徳川不穏
家康のキャラが思い出せない……
十二月十五日 岡崎城東方 徳川本陣
岡崎城の戦いで敗れた徳川軍は這う這うの体で敗走した。同数の兵力で戦いが始まったとはいえ、結果は三方ヶ原以来の大敗であった。落ち延びた徳川家康の元に集まっている兵力は一千ほど。残りは討ち死にしたり逃げ散ったりしているのだろう。敗因は明らかに駿河からの強行軍であるが、それに関して不満を漏らす者はいなかった。故郷が荒らされていたら誰だって急いで戻ってくる。
「殿の判断は間違っておりませんでした。ただ我らの力が及ばなかった、それだけでございます」
陰鬱な雰囲気が漂う本陣で酒井忠次がまず頭を下げた。家康はそれを黙って聞いている。
「そうです、勝敗は時の運と申します。三方ヶ原の折も屈辱に耐えて長篠で雪辱を果たしました。今度は織田殿に兵を借りて再戦しましょう」
本多忠勝は負けたばかりなのに意気軒高であった。が、それにも家康は端整な顔を歪めて口をつぐんだままであった。
そこへ服部半蔵が影のようにぬっと現れる。常に能面のように動かぬ表情を顔に貼り付けている不気味な男だが、彼の情報は信頼できる。が、そんな半蔵もこの空気に少しだけ表情を曇らせていた。
「殿、このような時に伝えるのは心苦しいのですが……奥平貞能から勝頼への使者を押さえました」
「やはりですか」
ようやく家康は言葉を発した。奥平貞能は元々山家三方衆と呼ばれた奥三河の豪族であった。信玄の三河侵攻時には菅沼氏らとともに武田についたものの、その後徳川に再属。長篠の戦いの折には五百の兵で武田軍一万五千の包囲を耐え抜いた。ただ、裏を返せば彼らは常に強い方に味方していたとも言える。
「おそらく、武田に寝返るというよりは万一の時のために保険をかけようとしたものかと」
服部半蔵は氷のように感情のない声で話す。
「殿、織田信忠殿からの使者がやってきました」
「通しなさい」
家康が短く言う。織田家からの使者はまさかここまでの大敗とこのような雰囲気になっているとは思わなかったのだろう、目を白黒させて困っている。
「申し訳ございません、我が主織田信忠殿より、鳴海城を逃れた佐久間信盛が刈谷城に籠ったため救援には向かえないと」
居並ぶ徳川重臣たちの視線にさらされた使者は気まずさでいっぱいだった。
「佐久間殿は鳴海城が落ちた時に備えて、鳴海城に間に合わなかった兵力を刈谷城に集めて起き、落城間際に脱出して今度は刈谷城に籠ったとのことです」
服部半蔵が補足する。しかしだからといって信忠が助けに来ないのは同盟国として許されるのか。そんな雰囲気が無言ながらもその場に流れる。
「では、御免!」
いたたまれなくなった織田家の使者は頭を下げて走り去った。
後に残された者たちの間に再び重い空気が垂れ込める。誰もが「佐久間信盛など放置して勝頼を何とかして欲しい」という気持ちに満ちていた。
「武田につきますか?」
ぽつりと言葉を発したのは井伊直政だった。実を言えばこの場の誰もが考えていたことだった。信玄の三河侵入時にも出た話題だったが、結局信玄の病死の方が早くそのときはそれで終わった。
しかし勝頼は三河から出ていく様子はまるでない。武田軍は農兵から専業兵士に切り替えを進めており、補給さえあれば年中兵を出すことが出来るという。そして彼らは三河からせっせと略奪にいそしんでいた。
そもそもこの度の三河侵攻は織田家がきちんと岩村城や明智城を防衛していれば発生しなかった出来事だった。
「確かに今の武田は上杉・北条と結んではいる。しかし上杉と武田が束になっても織田家には敵わないだろう。北条が関東から出て来るとも思えない」
忠次が反論する。
「しかし武田は同盟国である北条のためにわざわざ越後まで兵を出して御館の乱に介入した。織田家はどうも我らを捨て駒扱いしている気がしてならん」
直政はなおも懸念を口にする。それについても、誰しも心当たりがあることなので沈黙が広がった。家康と信玄が対立していた時も、信長は懸命に信玄の機嫌を取り結ぼうとしていた形跡があった。もちろん徳川領への侵攻をやめさせようというのが第一の目的だろうが、最悪美濃よりも三河に侵攻して欲しかったという気持ちがなかったと言えるだろうか。
「そもそも荒木村重殿や佐久間信盛殿などの重臣が相次いで謀叛を起こしているのは織田殿にも何かしらの問題があるからでは? 荒木殿は知りませんが、佐久間殿は温厚な方。とても野心や私欲のために叛く方には思われないが」
そう言って直政はちらっと半蔵の方を見る。
「お互い、部下が起こした不祥事を咎められるのを恐れた、というのが原因のようです」
「だが、織田殿は叛いた者には容赦しない方だ。これから西国の大軍を率いてとんぼ返りしてくるかもしれぬ」
忠次は直政の懸念は否定しないが、否定的な意見を述べる。
「佐久間殿や勝頼と連携すれば我らとて織田殿にひけをとらぬのでは? それに織田は北陸でも負けたと聞く」
「それでも耐えて織田殿の救援を待つべきではないか」
直政と忠次の話し合いはなおも続くが、徐々に議論はどちらの方が脅威かの平行線に収束していった。それを見て家康は口を開く。
「忠勝や康政はどう思う」
「元より、敵が誰であろうと殿のために槍を振るう所存」
「それがしも同様でござる」
そう言って二人は頭を下げる。
「よし、ならば半蔵は勝頼に密使を送るのです。我らが武田につけば勝頼は織田殿に勝てるか。それも探りなさい」
「承知いたしました」
半蔵はぬっと姿を消す。
「とりあえず忠次からも勝頼に和睦交渉の使者を送りなさい。実際に結ばないにしてもこれ以上領内を荒らされるのを見過ごす訳にはいきません」
「それは確かに」
もしこのまま何もしなければ勝頼は徳川の戦意を折るために略奪や放火を繰り返し、三河遠江国衆への調略を繰り返すだろう。そうなれば徳川の支配は瓦解する。織田の援軍を待つにしても時間を稼ぐ必要はあった。それを理解した忠次も準備にとりかかった。
すみません、徳川が裏切るか裏切らないかで悩んでいました。




