犬居城周辺の戦い
「む、真田勢は迎え撃つことにしたか」
大久保忠世は犬居城からの報告に気を引き締めた。撃って出るかは正直五分五分と思っていたが、それだけ付城が出来ると困るのだろう。
「兵力は」
「合計二千五百ほど、そのうち五百ほどの先鋒が突出してきているとのことです」
「ならば先手を打って先鋒軍を包囲するか」
徳川軍二千は突如行軍速度を速めると、敵の先鋒と接敵。武田勢は勇猛と言えど、四倍の戦力差は覆しがたかった。むしろ大久保忠世は後詰の兵力がいつ到着するかが気になり、しきりに間者を放っていたのだが。
「敵の後詰、撤退いたしました」
「何だと?」
そんなことがあるのだろうか。先鋒を援護するために出てきたのではなかったのか。
「敵先鋒壊滅、敗走いたしました! 追撃に移ります!」
忠世は何か違和感を感じたがここで追撃を止めるという決断はつかなかった。
「逃げた二千の兵士への監視を絶やすな! いつ反転してくるか分からぬ!」
壊滅という報告があったものの、敵先鋒は整然と隊列を崩さぬまま退却していく。忠世は軍勢の一部を割いて背後に回そうとするが、そうすると気づかれたのか敵は敗走の速度を速め、包囲を逃れた。しかし敗走を速めたということは隊列が乱れるということでもある。
「追撃!」
「おおおおお!」
徳川軍の追撃により武田軍先鋒は犬居城周辺まで逃げていく。ちなみに忠世が気にしていた二千の兵士は城内へ退却していたという。そして入れ違うように、犬居城から援護の軍勢が出発したという。
(元の真田勢が三千。先鋒が五百、二千の軍勢が退却。ということは城から出てきたのは五百か。まとめて踏みつぶす)
忠世は追撃を続行した。しかし。
「殿、我が軍の側面から二千ほどの軍勢が迫っております!」
「は?」
思わず忠世は何が何だか分からなくなった。しかし左の方を見ると遠くに武田の旗が見える。正確な数は分からないが五百では済まない。
(物見が数を間違えているだけで、大軍ではないだろう)
ちなみに物見はしばしば数を誇大報告する。急いでいる上に敵軍は動いているし、常に見通しのいい位置から敵軍を探れるという訳でもない。
「よし、全軍迎え撃て」
が、側面からやってきたのは本当に二千の軍勢だった。その先頭を駆けるのが今福昌和である。
「かかれ! 武田と徳川どちらが強いか教えてやるのだ!」
「負けるな! 敵は小勢だ!」
しかし追撃態勢に入っていた徳川軍が迎撃態勢に入る前に今福隊は突入する。逃げていた矢沢頼綱の先鋒軍も取って返し、徳川軍は崩れた。
「しかも何とも言えないが武田軍の動きが今回は機敏なような」
例え本当に二千の軍勢だったとしても、こちらも二千の軍勢である。立て直せば互角に持ち込める可能性もあった。しかしなぜか武田軍は動きが早く、応戦が間に合わない。
「なぜだ……」
不可解に思いつつも忠世は兵を退いた。武田軍も深追いしてくることはなかった。
「よくやった」
徳川軍を追い払うと、昌幸は昌和と頼綱を呼び出してねぎらった。
「いえ、先陣を賜り恐悦至極でございます」
「とはいえ敵軍を崩したのは見事である。頼綱も難しい役割をよう果たした」
「それよりもどんなからくりがあるのですか?」
頼綱は首をかしげる。
「簡単なことよ。二千の後詰こそが擬兵だったということだ。交戦してしまえばばれるだろうから敵に近づいてしまわないよう必死だったがな」
「何と! 殿自ら指揮していたのですか!」
「そうだ。最悪二千の人夫を失うことになりかねないからな」
この二千の兵士は信濃から兵糧を運んできた者などで構成されている。もし徳川軍にばれて攻撃などされようものなら全滅不可避であった。
「ところで首を獲らないというのはどうだ?」
「確かに身軽だったため、退却戦はうまくいったような気がします」
頼綱は思い返す。もし首を獲ったまま撤退していれば背後を断たれて包囲されていたかもしれない。
「言われてみれば相手と同数の兵でも押していたと思われます。とはいえ手柄を決める際、兵からの苦情も多く……」
頼綱は言葉を濁す。昌幸は苦笑した。苦情があるのは想定していたが、それで兵の動きが良くなるというのは収穫である。
「なるほど。とはいえ、実際に兵士の動きが変わる以上やるしかないだろうな」




