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三河異変

天正七年三月 躑躅ヶ崎館

「新田開発はうまくいっているか?」

「はい。甲信の主要な村で『戦はしないから耕作に専念するように』と通達を出したところ農民は安心して農耕に精を出しているようでございます」

 勝資の表情にもどこか安堵の色が見える。

「これで信長が攻めてきたらどうなることかと思ったが……ほっとはするが、逆に言えば向こうも着々と領地を広げているってことだからな」


 とはいえ荒木村重・別所長治の謀叛により毛利輝元が包囲した上月城の救援が失敗したなど全てがうまくいっている訳ではないという。もしやこの間に信長を攻めた方が良かったのではないか。ふと俺の脳裏にそんな考えがよぎるが、慌てて打ち消す。

 信長と本気で対峙したら昨年までの領国の状態では一年持たないだろう。しかもこちらで戦っていたとして毛利が信長の背後を突いてくれるかは不明だ。


「はい、ただ一つだけ問題なのは広げた水田を維持するためには人手が必要となります。つまり、今後も農民からの徴兵は難しいかと」

 無理に徴兵すればせっかく開墾したり荒れているのを復旧させたりした水田がまた荒れてしまう。

「その通りだ。だから兵士探しを頑張ってくれ。特に信長に滅ぼされた家の者たちはねらい目かもしれぬ」

「承知いたしました」


 そして勝資と入れ替わるように入ってきたのが千代女であった。

「三河の件ですがまた進展がございます」

「おお、本当か!?」

 うまく行けば徳川家に大打撃を与えられるかもしれない。俺の心が躍る。

「どうも西三河派は信康や築山殿(信康母)に接近しているようです。まだおそらく具体的な話は出ておりませんが。家督継承後に備えているのか、それとも……」


 松平信康。確か信長の命令で家康に切腹させられた人物ではなかったか。そこで俺の中で話が繋がった。そうか、信康が切腹させられたのは信長が信康の才能を恐れたからとか言われているが、実際のところ裏には徳川家内部の政治的な対立があったのか。それに西三河派の筆頭と言われる石川数正も将来的には出奔して秀吉の家臣となっている。もしかしたら派閥抗争に敗れて居づらくなっていたのかもしれない。


 ということが分かったとして、どうするのが正解なのか? おそらく信康や西三河派の家臣たちが仮に実権を握ったとしても今更武田の味方にはならないだろう。もし武田家が彼らの謀叛を後押ししたとして、そんなことがばれれば単なる派閥抗争ではなく敵への内通になってしまうので、向こうも断るに違いない。別にこのまま信康切腹でも徳川家に動揺が走るからそれでもいいのだが、せっかくの機会だからそれだけではもったいないような気もする。


「ちなみに西三河派は石川数正以外にどんな者がいる?」

「岡崎三奉行の本多重次・天野康景・高力清長、伊奈忠次、榊原清政といった面々でしょうか。とはいえ彼らも現在のところ家康に忠誠を誓っていますが」

 相変わらず向こうは人材が多くて羨ましいな。こっちは人材が少ない上にそれぞれそんなに仲良くもないと踏んだり蹴ったりだ。……そうか、それならこれを利用して何人かもらってしまうか。


「そうか。それならば個人的に彼らに接触していけ。内通などは断られると思うが、もし徳川家で何かが起きれば彼らを個人的に武田家に迎え入れる」

「かしこまりました」

 やや先を見据えた指示であるが千代女は淡々と頷いた。

「それからもう一つ。長坂釣閑斎が本当に賄賂をとっているのかも調べてくれ」

「はい」

 徳川家から出奔してきた武将を迎え入れる。そして代わりに武田家滅亡の原因とすら言われた男を処分しようと俺は考えていた。現状、処分しようにも人材がいなさすぎるので放置してしまっていた訳である。


 三河の状況把握と並行して、俺は勝資が諸国から傭兵を少しずつ集めてきたので彼らに銭を与えて遠江へ送っていた。入れ替わりに真田昌幸が連れて行った兵士のうち、農民の者たちを故郷へ帰した。こうして少しずつ兵士を専業化していこうという訳だ。

 この過渡期の状況で徳川家が攻めてきたら面倒だ。そう思っていたが徳川家はそれどころではなかった。


 五月、千代女の忍びのうちの一人が捕まったことから家臣団が武田と接触していたことが露見。そこから芋づる式に疑惑は西三河派に広がっていく。さらに家康の正妻にして信康の母である築山殿の元に武田の息がかかったと自称する滅敬という医者が出入りしていたことから問題は大きくなった。

 とはいえ石川数正含め西三河派の大多数は単に派閥を組んでいただけで別に謀叛や内通をしていた訳ではない。本当ならそれで収まるところだったのだが、東三河派の一部の者がこの期に彼らを完全に追い落とそうと追及。そこで信康が西三河派の家臣たちを擁護した。それだけなら無実の家臣を守った公正な嫡子、で終わっていただろう。

 しかし間の悪いことに信康が仲裁に乗り出したちょうどそのタイミングに西三河派の大賀弥四郎という者が武田への内応を申し出ていたことが発覚した。だが信康はあまりにも都合のいいタイミングでその事件が発覚したことに疑惑を抱く。ちなみに千代女曰く、内通は本当で見つかったのはたまたまこのタイミングで監視の目が厳しくなったからというだけらしい。東三河派の工作を疑ったものの証拠は出ず、信康は次第に追い詰められていった。


 そして八月、ついに信康は岡崎城を出て大浜城という城に移され、切腹させられた。ついでに母の築山殿も暗殺。事件の処理に不満を持った一部家臣が出奔するに至った。

信康切腹については諸説あるらしいです。

今回は家臣団の派閥抗争説に多少味付けしてお送りしました。

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