金沢御坊の戦い Ⅰ
金沢御坊ではなく尾山御坊というのが正確っぽいです
十一月二十日 加賀津幡城
時は少し戻って十一月二十日。上杉景虎は越後越中の兵一万三千を率いて一向一揆が支配する加賀津幡城に入城した。
加賀は元々「百姓の持ちたる国」と言われるほどに一向一揆が盛んで、隣国越中にも波及しており、上杉謙信も前半生は一向一揆との戦いに追われた。だが、信長の台頭によりその関係性に変化が訪れる。信長が越前朝倉家を滅ぼすと、桂田長俊ら旧朝倉家臣に越前を治めさせる。しかし一向一揆が蜂起して越前は飲み込まれた。その後信長は柴田勝家らに越前一向一揆を制圧させ、さらに加賀・能登に侵攻させた。上杉謙信は一向一揆と和睦すると能登七尾城を降して加賀手取川で織田軍を破った。その後上洛の軍勢を起こす予定だったが、倒れて帰らぬ人となったという。
謙信の死後、再び織田家が攻勢に出て、柴田勝家ら二万近い軍勢が中心である金沢御坊を包囲していた。
「申し訳ございません、遊佐続光殿、病床にて来られないとのことです」
能登在番の鰺坂長実が申し訳なさそうに深々と頭を下げる。それを前に上杉景虎は深々とため息をついた。
「本当のところはどうなのでしょうか」
「おそらく、織田と上杉、優勢な方につくつもりかと」
長実は非情に申し訳なさそうに言う。
謙信時代は織田軍を破った上杉家だったが、御館の乱でその勢力は弱体化。しかし武田家の助力で越中では織田軍を破っており、現在北陸戦線ではどちらが勝つとも言えない状況であった。
「かくなる上は織田軍と戦う前に七尾城を……」
「お待ちください。七尾城は亡き謙信公も容易には落とせなかった城です。織田軍を目の前にして攻めるべきではないかと」
いきり立つ景虎を北条景広がなだめる。景虎も理性ではそれが不可能であることは理解していた。
「遊佐め、それを分かっていて……」
景虎は歯ぎしりをするがこればかりはどうにもならない。日和見しても大丈夫な状況だからこそ日和見しているのである。今出来るのは織田軍を破ることだけだった。
とはいえ上杉軍の到着に対する織田軍の反応は素早かった。金沢御坊周辺に砦を築くと柴田勝家は一万五千の兵を率いて津幡城周辺に布陣した。佐久間盛政・佐々成政ら織田軍屈指の猛将が揃っており、同数の兵力で勝負を挑んでも勝利はおぼつかない。しかもこの戦いでもし敗れるようなことがあればまだまだ弱い景虎の権力基盤は崩壊するかもしれない。
一方の織田軍にとってもここは敵地である。迂闊に戦端を開いて敗北すれば再び一向一揆が蜂起して大変なことになるかもしれない。そのため、お互い様子見の小競り合いに終始した。
十二月九日
「殿、石山本願寺より使者が来ております」
お互い決め手がなく、二十日ほど滞陣が続いたころ。津幡城に本願寺よりの使者が現れた。
「いい知らせだといいのですが」
景虎はやや緊張しながら使者を出迎えた。金沢御坊の下間頼純とは戦況報告の使者をやりとりしているものの、石山本願寺からの使者が来るのは初めてである。いい話か悪い話か。景虎は緊張しながら使者を迎え入れた。
「昨日十二月八日、天王寺砦の織田軍は佐久間信盛の離反により壊滅、本願寺への兵糧の搬入に成功いたしました。そのため、加賀の門徒にも改めて決起を促そうと考えております。近いうちに総攻撃を開始しますのでその折は是非呼応していただきたく」
「本当ですか!?」
思わず景虎は膝を打った。何がどうなって信盛が離反したのかはさっぱり分からないが、本願寺の勢いが強まれば織田軍が不利になるのは間違いない。ちなみに信盛の離反は本願寺の早とちりで、この時点で信盛はまだ行方不明である。
「はい。現在人をやって決起を促しているところでございます」
「分かりました。そのときは必ずや総攻撃を行いましょう。代わりにというわけではないですが、一つ頼みがあります」
「何でしょうか?」
「その足で七尾城に走り、同じことを遊佐殿にも言っていただきたいのです」
単に戦況が変わったことを伝えたいというのもあるが、北陸では本願寺の影響力というのは強い。その力にすがりたいという気持ちもあった。
「なるほど……承知いたしました」
使者は深々と頭を下げた。そんな使者を見て景虎は心の中で思った。
(今回は武田家の助力なしでこの私が戦えるということを証明しなければ)
信長包囲網は浅井朝倉とか上杉武田とかが入れ替わり立ち代わりですが、本願寺は常にレギュラー参加しててすごいですね




