から追撃を控えただけだろうか」
信忠が問う。
「しかしそこまでの痛手を負ったのなら武田はみすみす徳川を見逃すでしょうか。私が勝頼ならこの期に乗じて徳川を討ちます。頼りになるかどうかも分からない佐久間を助けるよりも、徳川を叩く方が優先でしょう」
「わしもそう考える」
二人の意見は一致した。
「つまり、わしは徳川殿に愛想をつかされたということになるのだろうか」
信忠は自分の行動を思い返す。致し方なかったとはいえ、改めて徳川の立場になってみればひどいと思われてもやむをえない。
「何にせよ、今度こそ武田を破らねばなるまい」
「はい」
二人が武田を迎え撃つ準備にかかろうとしたときだった。一人の使者が息をきらして駆け込んでくる。
「信忠様! ただいま刈谷城に入ろうとする兵士を捕えたところ、徳川殿のところへ行っていたと白状しました!」
「まことか」
武田が信盛の救援に向かっているということは信盛が救援要請を出した可能性が高い。信盛は同時に家康にも救援を求めるか、もしくは武田と和睦するよう使者を出したのではないか。
「大声を出すな!」
「すみません」
事態の深刻さに気づいた一益が使者を怒鳴りつけるが、すでに今の内容は周囲に聞こえてしまっている。本陣の外から兵士たちが「徳川殿が信盛と結んでいる?」などと話すのが聞こえる。
そこへさらに別の使者が駆け込んでくる。
「申し上げます! 武田軍の旗指物の中に、武田菱に混ざって葵の旗が翻っております!」
「大声で言うなと言っているだろうが!」
苛々した一益が怒鳴りつけるが遅かった。すでに使者の言葉は周囲に聞こえてしまっている。言うまでもなく葵は徳川の家紋である。これではまるで徳川と武田が結んでいるかのようである。
「武田が動いた時徳川は動かなかったと聞いた。これは武田の謀略に違いない! 皆の者を黙らせましょう!」
「分かった」
一益の言葉を受け入れた信忠はすぐに全軍に箝口令を敷こうとする。しかし物見を出しているのは信忠だけではない。すでに武田菱と葵の旗を翻した武田軍がこちらへ向かっているという情報は織田軍内に知れ渡っていた。
「ええい、武田軍一万ごとき何ほどのことがある。我らの元にはまだ一万五千の兵がいる! 落ち着いて迎え撃てば必ず勝てる!」
一益は何とか兵を叱咤激励しようとした。しかし先日の信盛の裏切りがあったこともあり、徳川が攻めて来るという報は兵士の心を揺らした。
さらに刈谷城からは武田の援軍に息を吹き返した佐久間軍が盛んに援護射撃をしたこともあり、織田軍の動揺はさらに広がる。そこへ武田軍が姿を現す。武田軍の傍らには葵の旗を翻す軍勢が共に行軍している。
「かかれ!」
そこへ武田軍一万が突撃してきたため結果はひとたまりもなかった。急な応戦となり、柵などの準備も遅れていたことがあだとなった。
実際は一益の予想通り、武田軍は先日の戦いで討ち取った徳川兵の旗指物を奪って使っていただけだったのだが、それでも織田軍の動揺を誘うには十分だった。
「くそ、鳴海城を落とした際に信盛さえ捕えておけば……」
一益は歯ぎしりして悔しがるがどうにもならない。仕方なく直属の兵士を率いて殿軍を務めたものの、敗走は止まらず鳴海城はおろか、清州まで退却することとなった。
そして翌日、信盛は意気揚々と鳴海城へ戻ったのである。




