岡崎城包囲
翌日、武田軍一万は怒涛の勢いで三河へ南下した。小さい城や砦などはあったものの全て無視。ちなみに岡崎城周辺の刈谷城の城主であった水野信元は佐久間信盛の配下であったが、俺に内通したとの疑いで切腹し、刈谷城は信盛の直轄になっている。そんな事情もあって今の三河は空白地帯となっていた。
駿河から兵を返した家康も駿河の戦いで疲弊していたためか、単にそこまでのやる気がなかったのか、行軍は遅かった。そのため、俺たちは徳川軍よりも早く岡崎城へとたどり着いた。今頃武田軍転進を聞いて慌てて行軍を加速させていることだろう。
岡崎城は代々松平家の居城で家康生誕の城でもあり、家康が独立して以来居城となっていたが、家康が浜松城へと居城を移してからは嫡子信康の城となっていた。しかしその信康も切腹し、現在は石川数正が城を守っていた。もしかすると信康事件の余波により、謹慎的な意味で留守番をさせられていたというのが真相かもしれない。
さすがにいくら三河の防御が手薄だったとはいえ岡崎城は家康生誕の城。周辺の兵をかき集めて防御体制がとられており、石川数正も名将である。すぐに力攻めで落とせるとは思えなかった。
「信盛の様子はどうだ?」
俺は到着するなり千代女を呼び出して尋ねる。ちなみに城の方は固く門を閉ざし、撃って出る気配は全くなかった。
「それが現在も鳴海城にて防戦中でございます。信盛殿が単騎帰られてからも後を追った兵士と、地元でかき集めた兵士を合わせると二千ほど。本当はもっと集まるところだったのですが、予想外に信忠の行動が速く、鳴海城一城兵力二千のみの抵抗となったとのことです」
「なるほど。織田軍は一万五千と考えると信盛はよく頑張っているな」
「どうもどちらの軍も尾張・美濃の兵士が多いため、戦いづらい空気があるようです。また、どちらの陣営でも『織田軍は武田から逃げ出した』『籠城を続ければ武田は岐阜城を落とす』『信盛は武田に通じているので、武田が救援に来る』などの噂が流れているようです」
「すごいな」
俺は千代女の手回しの早さに感嘆する。
「いえ、私ではないです。自然発生的な噂もしくは信盛殿が流したものかと。そんな訳で意外にも城中の士気が高く、持ちこたえているとのことです」
もし信盛がやったのだとすれば手回しが早いな。信長に追放されたという話から無能かと思ってもいたが、身の危険が迫ると本気を出すタイプなのだろうか。もしくは『退き佐久間』の異名をとるぐらいだから防衛戦が得意なのか。いずれにせよ俺はほっと胸をなでおろす。
「それで信盛は我らに何か言っていたのか?」
「いえ。ただ信盛殿の本来の計画では織田と武田の戦いの動向を見つつ兵を集めて様子を見る予定だったようで……。信盛殿も予想外の速さに困惑している様子。すでに織田軍と戦ってしまっている以上、我らにつくしかなくなっているのではないでしょうか」
確かにそれはそうだ。こうなった以上完全に独立するか他の勢力につくかしかないが、周辺で反織田勢力と言えば武田しかない。
「織田軍の様子は?」
「信盛殿の反乱を鎮圧するのを第一としているようです。我らが三河にいるならば介入してくる可能性は低いものかと」
確かにここで反乱を鎮圧出来なければ今後も不満を持った武将が反乱を起こすかもしれない。それに信忠が武田戦線を放ってまで尾張に向かった意味もなくなってしまう。
「では徳川家康の兵力は?」
「八千ほどです」
こちらは一万。もし岡崎城に抑えを割いたとしても同等。兵力が同等であれば勝てぬ道理はない。
「よし、目指すは素早く徳川軍を壊滅させ、返す刀で信忠を破り信盛を味方にすること。だが、そのためにはまず徳川軍を野戦に引っ張り出すところからだな」
岡崎城周辺にはのどかな田園が広がっている。といっても今は真冬だから何もないが。住民たちも城や近くの山々に避難している。
「田畑を荒らせ」
武田軍一万は周辺の田に泥を投げ込み、民家を破壊した。農閑期であったためそこまでの被害はなかったが、出生の城を荒らされた家康は怒り狂うだろう。通常、このような戦法は行えば占領後の統治に問題が生じるためにあまり行わない。ただ、今回は岡崎城がすんなり落ちるとは思えなかったため実行した。岡崎城を落とすよりは徳川軍を破り、動揺した三河遠江の国衆を離反させることが主目的である。
三方ヶ原の時はそれに耐えかねて出撃したが今回はどうだろうか。そんなことを思いつつ俺は東の方角を見つめた。
週末更新休むかもしれません
合戦が続くとどうしても似た描写ばかりになってしまうのが悩みどころです




