III
「ねえ、帰ってもいいかな? ぼく、あさって帰るから支度をしたいんだけれど」
クリスマスに浮ついた雰囲気も、年の瀬とみればちょっとばかり違った意味合いになってくる。年末年始を大阪で過ごすと決めていたぼくには、華やかな空気を楽しみつつも準備に忙しい頃合いだった。
多忙でも削りたくないのは、しばらく顔を見なくなる友人たちと過ごす時間だ。この日は三人ばかりの小さな忘年会――といってもラーメン屋さんで夕飯という、高校生に相応のささやかなもの――と洒落こんでいた。
しかし、時期と参加者が悪かった。そう、ぼく以外のふたりが。
「何を言っているんだ」ぼくの正面に座る黒色のフリースを着たクラスメイトは言う。「この会はクリスマスに予定がないのを笑って嘆いていたお前のためのものだろう」
「梓の言い方はどうかと思うけど、確かに変に気を遣うことはないな」その彼の隣に座る女子生徒は、ベージュのセーターがよく似合っていた。「大阪に行くからこそ、しばらく会わなくなる前に、今晩楽しくやっておかないと」
平馬梓と、江里口穂波だ。
あろうことかクリスマスイブ、ぼくはこのバカップルと一緒に忘年会を過ごすという地獄を味わっていた。どう考えたってぼくは邪魔者である。当人たちがどれだけ問題ないと言ったところで、ぼくの主観的意見としても、客観的にみてもこれは差し支える状況だ。こんなシチュエーション、あってはならない!
ラーメンはすっかり食べ終えていたけれど、せっかくだからと頼んだギョーザとチャーハン、そしてソフトドリンクを囲うテーブル席。平馬と江里口さんは、店内は空いているからと、のんびりと歓談して過ごすつもりのようだった。
ああ、早く帰らせてほしい。
「ねえ、本当に気にすることはないぞ?」江里口さんは、尖った口調に隠れる優しい為人で以て、本心からぼくを気遣っているようだった。「クリスマスはどうせデートの約束をしていないんだ。毎年あたしは家で家族と過ごしているから、デートどころではなくてさ」
真偽の確認に平馬の表情を伺うと、どうやら本当らしい。
「でも、クリスマスイブなら予定が空いていたってことだよね?」
「おれもそう思って誘っていたんだが、穂波が譲らなくてな」
気になることを切り出すので詳しく聞こうとすると、平馬ではなくその恋人が突然大声を出す。
「待て、それは内緒にしておけよ!」
しかし、捻くれ者は恋人の制止に耳を貸さない。それどころか、面白がって話を続けてしまう。
「久米が帰る前に会っておこうって。家入ちゃんが留学して、クリスマスも正月も別々だと寂しかろうと心配していたんだ」
ああ、と江里口さんがため息を漏らす。耳まで赤くなっていることは、顔を手で覆い隠していても明らかだった。
なるほど、心配してくれていたのか。確かに、寂しいのは正直なところだ。ふたりも、ぼくと才華がしょっちゅう一緒に行動するところを見て知っている。それが一か月も離れて過ごすとなれば、ぼくが寂しがることくらい想像に易い。ゴールデンウィークのあいだ会えないのも我慢できないバカップルらしい発想だ。
まったく、持つべきものは友ということか!
「まあ、あたしと梓は二六日にも二七日にも会えるから」
江里口さんの照れ隠しの一言に、ぼくの感動は興ざめしてしまった。余計なことを言わなければ、ぼくは気持ちよく友情に感謝して大阪に帰れたのに。
それにしても、と引っかかることがあった。
「平馬も江里口さんも、半年以上経ってなおぼくと才華が付き合っていると思っているのかい? 最近そういう話をされないと思っていたけれど、まさかわざわざ訊かなくなっただけだったとは」
「いや、そんなことはないぞ。もうそんなふうには思っていない」
あれ?
「じゃあ、どうしてぼくがそんなに寂しがっていると心配を?」
「同じ下宿で一緒に暮らしているんでしょ? それが離れ離れになって平気でいられるわけがないよ」
「……は?」
なんということだ。
ぼくはこれまで細心の注意を払ってきた。特に、平馬はクラスメイトとして言葉を交わす時間が長かったし、江里口さんは才華のことをよく知っているから、気の置けない仲だとしても口を滑らせてはならない要注意人物。親しくなって油断してきたとはいえ、正直、絶対に漏らしていない自信があった。
何がいけなかったのだろうか? 気がつかず同居を示唆することを言ってしまったのか? だとすれば、それはいつだったのか? もしかして、麗のときも隠し事がバレてしまったように、ぼくは隠し事がとても下手で、顔に出てしまうのだろうか?
「ああ、隠しきれているつもりだったのね」江里口さんは呆れたように頬を引きつらせて笑う。「だって、同じ方向から歩いて登校して、同じ方向に歩いて帰るんだもん。家入も久米くんも下宿とは知っていたから、もしかして下宿でも一緒なんじゃないかって。そうだとすれば、恋仲を強く否定するのも頷けるし」
親しくしていたから感づかれてしまったということではないか。これでは不可避だ。
「家入ちゃんが病気で休んでいたとき、久米はその場で見ているかのように詳しく状況を知っていたからな。あれから穂波と話していて、まさか、とな」
「……ああ、それは失敗したね。思い返せば、ペラペラ喋っていた気がするよ」
隠しているとはいっても、教える必要がないし、それで騒がれても嫌だというだけの理由だから、親しいふたりにバレてしまっても重く考えることはないだろう。足立先輩に自分から話してしまったのとも事情が違う。仕方がなかったと思うことにしよう。
仕方がないと思ったら、思いつくことがあった。
「そうだ、ふたりに見せたいものがあるんだ」
天才的バカップルは眉根を寄せて頭を悩ませていた。
ロンドンから届いた天才的友人からの手紙、同居の証拠となるそれを姫川先輩に見せることは憚られたが、事実に気づいていたふたりになら見せられると思って読ませてみた。しかし、そこに記された暗号の意味はふたりを以てしても難解であるようだった。
「あたしが読むことを予想して、しかも理解できないだろうと書いているのは癪だな。ロンドンからも挑発してくるとは」
さしあたって感想を述べる江里口さん。舌打ちでもするように表情を歪める。江里口さんが手紙を読んでもダメだろうという才華の自信は、決して過信ではなかったらしい。ふたりを相手にしても、そう簡単には解読させない。
しかし、そうは言っても平馬と江里口さんである――
「手紙の中に解読の鍵はあるものの、その鍵もこの暗号文から読み取らなくてはならないようだな」
「うん、その『鍵の鍵』が何かは、どうやら久米くんならわかるらしいな」
難解さを感じていても、的確に課題を捉え、解読への足掛かりを得ようとしていた。
「文面もそんなことが書いてあるし、そうは言うけれど、ぼくは正直さっぱりわからへんで?」
そんなこともないだろう、と江里口さんは手紙のその部分を指さす――「解読すべき暗号と鍵は、文章の頭から読めば、弥くんならすぐにわかるはず」という一文だ。これをやってみろ、という彼女からの指示である。
もちろん、ぼくだって解読に挑まなかったわけではない。挑んでみても答えを得られなかったのだ。三日三晩頭を悩ませても、その文章の頭から特別なメッセージは見出せていない。
「親しい人に手紙を書くのが小恥ずかしいだなんて、よくあることだよね? それとも、宛名のことを言っているの?」
これに対し、眼鏡の少女は「わかっていないな」と首を振る。
「『文章の頭』ときて、手紙の最初を読むのではありきたりだよ。こういう指示は、各文の先頭の一文字を読む、と解釈するんだ」
おお、その手があったか! 確かに「文章の頭」とは、手紙の文章の最初とも、一文一文の最初の文字とも考えられる。
それを聞いた平馬はペンを取りだすと、紙ナプキンを一枚引き抜いて、そこに文字を書きはじめる。
「くん」づけや敬語……く
英国生活は……え
おなじ歴史の……お
しかし……し
まだ弥くんは……ま
ゆめゆめ……ゆ
く、え、お、し、ま、ゆ
「おれなら望みなしと考えるが、どうだろう?」
平馬の結論を、江里口さんは渋々受け入れた。せっかく抜きだした六文字は、まったく意味不明な音の連続にすぎなかった。意味のある並びではないと見える。
自分の意見はどうなんだ、と江里口さんに迫られ、次は平馬がアイデアを披露する番だ。
「おれが思うに、唐突にわざわざ言及されるカエサル――これに何か意味があるような気がするんだ。家入ちゃんがただの歴女ということではないだろう?」
才華の手紙の書き方には違和感がある。平仮名が多用されているし、不自然なカタカナ語や倒置、古めかしい言い回しも見られる。暗号の出題だからとある程度目を瞑ってもいいのかもしれないが、本文の一部になっていることを踏まえると、カエサルへの言及に意味があるとみるのもひとつの手かもしれない。
では、そこから何を読み取るのか。平馬は答える。
「シーザー暗号でも使うんじゃないか?」
想像以上に安易な回答に、ぼくと江里口さんは言葉を失った。補習常連のぼくでも、古代ローマのカエサルが発明した、アルファベット順に単語の文字をずらす暗号法のことは知っている。
シンプルで使いやすい暗号を才華が用いていた可能性はあるし、それを文中に登場するカエサルで示唆することも考えられる。平馬の見解は安易だからと切り捨てる必要はないのだが、問題もある。
「でも、どこの文字を動かすんだい?」
そう、シーザー暗号は特定の文字列に用いるのだから、それが定まらないのでは大変だ。どの文字列の綴りを動かすのかわからないし、動かす文字数――シーザー暗号の鍵といえばこれだ――もわからない。
「さあ? 久米ならわかる、と家入ちゃんが書いたことじゃないのか?」
これでは話が堂々巡りするだけではないか!
江里口さんのアイデアでは、意味不明な文字列しか取りだせなかった。平馬のアイデアでは、暗号を適用する箇所や鍵が判別できなかった。ふたりの考えは充分参考になるものだけれど、決定打とはなりえず、しかも才華はぼくに期待を寄せているのだから、別の重要な手掛かりに気づいていないということだ。それさえわかれば、つまりぼくさえ問題の核心に迫れたなら、江里口さんや平馬の手法が活きることもあるかもしれない。
となると、ぼくなら何がわかるというのか? 野球のことくらいではないか?
「原点に戻らへんとあかん。もっと文面を注視するんや」
ぼくの掛け声に、バカップルのふたりもいろいろと意見を述べてくれる。自然な文体でないとか、平仮名が多いとかを、才華へのからかいを交えながら。でも、それらはぼくにでもわかる。前半の文章と後半の文章とで書き方がまったく違っているところから、才華がわざと変な文章にしたことは明らかだ。
先ほど江里口さんが指摘してくれたように、「解読すべき暗号と鍵は、文章の頭から読めば、弥くんならすぐにわかるはず」という一文が最大のヒントであることも忘れてはならない。解読すべき暗号と鍵は、ぼくの目につくように細工されて、問題の文章に含まれているらしい。
解読すべき暗号と鍵とは何か。
頭から読めば気がつく、暗号化された暗号の鍵、文の頭文字、シーザー暗号……
「ああ!」
わかった、わかったぞ。
頭の片隅にふと思いついたその方法を、試してみる価値はある。そうだとすれば、いままで解読に協力してくれた人たちの意見も組みこめるかもしれない。
突然声を上げたぼくに面食らったふたりをよそに、ぼくは平馬の真似をして紙ナプキンをメモ代わりに、ひったくったペンを走らせる。手紙から必要な部分を書き写し、線を引いたりバツをつけたり、作業に必要なものを書きだして解読に挑む。
復号方法ははっきりと思い浮かんでいて、思いつくままにペンを動かしていっても、手が止まることはなかった。意味不明な単語たちは作業につれて意味を成していき、ひとつの単語へと姿を変えていく。才華の意図の輪郭がだんだんと浮かび上がっていく。
解読を終えるまで、何分もかからなかった。
なるほど、そういうことだったのか。
才華は、これをぼくにお願いするのが照れくさくて暗号にしたのだろう。水臭くて面倒くさいことをしてくれたものだ。いつもみたいに「気にしない」ふうに、フランクにお願いしてくれればぼくはいつだって応えていたのに。
「これが欲しいだなんて、ぼくが張り切らないわけにはいかないね」
考えが追いついていない平馬と江里口さんは目を丸くしているが、もちろん、ふたりにも協力してもらおうではないか。