第三次岩村城の戦い Ⅱ
「河尻秀隆討ち取ったり!」
昌恒が大声を上げるとわずかに抵抗していた織田軍は残らず潰走した。
昌恒は機動力に優れた騎馬兵三百を率いて岩村城周辺の山の中をうろうろしていた。そしてところどころに旗指物や案山子を設置して兵士を偽装していた。本来は偽装を終えた後に信忠軍の背後を襲う予定だったのだが、河尻秀隆が見破って城を出たのでその背後を突いたという訳である。結果として、昌恒は予想以上の戦果を挙げた。
織田信忠本陣
「武田め、いつの間にこれほどの鉄砲を……」
ひっきりなしに聞こえてくる銃声を聞きながら信忠はため息をついた。
「問題ありません。我らは岐阜からいくらでも弾薬の補給は出来ますが、向こうは甲斐からはるばる山を越えなければ補給が出来ません。いずれ途切れるでしょう」
斎藤利治は冷静だった。越中では苦汁をなめたものの、逆にその体験が彼を冷静にしていた。
「だが、長引けば父上の手を煩わせてしまう……」
それが信忠にとっての不安だった。せっかく信長は本願寺や別所長治をあと一歩のところまで追いつめている。それに父にいいところを見せたいと言う気持ちもあった。
「大丈夫です。焦らなければ兵力でも補給でも勝っている我が軍は必ず勝てます」
そこへ一人の使者がやってくる。
「信忠様、我が主河尻秀隆よりの伝言です! 岩村城周辺の武田兵は偽装だったため、これより武田の背後を突くためぜひとも呼応して出撃されたしと!」
「そうか、よし」
秀隆には城を空けた瞬間伏兵に城を襲われるようなことだけはあってはならないと厳命している。そのため念入りに伏兵を調べたのだろう、と信忠は思った。
「よし、我らも呼応して出陣する」
「は、はい」
秀隆が背後を突いた以上信忠も出陣するしかない。出陣しなければ秀隆軍は孤立する。だが、それでも利治は引っかかるものを感じた。
「使者殿、わしが誰か分かるか」
「? 斎藤利治様かと……」
使者は利治の意図が分からずに首をかしげる。利治の顔を知っているということは織田兵だし、困惑している様子は素のように思える。
(武田の間者が信忠様をおびき出すために偽ったということもないか)
利治はそれ以外に可能性は思い当たらなかった。
「いや、何でもない。戻って河尻殿に伝えてくれ。我らも今動くとな」
「はいっ、かしこまってございます!」
こうして織田軍一万は柵を撤去して突撃を開始した。
武田軍先鋒 荒木村重
「馬鹿め、わざわざ柵から出てくるとは。撃て撃て、織田の兵は弱兵だ!」
村重はわざわざ近づいて来る織田軍相手にほくそ笑んでいた。ある程度以上の数の鉄砲がそろった戦いで正面から突撃をかけるのは自殺行為である。もちろん兵力に差があれば押しつぶすことは可能であるが、村重は織田軍相手に三千程度の差で負ける気はなかった。
「絶対に退いてはならぬ。奴らに地獄を見せてやるのだ」
そう言って村重は不気味に笑う。そんな村重の狂気が伝染したのか、兵士たちも強気になった。しかもこの村重軍には丹波八上城の波多野秀治の残党も編入されている。負けたばかりに秀治を磔にされた彼らの恨みもすさまじかった。
「一兵たりとも近づけるな!」
「織田軍を皆殺しにしろ!」
「負ければ皆殺しにされるぞ!」
ある種異様な興奮が兵士たちを包んでいた。織田軍は銃弾の嵐に加えてそんな空気も伝わって来てひるんだ。その結果、数に勝ると言えども武田軍の前衛を突破することは出来なかった。
武田本陣
「御屋形様、河尻秀隆の残党は残らず城へ逃げ帰りました!」
「織田軍先鋒、荒木殿の兵を攻めあぐねているようでございます」
俺の元に続々と報告が来る。想定とは違う形になったが悪くない。
「よし、昌恒は騎馬隊を率いて右翼から、信茂は歩兵を率いて左翼から織田軍を押し包め!」
昌恒率いる騎馬兵一千が迅速に右翼から襲い掛かり、信茂は南信濃衆ら三千を率いて左翼からじりじりと織田軍に迫る。
こうして数に劣る武田軍がなぜか織田軍を包囲するという状況が出現した。それもこれも信忠の一万の大軍が二千ほどの村重の軍勢を抜けなかったためである。先鋒の兵士が猛攻をかけるも突破出来ず、左右から敵を受けた信忠軍は混乱に陥った。鉄砲を撃ち返そうにも鉄砲を持った兵士は前方に集中している。
「よし、俺も出るか」
俺は近くに立てかけてあった槍を手に取る。とはいえ、現在織田軍の最も勢いがある部分は村重を攻めている先鋒である。そこに突撃するのは無駄に損害が増えるので、そこは村重に任せておく方がいい。むしろ騎馬兵の突撃は鋭いキリのようなもので、織田軍に穴を開けるだけである。ならばその穴を広げる力が必要だ。
「右翼の昌恒の騎馬兵の後を追う」
こうして最後に残った本隊一千も動き出した。すでに前方に見える織田軍の左翼は騎兵突撃を受けて崩れている。俺はそこへ容赦なく襲い掛かる。
「織田軍何するものぞ! 長篠の恨み、ここで晴らしてやれ!」
左右から武田軍の攻撃を受けた織田軍は呆気なく崩れた。織田軍としては武田軍は河尻秀隆と挟撃するつもりだったので、先鋒に精鋭を集めていたためである。その精鋭も左右から挟撃されればひとたまりもない。しかも河尻秀隆が戦死したという噂(後で事実と分かるが)まで流れ始め、士気も瓦解した。
「くそ、かくなる上はわしが出る!」
「何ということを! 所詮ただの一敗、取り返す機会はいくらでもございます! 徳川殿も三方ヶ原で負けた際、屈辱を忍んで長篠で挽回しました。それを信忠様ともあろうことが早まっては困ります!」
「だが……」
「言い訳無用!」
斎藤利治は渋る信忠を強引に馬に乗せると馬の尻を叩いた。そしてまだ戦闘に参加していなかった本陣の兵士を集める。
「鉄砲隊、弓隊、長槍隊、それぞれ集まって隊列を組むのだ。きちんと迎え撃てば武田の追撃は恐ろしくはない!」
河尻秀隆の討ち死にという損失はあったものの、斎藤利治が残兵を指揮して殿を務めると武田軍も深追いはしなかった。兵力では織田軍が勝っており、下手に追撃して逆に包囲される危険があったからである。




